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春もうららの閑話休題

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第19章


 そしてもう一組、最後の家族風呂を愉しむカップルがいた。


 蓮見 朱里、アイン・ブラウの夫妻である。


「……ごめんなさいね、こんな夜中になってしまって」
 朱里は呟いて、湯船に腰掛けた。
 タオル一枚を身体に巻いたその姿は、扇情的というよりはむしろ清廉で穏やかだ。
「いや、子供達が寝静まるのを待てば、どうしてもこういう時間になるのは仕方のないことだよ」
 アインも一応タオルを腰に巻き、朱里の隣に腰かけて肩をそっと抱いた。

 子供達と家族ぐるみで温泉旅行に来た二人だから、やはり日中優先されるのは子供達の楽しみであろう。
 散々遊びまわる子供の体力は無尽蔵で、尽きることはないというほどだ。
 それにいちいち全部付き合っていてはこちらの体力が持たない。しかしかといって放置していては、何かやらかさないとも限らない。
 全部を一緒にいるわけにはいかないが、しかし片時も目は離せない。
 まだ幼い子供を持つ親ならば誰でも経験する苦悩だが、それは朱里とアインとて例外ではなかった。

「でも、あなたも眠いでしょ? 私の我が侭につき合わせてしまって、何だか申し訳ないわ」
 視線を落とす朱里。しかし、アインは優しく目線を合わせて語りかけた。
「そうじゃないよ朱里……確かに子供達は大事さ。
 もちろん、僕たち自身のことよりも子供を優先させるのは当然のことだし、これからもそうするつもりだ。
 けれどね、それで君自身の幸せを犠牲にしてしまうのとは、全くの別問題だ」

 子供達が寝静まった夜更け。家族風呂で温泉を楽しんでいる二人。
 発端は、朱里の発案だった。
 折角だから、二人だけの温泉も入っていきたい、と。

 小さなお盆にお酒がふたつ乗って、湯船に浮かんでいる。
 ささやかに夫婦の酒宴を楽しんだ後、二人は寄り添う。

 空に月、山に雪、人には愛。
 風には梅の花がほころび始め、二人の温泉にそっと彩を添えた。

「アインはそうやって、いつも私の事を気遣ってくれるのね……ありがとう。
 もちろん、子供たちは大好きだけれど……」
 朱里は肩に添えられたアインの手に、自分の手を重ねて握った。
 そして、自分の唇にそっと当てる。
「あなたのことも、大好きなんですもの……そのことも、忘れたくない……」
「朱里……」
 アインは柔らかく朱里の頬を撫でた。滑らかな肌触りが、機晶姫の掌を通じて伝わってくる。
「それは……僕も同じだ。
 大切な家族との時間は愛おしく……あっという間に過ぎていく。
 今でこそこれが『当たり前の日常』かもしれないけれど……それがどれだけ大事なことか、僕達は知っている」
 朱里もまたアインの頬に触れた。端整なラインに、そっと指を這わせる。
「ええ……いろいろ大変なこともあったけど……。
 いいえ。大変だったからこそ、今日みたいな日がとても大切で……これがずっと当たり前であって欲しいって……そう思うわ……」
 じっと、見つめ合う二人。これまでの道程が、幾つもの思い出となって胸を打つ。

「……月並みな台詞かも、しれないけれど」

 ややあって、アインが口を開いた。
「ええ」
「……この出会い……そしてこの温もり、優しさ……ただの一日を取ってみても、同じ一日なんてない……そのひとつひとつが、きっとかけがえのない奇跡なんだと……僕は思うよ」
 じっと、朱里の瞳を見つめた。深い茶色の中に、限りない優しさと温もりをたたえたその瞳を。

「……大事に、しないとな。この日常を」
「大事に……してくれる?」
 少しだけ、いたずらっぽく朱里が笑う。
「もちろん」
 今度はアインが、朱里の唇をそっと指でなぞった。

「……んっ」

 朱里の吐息がその唇から漏れる。
「ねぇ……不思議なの」
 熱に浮かされたような、朱里のその表情。
「……何がだい?」
 それを見ていると、なんだか自分にまで熱が伝わってくるような気がした。
「子供までいて……こんなこと、初めじゃないはずないのに……こうして二人でいると、身体の奥が火照って……胸がドキドキするの……」
 いや、確かに伝わっていた。自然に導かれた朱里の胸を伝って――アインの掌へと。
「変じゃないよ……そういう気持ちが、きっと大事なんだから」
 そっと、タオルを外した。

 もう、邪魔なものはなにもない。
 ほころぶ梅の花。舞い降る雪。そして、金色の月灯り。

「――」


 言葉も出ない程に。


「私、のぼせちゃったのかな……それとも、お酒のせい……?」
「そうだね……きっと、酔ってるんだよ……」


 美しい、と思った。


「この月夜に……」

 朱里を優しく抱き締めたアインが、その唇をそっと塞いだ。
「あ……ん……」
 慎ましい声が、朱里の唇から漏れる。
 アインの胸に顔を押し付けて、朱里はささやいた。
「ねえ、私おかしいの……。夜空の下で、こんなことはいけないって……恥ずかしいことだってわかってるのに……。
 今だけ……誰にも見られてない、今だけは……何でもできる気がするの……」
 もう一度、朱里の唇にそっとキスをする。
 熱い。
 唇だけではない。指が、腕が、触れ合っている肌の全てが、お互いの熱さを感じ取っていた。

 これが、生きているということであろうか。

「……ねぇ。そろそろユノにも、弟か妹が欲しいわね」
「……そうだね」
 朱里にしては珍しい、露骨な『おねだり』にアインは微笑んだ。
「やだ……私ったら……恥ずかしい……」
 風呂のせいでも、お酒のせいでもあろうけれど、それより勝る羞恥の想いに、朱里は頬を朱に染めた。
「でも……そうね、今夜があんまりにも特別な夜だから……いけないんだわ……」
 今度は朱里からのキス。舌を絡めると、アインもそれに応じた。

「そうだね、特別な気分なのは僕も同じだ。
 この月灯りに照らされた雪景色……その中の君が……」
 ぎゅ、っと強く朱里を抱き締めた。
 痛いほどに。
 その存在が幻となって消えてしまわぬように。

「……あまりにも、君が綺麗に見えるから」

 二人には、もう言葉は不要であった。
 貞淑な妻も厳格な父もそこにはおらず、ただ、お互いを求め合う男女の姿。そして睦み合う声だけが響く。
 やがて白い湯気が温泉から噴き出し、二人の姿を完全に覆い隠してしまう。

「ああ……うん……」
「はぁ……」

 声だけが響く中、二人は存分に愛を確かめ合った。
 白く柔らかな雪が溶けるまで。


 二人が、心も身体も溶け合うほどに。