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6 スウィップの決断 2

 リカインはスウィップたちの元へ戻り、氷の検閲官から聞いたことを話した。
 意識世界へ戻りたいのであればスウィップの自由意志でいつでも戻れる――その言葉に、スウィップは「そう」とだけ答えた。

 無言でリストラされていく本に見入っているスウィップの背中を山葉 加夜(やまは・かや)が見つめる。
 彼女が無意識世界の住人ではなく自分たちと同じ世界の人間だったというのは衝撃的で驚いたけれど……それよりも、いつになく言葉少ないのが気がかりだった。

 スウィップといえば弾ける豆のように元気いっぱいで、屈託ない笑顔でいつもにこにこオーラ全開なのに。
 いや、今も笑顔なのは変わらないが、それがどこか上すべりしているというか、格好ばかりに見えるのだ。

「スウィップちゃん」
「ん? なーに? 加夜さん」
 ぐりんと首を回して加夜を振り返る。
 笑顔だけど、やっぱり違う。
「帰りたいと思えば帰れるって氷の検閲官さんはおっしゃったそうですけど……スウィップちゃんは、帰りたいですか?」
「えっ?」
 ぱちぱち、とまばたきをする。
「帰る、って…」

「私、考えてたんです。もしスウィップちゃんもジーナさんと同じように、わずかな命の身でこちらへ下りてきているのなら、こちらへとどまった方がいいんじゃないか、って。
 でも、そうじゃなかったんですよね。スウィップちゃんは意識世界にちゃんと生きている体があって、何の束縛もなく、いつでも帰ることができる」
「……うん」
「うれしくないんですか?」
 視線を泳がせるスウィップから、笑顔は消えていた。


「うれしいって、何が? それに「帰る」って何? 「戻る」って。あたし、そんなとこ知らないのに!」


「スウィップ」
 スウィップの声を聞きつけて、矢野 佑一(やの・ゆういち)ミシェル・シェーンバーグ(みしぇる・しぇーんばーぐ)が走り寄ってきた。
「どうしたの? いきなり大声出して」
「だって…」
「なぁに?」
 うつむいて、帽子に隠れたスウィップの顔を、ミシェルが下から覗き込んだ。
 スウィップは複雑な表情で唇を震わせている。

「佑一さん」
 ミシェルは初めて見るスウィップの顔に驚き、とまどって佑一を見上げた。

 佑一は彼女の悩みが分かった気がした。
 悩みというより、彼女は怖がっているのだと。

「そうだね。無意識世界の住人だと思ってたきみには、向こうは知らない世界なんだ」
 ここはパラミタにいる人々の無意識が溶けあっている世界だから、どんな知識もある。
 だから意識世界がどんな世界か、スウィップも知ろうと思えば知ることができるわけで問題はない。
 けれどそれは結局本で得た知識と変わりなく、実感はない。

「……佑一くんも……帰った方がいいって思う?」
 力ないささやき。
 佑一は先までしていたように、リンド・ユング・フートを見回した。
 ハチャメチャで、無秩序で、どこか子どもが落書いたような夢の世界を。

「僕に限らず、ここにいるみんな、だれ1人きみに「こうしてほしい」なんて思ってないと思う。加夜さんの言った通り、もしスウィップがジーナさんと同じ境遇だったら違ったかもしれないけどね。でも、死にかけているわけじゃないのなら、一度戻ってみるというのも選択肢のひとつだと思うよ。
 残るにしても戻るにしても、意識世界のきみがどういう状況に置かれているのか、きみは知る必要があると思うんだ」
「意識世界のあたしの状況? ……そんなの、考えたことなかった」
「もちろんだからって安易にすぐに戻ったりしないで、その前に検閲官さんからここに残ることを選んだ事情っていうのを聞いておくべきだと思うけどね」

「意識世界の、あたし…」
「あのね、スウィップさん」
 つんつんとミシェルがそでを引っ張って自分の方を向かせる。
「僕もね、佑一さんの言ってること、正しいと思う。下りてきて、そのまま帰れなくなったとかいうんじゃなくて、スウィップさんの意思でとどまることを選んだっていうんなら…。理由は忘れちゃってるわけだけど、それってスウィップさんが考えたことなんだよね。なら、どうしてここにとどまることを選んだのか知るまでは、ここに残った方がいいと思う」
 と、そこまで口にしたところで、あわてて手を振って見せる。
「あ、でも、だからってこのままここにずっといればいいって言ってるわけじゃないよ? それを決めたのって、ずーっと前のスウィップさんなんだからっ。
 それから何千年も経ったんだし、きっと事情っていうのも変わってると思う! もし何かあっても、ボクたちがいるよ!」
「そうです、スウィップちゃん」
 加夜の手が肩に下りる。
「スウィップちゃんが帰るのか、こちらに残るのか。私はどちらでもいいと思うんです。葵ちゃんが言いましたよね、私たちが友達であることには変わりないんですから。
 どちらにいても、スウィップちゃんはスウィップちゃんです。もちろん、あちらで一緒にいろんな所へ出掛けて、遊んで、笑い合えたら楽しいって思うし、家にも遊びに来てほしいなと思ったりもするんですけど。でもそれは、私の一番の願いではありません。
 帰るのがつらいと思われるんなら、無理をしてほしくないです。スウィップちゃんが笑顔でいられる方でいてください」

