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Zanna Bianca II(ドゥーエ)

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Zanna Bianca II(ドゥーエ)

リアクション


●10

 鋼鉄の犬は、虎ほどもある巨体ながら素早く振り向いた。
 その口には噛みちぎった博季の服の袖があった。身をかわすのがもうコンマ数秒ほど遅れていたら、服にとどまらず腕ごともっていかれたことだろう。
 博季たち三人は包囲されていた。これら金属の犬に、である。何十頭いるだろう。いずれも鉄色、ドーベルマンに似たシャープな顔つきであるが、その体格は規格外に大きい。開いた口には鋭い牙があった。しかし機械の犬はその脅威の主体ではない。本当に恐ろしいのはこれを使役する少女人形であることを博季は知っていた。
「貴女、塵殺寺院のクランジですよね。その髪飾りから推測するに、お名前は『Λ(ラムダ)』ではありませんか?」
 確かに、彼女は頭に、『Λ』の記号を模したヘアバンドをしていた。
「だったら、どうだって言うのかな?」見事に外ハネしたエナメルのような緋色の髪、どことなくパイに似ているが、パイ以上に吊り上がった大きなマスカット色の眼、年格好からすれば過剰なまでに艶やかな表情を浮かべ、クランジΛ(ラムダ)は唇を歪めた。「……ま、その通りだけど。どうせこれから死ぬキミたちに、教えたところで意味ないと思うんだよなぁ」
 ラムダの言葉を無視して博季は言った。
「貴女と僕たちに違いがあるとは思えません。確かに貴女は残虐と言われるのかもしれない。……でも、僕はそういう人を沢山見てきました。いわゆる『味方』の立場の人で、ね。自らの名誉のために、或いはただの快楽のために敵を嬲り殺しにする。虐殺する。貴女だけじゃない。そういう人も確かにいるんだ。………そしてその人たちは、誰に裁かれるわけでもなく普通に生きている」
「何が言いたいの?」
だから僕は、貴女に死んで欲しくない」博季は、言葉に力を込めていた。「貴女だけが死ぬ理由なんて無いんだ。貴女は決して『悪』じゃない。人間と変わらないんだ。ただ、僕らと立場が違うだけ。だから生きて欲しい。寺院なんか抜けて、貴女なりの一生を送って欲しい」
「何を言うかと思ったら」イヒヒ、と気味の悪い声でラムダはせせら笑った。「寝言は寝てから言うんだね。ボクは、人の生き死にを玩ぶのが気に入ってるのさ。『寺院なんか』という立場でね!」配下の犬機械をけしかける。「ホラ、犬にあちこち食われてボロボロになって死ぬ惨めな姿、ボクにたっぷり見せてよ! ねえ!」
「博季ごめん。やっぱあたし、こんなやつ許せないし許したくないよ!!」フレアリウル・ハリスクレダの言葉は、後半からは悲痛な絶叫へと変化していた。彼女は自らの眼帯を投げ捨て、右目の位置にはまっている光条兵器を掴んで引きずり出した。人間の神経のように複雑で、見事な枝状の光が、鞭に似たしなり具合で飛び出してくる。フレアリウルの両膝はがくがくと震えていた。常人なら発狂するほどの痛みが彼女の身を貫いたのだ。「だからあたしは、光条兵器(こいつ)を使う!」
 輝く神経のような帯が、唸りを上げて犬機械の一頭をはたいた。ドーベルマンの顔面が砕け、四方に散った。
「幽綺子ねーちゃん!」近づくと危ない、とフレアリウルは声を上げるも、西宮幽綺子は足を止めなかった。飛びかかってきたドーベルマンをスライディングしてかわし、冷たい雪を巻き上げながら一気にラムダとの距離を詰めた。
「クランジΛ、あなたに聞きたいことがあるの!」相手の返答を待たず幽綺子は問うた。「『御桜凶平』という男を知らないかしら? あなたたちの設計に携わった男だと思うのだけれど」
