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●覚醒

 ソノダが倒れた。
 誰もが立ち上がっていた。隣室から、九条 ジェライザ・ローズ(くじょう・じぇらいざろーず)冬月 学人(ふゆつき・がくと)が駈け込んできた。
「私たちは救護担当です! どうか道を開けて下さい!」
 ホテルと教導団に身分を明かし、治療器材を持ち込んで控え室で待機していたものだ。その控え室は治療室として、銃創を含む大抵の怪我、病気の応急手当ができるようにしてある。
 最初、どこから二人が出てきたのか、理解できない者も少なくなかった。
 それというのも、壁紙とばかり思っていたところから彼らが出てきたからである。これには理由があった。事前に学人が、シールのように貼るタイプの白い壁紙を使ってドアを隠し、さらに迷彩塗装の技術で完璧に『ただの壁』に偽装していたからだった。
 部屋を隠すのは、客に不審や不安を抱かせないため……もちろん、緊急時に敵につけいられないようにするためでもある。
「急病? 直前まで元気だったんでしょう?」
「とにかく、この混乱だけは鎮めなければ」
 ローズは額に汗をかいていた。
 ソノダが暗殺される、この会場に敵襲がある……人の口に戸は立てられないものだ。そういう噂はずっと流れていた。ものものしい警備もあって、不穏な空気はずっと流れていた。
「下手を打つと、パニックになる可能性がある」
 乱暴に人を押しのけるのではなく、学人は丁寧に侘びながら前に進んだ。
 ソノダを助け起こそうとする祥子・リーブラに気づいて、ローズは声を上げる。
「触らないで! どうかそのままに」
 悪質な伝染病の可能性を危惧した、というのがその理由のひとつ。
 もうひとつの理由は、身を起こさせた瞬間に狙撃されることを恐れたから。

 混乱が訪れた会場で、ただ一人座り続けている者があった。
「……ろ、……ろ」
 なにか呟いている。ずっと。
 空京グランドホテルの制服、丁寧に撫でつけられた前髪は青みがかった色だが、紺色というのが近い。
 胸のネームプレートには『浜皆子』とあった。
 彼女は今、蒼ざめた顔色で震えていた。
「……ろ、……ろ、……ろ、……ろ」
 変に『ろ』にアクセントのある発音なのでよく聞こえないが、近づいてよく聞けば、小さな声で、
「チェロ、チェロ、チェロ、チェロ、チェロ、チェロ……」
 と呟いているのがわかったのではないか。
 一昨日から皆子は調子がおかしいのだ。今日は大切な会合の受付を任されたというのに。このところボーッとしていると同僚にからかわれたが、皆子はとりあわなかった。理由を考える気がなかったのではなく、徐々に理由を考えられなくなってなっていたから。
 クローラ・テレスコピウムという軍人に色々と聞かれたが、考えるのが面倒なので『そんなことはない』とだけ返答しておいた。
 頭がよく働かない。
 ……会合がはじまってから、その傾向は加速的に高まっていった。
 一昨日、ホテルを訪れた人間があった。
 イーシャ・ワレノフというチェリストだったようだが、今の皆子にはどうでもいい。
 問題は、彼ないし彼女が持ち込んだ大量のチェロケース。そんなものを目にすることはそうそうない。
 大量のチェロケース、それが皆子にかかった催眠術を解くキーコードなのである。
 それを目にしてからちょうど四十八時間後、数ヶ月かけてきた設定が消えることになっていた。
 浜皆子という平凡な人物。背は低いけれど真面目で頑張り屋、同僚の評判もいい。ホテルの仕事にあこがれており、面接では夢を語った。三十までには結婚したいが、結婚してもこの仕事は続けるつもりである。短くない研修を経て最近ようやく、フロントに立つことができた。
 皆子は自分がそれ以外の存在だとは思ってもみなかった。
 自分が自分でないなんて、想像すらしたことがなかった。
 けれどもう、皆子の役割は終わろうとしている。
「チェロ、チェロ、チェロ、チェロ、チェロ、チェロ……」
 その言葉がやがて、
「ゼロ、ゼロ、ゼロ……」
 数字のゼロになっている。急速に脳にリセットがかかっているのだ。
「……00000000000000000000000……」
 浜皆子という存在は、この瞬間世界から消失した。
 やがて、
「1000011・1010010・1010101・1001110・1000111・1000101」
 彼女ははっきりと言った。自分の名前を言ったのだ。
 彼女は制服の内側に手を突っ込んだ。なぜそこにそんなものを縫い付けたのか理解できなかったが、考えることができずにずっとそのままにしてあったものを引きちぎる。
 白い糸がバラバラっと散った。
 クランジΙ(イオタ)は、郵便配達員のような帽子を目深に被った。
 帽子の縁には、まだ白い糸が揺れていた。