 いつでもあなたには笑顔でいてほしいから。


「あ、スウィップ!」
「スウィップさん?」

 スウィップは全力でこの場から駆け出した。




(ああ、いた)
 斜面に生えた草むらで体育座りをしているスウィップを見つけたのは六鶯 鼎(ろくおう・かなめ)だった。
 丈の高い草から帽子の先がちょこんと見えている。

 振り返り、彼女を捜している佑一たちに教えようかと口を開いたが、思い直して閉じた。
 そしてスウィップのところまで斜面をくだる。
 特に気配を隠すつもりもなかったから、草を踏む足音などで彼が近付くのをスウィップも察知しているはずだったけれど、彼女は身じろぎひとつしないでそこにいた。

「スウィップさん。あれだけ皆さんから言ってもらえたのに、まだ何かあるんですか?」
「…………」

 スウィップの横に立ち、ふむ、と思う。
「ま、あなたの気持ち、分からなくもないですけどね。私自身、一時自分は一体何者で、何のために生まれたのか解りませんでしたし」
「……向こうの人って、そうなの?」
「え?」
「どうして生まれたか、知ってるの? 知ってないと悩むの?」
 鼎は一瞬言葉に詰まり、苦笑するように少し口角をゆがめた。
「――さて。どうでしょうね。私は世界全員の意見を代弁することはできません。己の存在意義について悩む人は少なくありませんが、全員かどうかは分かりかねます。私に言えるのは私のことだけです。
 そして私としては、ですが。あなたはわりと幸運な方だと思いますね」
「幸運?」
「ええ。世の中には生まれたときに既にどのような人間で、どのような結果を出さなくてはならないか決まっていた……死に方すら決まっていた人間もいますから。
 そんな完全分岐なしの1本道をそれと知りながらも歩むしかない人間と比べて、残るにしても行くにしても、あなたには選択肢がある。そのなんと幸運なことか」

 スウィップが彼の用いた言葉の意味を飲み込み、消化するのを待つように、鼎はそこで一度言葉を切った。
 草原を渡る風に身をゆだね、目を細めて風の行く先を見つめる。

「あなたはどう思ってるの?」
「ん? んんー……まぁ、そうですね。向こうに行ってもいいんじゃないですか?
 昔見たとある物語で、インディアンのような人物が「外」の文明的な生活に憧れているという話があったんですよ。主人公次第でその人の運命が変わるんですけど、「内」に留まった彼は確かに幸せで、家族に尽くす良き生活でしたが……心は色あせていったそうです。まぁ「外」に行ったところで「以後、彼の姿を見た者はいない」で終わるんですけど。
 でも、停滞よりは山あり谷ありの方が面白いと思いますよ、私は」
「ここだって、何も停滞なんかしてないよ」
「そうですか。でも、ここの生まれの人はここ、つまり「内」から出られませんが、あなたは「外」へ出ることができる。あなたは出られない人ではない。なら、出ないことは停滞することと同じでしょう。
 ここは停滞してなくても、あなたは停滞している」
「それは…」
「物事には時機というものがあります。あなたは今までここの住人と信じてここにいた。ですが、そうではないと知ってしまった。それは偶然にせよ、時機が来たということなのかもしれません」
 そうして初めて鼎はスウィップに正面を向けた。
 小さな体を精一杯丸めているような彼女を見下ろす。


 ただし覚悟するように。
 どのような選択にせよ、完全な大団円などないのだから。



 声に出さずそうつぶやいた鼎は、スウィップの返答を待つことなく、その場から立ち去った。
 言うことは言った。あとは彼女が決断することだ。

 だが告げた鼎自身、知らなかった。
 図らずもその言葉こそ、やがて自分たちへと返ってくるものだということを――……。




 スウィップは徐々に遠ざかっていく鼎の足音に聞き入っていた。
 やがて聞こえなくなって、自分1人だと確信してからつぶやく。

「でも……みんなのこと、忘れちゃうんだよ…?」

「それがあなたのためらう理由ですか」
 むくっと草の間から音無 終(おとなし・しゅう)が身を起こした。ぱんぱんと服から土を払うしぐさをする。
 一体いつからいたのか。全く気配がつかめていなかったことに驚き、目をぱちぱちしばたかせた。

 終の向こう側には銀 静(しろがね・しずか)もいて、袋から取り出した氷砂糖を口にふくんで転がしていた。
 赤い瞳にスウィップをちらりと映すが、それは終が姿を見せ、話しかけている相手だからというだけで、特段スウィップ自身には何の興味も持てないでいる様子だ。
 周囲を索敵し、何も敵らしい気配はないと結論すると、袋から新しい氷砂糖を取り出して、それが光を反射して七色に輝くのを楽しみつつ口のなかへと放り込む。

