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春をはじめよう。

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●車輪

 銀色の車輪に、桜の色が映りこんでいる。
 車椅子。
 その堅いシートに座るのは少女だ。年の頃は十六、七ほど、沈んだ眼の色をしているが、はっとするほどの美貌だった。いささか古めかしい表現で娟麗(けんれい)というのがいいだろうか。北欧系の顔立ち、楚々としたたたずまいながら、見る者を惑わせるような、特に男性であれば胸をかき乱されるような魔性の魅力がある。けれどその当人は、自らの美しさに頓着ないようだ。肩まで伸びた絹のような黒髪を、いささか邪険に手で払いのけた。
 車椅子を押しながら、緋桜 遙遠(ひざくら・ようえん)が彼女に語りかけている。
「ほら、たまには散歩もいいものでしょう? この桜並木は今が見ごろですよ」
 まさしく花盛りだった。数メートル幅の歩道の両型、延びた桜の枝と枝が、花のトンネルを形成していた。ちらりちらり小雪のように桃色の花弁が舞う。
 しかし少女は、無言だ。
 されども遙遠にそれを気にする様子はなく、色々と話しかけながら歩を進めている。
 ゆっくりと、銀の車輪が回っていた。
 椅子の上の彼女は花柄のブラウスを着ている。フリルで飾られ、中央に大きめのリボンをあしらったという可愛らしい服装だ。腰から下にはギンガムチェックの膝掛けが乗せられていた。
 カーネリアン・パークス、それが少女の名だ。愛称で呼ぶなら『カーネ』となる。
 これは本名ではない。必要に迫られ、遙遠が付けた世間向けの名前だった。
 少女が以前名乗っていたコードネームを下敷きに、宝石カーネリアン(紅玉髄)から名を取った。なおカーネリアンには『勇気』など前向きな宝石言葉があるという。同様に姓は、ローマ神話における平和と秩序の女神パークスの名を冠している。ここから、遙遠がこの名に込めた祈りがわかろうか。
 しかしその輝かしい名とはうらはらに、カーネリアンの表情は暗い。遙遠がさまざまに話を振っているのに、短く返事するのがせいぜいで、愛想笑いすらしない。
(「笑えばもっと……綺麗になるのに」)
 彼女の前身は、塵殺寺院製の暗殺専門機晶姫だった。あらゆる人間に自由に変身することができ、暗殺刀の使い手でもあった。しかし運命は彼女に味方せず、彼女は片腕と両足、肩も大きく損なうという、たとえ機晶姫であっても瀕死に相当する重傷を受け、死にかけていたところを遙遠に発見されたのである。
 遙遠は彼女に何も求めなかった。かわりに多くを差し出した。
 少女の身の上は公には死亡となっているので、極秘のうちに修理できる技師を捜し、時間と資金をかけてその五体を修復した。
 新たな名前『カーネリアン・パークス』を与え、自分の遠い親戚という扱いにして世間的な身分を整えた。
 この服も彼が与えたものだ。これまで目撃された際、この少女は必ず黄金の半仮面をつけていたので、もうこれで彼女の正体を見抜ける者はおるまい。
 さらにはこうして、甲斐甲斐しく世話を焼いている。
 それでもカーネが遙遠に心を開くことはなかった。それを象徴しているかに見えるのが、彼女の両脚である。本当ならとうに歩ける程度に修理はしたのだ。それでも、演技でも偽りでもなんでもなく、カーネの左右の脚は歩行を拒んだ。
 修復は成ったとはいえ、完全に破壊された変身能力も戻らなかった。
 カーネの心を塞ぐものは、自責の念ではないかと遙遠は見ている。彼女は何一つ達成できかなったのだから。ほんの一瞬示した大黒美空へのシンパシーすら、美空の死で消滅している。
(「なにか、彼女の心の虚空を埋められるものがあればいいのですが……」)
 桜舞うこの光景すら見えていないかのように、抜け殻と化した身を、カーネは車椅子に置いているだけに見える。それが、悲しい。
「話題を変えましょう」
 遙遠は言った。
「カーネ、貴女は何を望みますか? 遙遠が出来る事であれば手伝わせて下さい」
 このときようやく、少女が言葉らしい言葉を発した。されどそれは、
「……見捨てて、ほしい」
 というものであった。
「どこか誰も知らないところに放置して、この存在を忘れてほしい」
「それだけは、お断りします」
 遙遠はきっぱりと答えた。
「遙遠としては……前々から言っている通り、あなたに楽しみを見つけて生きてほしいです」
「……どうして」
「はい?」
「どうして貴様は、こんな自分に情けをかける。哀れみか? 勝者の奢りか?」
 こんな見目好い少女から、『貴様』という二人称と『自分』という一人称が出てくるのはいささか違和感があった。
「どちらも違います。遙遠は、これまで自分がパートナーや周囲の人間から受けてきた助けを、他の誰かに返したいだけです」
「………………」
 ふわりと風が吹き、花吹雪を散らせた。
 その日カーネリアンは、そこから一言も口をきかなかった。 
 