 どれだけ大量の人間がいようと、瞬間的に射線は生まれるものだ。
 ソノダの額が見えた。
 イオタは右手にハンドガンを握っている。誰も自分に注目していない。暗殺者がいるのであればきっと、外部から来るものとでも思っているのだろう。
 イオタの口元に引きつったような笑みが浮かんだ。
 暗殺者は引き金を絞った。
 サイレンサー付き、しかもこの混乱のなかであるというのに、
「いけない!」
 ティー・ティーが気づいた。
 ティーは警戒して周囲を見回していた。いま気をつけるのはソノダではなく、彼女をどこかから見ている目……!
 間に合った。
 ティーの目がイオタの目と合ったのは、拳銃のトリガーがカチリと音を立てる寸前のことだった。
 トリップ・ザ・ワールドを発動している時間はない。ティーはソノダの身体に覆い被さった。
「……っ!」
 焼き串を突き刺されたような痛みがティーの肩に奔った。
 撃たれた。
「ティー!」
 悲鳴混じりの声を上げたのはイコナ・ユア・クックブックだった。ティーの若草色のドレスが、みるみる赤い色に染まっていく。
「どこだ!」
 源鉄心は敵の姿を探す。
 スープ・ストーンも、祥子と宇都宮義弘、ヴェロニカ・バルトリも狙撃者を探した。窓は割れていない。犯人はすぐ近くにいるはずだ。
「動くな! 誰一人だ!」
 グラキエス・エンドロアがとっさに声を上げた。ようやく事態を飲み込み悲鳴を上げた女性がいたが、彼の形相を見て凍り付いたように固まっている。
 しかし動くなと言ったところで事態の収拾はつかない。
「殺気看破が働いていない……犯人は、し損じたとみるや殺気を消したか。いや、そもそもこれだけの人間の雑多な念があっては……」
 ウルディカ・ウォークライが唸った。

 小柄なのは幸いした。騒然となるなか、イオタは身を屈めて壁の内側に消えた。
 正しくは壁ではなく、九条ジェライザ・ローズが用意した救護室だ。行動を起こしながらイオタは、この構造は利用できると踏んでいた。
「戦術眼、育ってきたみたいね。吹雪」
 さすがのイオタもこれは予想外だったか。
 驚いたように振り返った。
 ドアを塞ぐように、コルセア・レキシントン(こるせあ・れきしんとん)が立っている。
「お久しぶりでありますな。といっても、そっちは自分のことを覚えていないかもしれないでありますが」
 もう一度イオタは振り返ることになる。
「今度は自分のことを忘れないようにしてやるであります」
 そして眼前には、葛城 吹雪(かつらぎ・ふぶき)の姿があった。
 以前、魍魎島でイオタと対決したとき、ほぼ一方的に翻弄されたという記憶が吹雪にはあった。
 今回、イオタが話にからんでいるという噂をキャッチして以来、切歯扼腕、こうして再戦のときを待ち続けていたのである。
「その帽子、それだけを目印に追ったのであります」
 吹雪が指さしたのはイオタの帽子だ。
 郵便配達夫のような、あの帽子。
「ここに逃げ込むかどうかは正直、わからなかった。けれど吹雪はそう読んだ」
 コルセアは振り返ると施錠した。
「これで、吹雪とあなたとの対決を邪魔できる人はいないわ。ワタシも手は出さない」
 存分にやりなさい、とコルセアは言った。
「自分は葛城吹雪! いざ尋常に……」
 イオタはサイレンサー銃を撃った。
 明後日の方向に、
「跳弾!」
 来る、と瞬間的に判断して吹雪は後方に飛んだ。彼女のいた場所に弾丸が突き刺さっている。
 と同時に、吹雪も発砲していた。
 足を狙った。吹雪が跳び退っていなければ当たったかもしれない。
 だがそれはイオタの足を掠めるに留まった。といっても十分ダメージはある。
 ここに記せないほどの汚い言葉でイオタが罵るのが聞こえた。傭兵育ちの吹雪でも、ちょっと引いてしまうほどの毒づきかただ。
「これで1−0、そっちの番でありますよ」
「ダメ、吹雪! さっきの銃声が!」
 吹雪の銃にはサイレンサーが付いていない。銃声は存分にとどろき渡ったことだろう。