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●風の墓標

 クレア・シュミットが作成した報告書を手に、ローザマリア・クライツァール(ろーざまりあ・くらいつぁーる)も魍魎島を歩いていた。
 歩き方がぎこちない。魍魎島の戦いで撃ち抜かれた左膝の怪我がまだ治りきっていないのだ。
 ローザは、狙撃手クランジΙ(イオタ)進んだと思われる足跡を逆に辿った。
 大黒美空、ローザにとっても友人の彼女を、撃ち抜いたのはイオタの弾丸であることはわかっている。もしもの話は禁じ手といえど、それでも彼女は考えざるを得ない。
 もし、直接対決の狙撃で自分がイオタを倒していたら。
 あるいはもし、すぐに仲間を呼びイオタを回収していたら。
 それがならずとも、あのとき出会った吹雪というスナイパーに、イオタのとどめを刺すよう依頼することくらいできたはずだ。
 いずれにせよイオタを野放しにしなければ、美空の暗殺は防げたはずなのだ。
(「私の甘さが、一度ならずとも二度までも、大切な人を奪った……今の私に、再び現れたイオタを、今度こそ確実に仕留める事が、果たしてできるかどうか……」)
 左膝を貫く痛みは、まるで一緒になって自分を責めているかのように感じる。
(「なぜ、あのとき」)
 自分は一人だけでイオタを捕まえようとしたのか。
 いや、そもそも捕らえようとすることが間違いだ。すぐに二射目を放ち射殺しておけば良かったのだ。
 このとき、まるでローザの心を見透かしたように、
「無理だな」
 と、随身するグロリアーナ・ライザ・ブーリン・テューダー(ぐろりあーならいざ・ぶーりんてゅーだー)が言った。
「何?」ローザは、返答次第では、と言いたげな目をグロリアーナに向けた。
「無理だ、と言った――其方に、あの者は殺せぬ」
 あの者という呼び名が、イオタのことを指しているのは考えるまでもない。
「どうしてそんなことが……」
「それは其方が甘いからだ。優しいからだ! 確かに、戦場ではそれが致命的な結果を生む因子たり得るやも知れぬ。だが――」
 グロリアーナは苛立ちを隠そうともせず、雷光のように激しい言葉を吐き出していた。
「戦争なのだ! 一人が及ぼす影響で、全てが変えられる……そのような考えこそが傲岸不遜であると、未だ気付かぬか!」
 我慢できなくなったのだろう。それまで静観していたもう一人の同行者上杉 菊(うえすぎ・きく)が声を上げた。
「……! ライザ様、御言葉が過ぎまする……!」
 普段は仲の良いグロリアーナと菊であるが、このときばかりは宿敵同士であるかのように睨み合った。
 グロリアーナは、女王の威厳を持って。
 菊は凛乎と、さすがは信玄公の息女と畏れられたあの気迫とともに。
「たとえ言葉が過ぎようと、妾は、妾が思うことを言うぞ」
 グロリアーナは菊を牽制するようにそう宣言し、改めてローザマリアに向かって述べた。
「恐らく、これからも其方はあの者を憎むであろう。今度こそ己が手で仕留むる事が、散って行った者達への、せめてもの手向けと思うであろう。しかし――」
 一旦言葉を切ったが、改めて続けた。
「しかしそれが、本当に誰かの望む結末なのか、もう一度、己が胸に聞いてみる事だ」
「……復讐も、また動機であり動力よ。でも……」ローザは伏せていた顔を上げた。足の痛みは忘れた。「私は、あくまで自分の意志で、イオタのことには決着を付けるわ」
 今度は菊が意を述ぶ番だった。
 日常的に声を荒げることのあるグロリアーナや、戦いとなると虎のようになるローザとは違い、菊の感情の発し方は静かで重々しく、それゆえに峻烈なものを感じさせるものだ。
「もし、御方様が――それでも未だ、なおも彼の射手を己が手で確実に仕留むると、それが己が責務や使命であると思うのであれば……僭越ながらこの菊、御暇を頂戴したく存じまする」この話がたとえ話でも戯れでもないことは、他ならぬ菊の眼が告げていた。「わたくしが、御方様に代わり彼の射手の首を取って参ります故」
 この言葉が心を揺さぶったのだろう、ローザマリアは血の気の失せた顔で二人に声を上げた。
「やめてっ! ライザ、菊媛、もうたくさんよ……私は、これ以上誰も失いたくなんてない。助けたユマ、助けられなかった澪、美空、イオタ、そして……」
 ローザの心を重くしているのは、自分の目の前で散っていったいくつもの命である。
 しかしそれにとどまるものではなかった。
「カイサ」
 その名を口にするだけですでに苦痛だった。
 カイサ・マルケッタ・フェルトンヘイム(かいさまるけった・ふぇるとんへいむ)……ローザマリアが見出したパートナーにして機晶姫、しかしその実はクランジの眷属……。
 あの日、カイサは、ローザマリアと再会しながらもその手をふりほどき、自身、クランジとしての道を進むと宣言したのである。イオタを倒しイオタとなる、とまで言っていた。それは叶わなかったようだが。
「……もう、誰一人として……!」
 これを聞いてグロリアーナは口を閉ざし、菊は膝を屈したのである。
「出過ぎたことを申しました。御方様」
 まだローザに迷いは多い。だが目指すところが決まっているのなら。
(「わたくしどもが口を出すべきではないのでしょうね……」)
 と、菊は思うのだった。
「御方様、あまり自らを苛まれますな。あれに……」
 菊は行く手を示した。
 だがここでローザは脚を止めた。彼女は、
「今更、会わせる顔なんてない」
 来た道を引き返した。この先は迂回しよう。
 グロリアーナも菊も理由は問わなかった。
 その先には、七枷 陣(ななかせ・じん)らの姿が見えていたのだ。