 銀色の車輪に、桜の色が映りこんでいる。
 大八車。
「まったく、衿栖は吸血鬼使いが荒いってば〜」
 と言いながらこれを引くのは茅野瀬 朱里(ちのせ・あかり)だ。
「そんな膨れないで、頼りにしてるんだから〜」
 茅野瀬 衿栖(ちのせ・えりす)が後ろから台車を押しつつ、顔を出して片手拝みした。
「重い物もあるから朱里がいると助かるわ〜」
「まあ力仕事中心だからわからないでもないけど……でも、正当な対価をもらわないとね! 今日の手伝いが終わったら新鮮な輸血パックを要求するから!」
 ふんと鼻息荒く言って、朱里は車輪をきしませながら大八車を引くのであった。
 車の荷台には、なんともぎっしりと家財用具が積まれている。ちょっとした山が動いているようなものだ。しっかり縛ってはいるものの、うっかり大八車が転倒などすれば大惨事になりそうだ。なお積み荷には一般人には見慣れぬ工具もあった。それは工房で使う用具らしい。
「なんとかしまーす! あ、ようやく上り坂が終わったね。やれやれー」
 大八車とはなんともレトロな運搬機ではあるが、手っ取り早い上にコストもかからない。おまけに環境にも優しいのだ。まあ、見た目がアレという欠点はあるが気にしない気にしない。
 春といえば引っ越しの季節、本日、彼女たちは引っ越しを行っているのである。
 新しく借りた家は二階建て、居住スペースは主として二階で、一階の一部は工房になっている。まさしく『衿栖のアトリエ』、夢にまで見た好環境といえよう。いささか古い建物だけれど、それもまた味があっていい。
 新居にて彼女は、アイドルユニット『ツンデレーション』のパートナー若松未散とルームシェアする約束になっている。それぞれのパートナーも同居する予定なので、合計十人住まいになることが決まっている。たいへん賑やかになりそうだ。
「ちょっと休憩にしようか。ほら、桜がきれいだよ」
 朱里に声をかけ、衿栖は大八車を止めた。
「さっき雑貨屋があったじゃない? お茶と、買えるなら日常生活の消耗品を買ってくるね」
 このあたりのやりとりは慣れたもの、すぐに朱里は、
「はいはい荷物番ね、りょうかーい」
 ずるずると伸びるようにして、並木道脇に止めた大八車のそばに腰掛けた。
「お土産はお茶より、冷えたトマトジュースがいいな。ヨロシク〜」
 ひらひらと手を振る朱里に見送られ、桜の花びら降るなか衿栖は道を急いだ。
 とはいえ土地勘のまったくない場所である。いつの間にか、桜の迷路に入り込んだようになってしまう。近道をしようとして沿道から外れたのがまずかったか。
(「……迷った、かも」)
 なにやってんの! と、朱里が腰に手を当て怒る姿が容易に想像できた。
 どうしようかな〜、と周囲を見渡した衿栖は、見慣れぬ姿を視界の隅にとらえていた。
(「あれ、あの後ろ姿は……?」)
 車椅子に座った少女の後ろ姿である。
 一人ぽつんと、桜吹雪に囲まれている。
 誰だろう。
 寂しげな背中だ。近づいていって何か、声をかけてやりたい衝動にかられる。
 けれど一方で、そんなことをしてもはねのけられそうな気もした。そんな気配があった。
(「美人だよね、すごく……」)
 車椅子の少女が横を向いた。やはり見慣れぬ顔だ。
 芸能界に籍を置く身として、衿栖も数多くの美しい人を見てきた。そんな衿栖でも、あの少女は美形と認めざるを得ない。
 声をかけるべきか、でも、近寄っていいのかとすら思う。
 悩んだ末、やはり衿栖は先を急ぐことにした。
(「あんまり待たせたら朱里がカンカンだもんね」)
 やがて少女に、二人分の飲み物を手にした遙遠が近づいて話しかけたのだが、それを衿栖は確認することができなかった。
 さて、大八車の車輪を探しながら戻るとしよう。