「シュウくん、来てくれてたんだ!」
 近付いてくる終に、スウィップもあわてて立ち上がった。
「下りてきたなかに姿が見えなかったから、てっきり来てないと思った」
「いましたよ。ただ、ほかにもたくさんいましたからね、あなたが気付かなかっただけです」

 無意識世界での記憶は意識世界へは持ち帰れない。松原タケシを修復する際に身を持ってそれを体験した。だからここで顔を見られたからといってどうということはないのだが、それでも何度と繰り返すうちに深層意識に残って何かのひょうしにひょっこり――なんてことが全くないとも限らない。
 終は用心して、皆とは距離を置いた別の場所に着地したのだった。

「うーん。そうかもしれないねっ」
 納得してうなずくスウィップの前に立ち、あらためて終はあいさつした。
「こんにちは、スウィップさん。この前はお世話になりました」
「ううん。タケシくん、ほとんど元通りになってたね。深淵に落ちずにすんだのはシュウくんや佑一くんのおかげだよ! あたしだけだったらどうしようもなかったもの」
「こちらこそ、貴重な体験をさせてもらいましたよ。
 それで、ひとつうかがってもいいですか? なぜあのときのタケシくんには触れて、ジーナさんには触れられないんです?」
「ああ、それ? タケシくんはあのとき、意識世界で死にかけてたわけじゃないからだよ。ちゃんと意識は肉体とつながってたから…」
 あたしのように。
 ぐっとスウィップはつばを飲み込み、言葉を続けた。
「でもジーナは深淵へ向かってる。死の力に勝てる人なんていないから、シュウくんも彼女に触れたり、あの穴に近付きすぎちゃ駄目だよ。シュウくんの肉体はあちらにあるからって無事じゃすまない。心が死んだらどうなるか、シュウくんも分かるよね?」

 大きなスミレの瞳でじっと覗き込んでくるスウィップに、終は苦笑せずにいられなかった。
 ジーナに触れてみたいと思っているのをすっかり読まれている。

 上着のすそを下に引っ張られたのでそちらを向くと、静が心配げに見上げていた。

「やれやれ。釘を刺されてしまったな。
 しませんよ。たしかにあのとき見た深淵には興味があるし、僕は好奇心を満たすためなら命だって賭けていいと思っていますが、勝ち目ゼロではそれは賭けとは呼べませんからね」
 だからおまえも安心しろ、と静の頭をなでる。
「そのかわり、先の話を聞かせてください。
 あなたが意識世界へ戻ることをためらう理由の1つは、意識世界へ記憶を持ち返れないということですか?」

「…………うん」
 スウィップは小さくうなずいた。
「検閲官さまが言うには、あたしの意識は全部流れてしまってるんだって。向こうのこと、何も覚えてない。
 それで、こっちの記憶もなくなるんなら、あたしどうなっちゃうのかな、って…」
「なるほど」
「向こうのことも知らない、リンド・ユング・フートのことも知らない。みんなのことも忘れてしまって……でもあたし、こっちの人間じゃないっていうし。向こうの人間なら、向こうへ行かないと駄目なのかな…」
 でも怖い。
 向こうへ戻るってことは、あたしが「スウィップ」じゃなくなるってことだから。


 悩むスウィップの横で、終はその可能性について考えてみた。
 スウィップが無意識世界での記憶をなくすのは、ほぼ確定だ。だが向こうでの意識はどうか?

 意識を流しきる前の彼女は、ここにいればそうなるというリスクを理解していたはずだ。なのに戻らなかった。
 リスクを天秤にかけ、それでもこちらに残る道を選択したとする。
 自分ならどうする?

 意識世界のスウィップが向こうで記憶を保持する手立てを打っていた可能性は高い。

(ま、とはいえ、可能性で期待を持たせるのはいささか酷すぎるというものでしょう)
 そう思いやる程度には、終もスウィップを気に入っていた。
 だからかわりにこう言うことにした。

「スウィップさん、向こうで目覚めれば全て終わりと思っていませんか?」
「えっ?」
「ここで過ごした記憶は失われるでしょう。向こうのことも何も覚えていないかもしれません。でも、そこで終わりではないんですよ。記憶は新しく作れるし、みんなとはまた出会える可能性があるんです。今度は一方的に召喚しなくても、会いたくなればいつでも会える関係になれるかもしれない」
「シュウくん…」
「ただ、せっかくここで得たことが一切消えてしまうのは、たしかにもったいない気はしますけどね」


 それからスウィップは長い間考え込んだのち、自分に言い聞かせるようにぽつっとつぶやいた。
「あたし、やっぱりまだちょっと怖いけど……みんなが見つけてくれるんなら、そういうのもいいかもしれないね」