「ミサクラ……」ふと、機晶姫は眼を細めた。「知らないとは言わないよ。で?」顎をしゃくった。
「私の父なの。是非居所を教えて欲しいわ。借りを返さないといけないのよ。私の人生を清算するために、ね」
 そのとき幽綺子は、博季がこれまで一度も見たことのない顔をしていた。
 豹変していたのは幽綺子だけではない。
「名誉とか裁きだとか、あるいは、人生の清算だのなんだの……あんたらの吐く妄言はもう聞きたくないんだよ!」」ラムダも、餌抜きされた猛獣のように、牙を剥き出し、狂ったような表情で幽綺子につかみかかっていた。「『父親』なんていう言葉は特にね!
 伸ばした手でラムダは幽綺子の手をつかんだ。手首がありえない方向に曲げられ、手袋越しでも聞こえる程の音で、骨が砕け折れたのが聞こえた。幽綺子には呻き声すら発する時間は与えられなかった。空いたほうの手でラムダは、彼女の顔面を横殴りに殴ったのだ。しかもラムダは雪のマットに叩きつけられた彼女の顔面を右のブーツで蹴りつけ、さらに、吸い込んだ息を吐きかけた。幽綺子の体は氷に覆われ、塑像のように硬直した。
「仲間をこんなにされて! それでもボクを救いたいなんて言えるかい!? ええっ!?」
 羅刹さながらの表情でラムダは振り返った。
 しかし博季は毅然とした態度で告げたのである。
「言えます。僕の信念は、変わらない」
「この……ッ!」だがこのとき、ラムダが意図した攻撃が出ることはなかった。
 ラムダは顎の先を、空気との摩擦で炎が出るほどに素早く鋭い拳で殴りつけられていたからだ。ここを殴られてバランスを失しない人間はいない。機晶姫のクランジも例外ではなく、よろめいて拳の主を睨んだ。
「クソガキっ! やんちゃするなら私が相手になるよ!」眼を怒らせ、されど堂々と、ファイティングポーズをとって伏見 明子(ふしみ・めいこ)が言った。「強くて冷酷なのが格好いいって勘違いしてるなんて典型的な子どもじゃない。私が知ってる子どものしつけかたは、ただひとつ!」握りしめた拳を上げて明子は宣言した。「その性根叩き直してくれる!」
「……なにやら燃えているようだね。まあ、明子らしくていい」アシッドミストを展開し、これを隠れ蓑のようにしながら九條 静佳(くじょう・しずか)が言った。(「こういった場所は、奥州を思い出すから実は苦手なんだけれども」)静佳は後退しつつ、ラムダの意識が明子に向いているのを確認して幽綺子を助け上げた。彼女を博季に預けて告げる。「あのラムダとかいう子は明子が、機械の犬たちは僕たちが引き受ける。彼女を連れて離れるんだ。命が危ない」
 博季は迷うような顔をしたが、
「ためらっている暇はないよ。やられっぱなしみたいで悔しいけどさ……幽綺子ねーちゃんを救わなきゃ」と、フレアリウルに言われて「仕方がない……」と意を決した。フレアリウルが光条兵器をふるって脱出路を造り、博季は幽綺子を抱き上げた。
(「……明子さんという人に、クランジを殺そうという意識は感じられない。彼女を信じよう……」)
 かくして博季らはここから離れていった。
 それを見守る静佳の顔が、変貌した。作りに変化はないのだが表情が違う。まるで別人と入れ替わったかのようだ。
 実際に、入れ替わっていた。静佳が『僕たち』という一人称を使ったのには理由があったのだ。
「かか、久々の肉体だの♪」飄々とした口ぶりで、水蛭子 無縁(ひるこ・むえん)の憑依の状態となった静佳が戦場を馳せた。元々静佳は素早いが、憑依されたことでそれが倍増したように見えた。彼女は炎の渦を出現させて、これで機械犬を遠ざけ、ラムダの超常能力たる『氷』を防がんとする。「明子には若干劣るが九郎の体もなかなかのモノよ。戦の機会には感謝せねばのぅ」冷静な静佳の口を借りて、はしゃぐ無縁の言葉が聞こえていた。
 まるで空を泳ぐよう。静佳の体は鮎のように空中で体勢を変え、氷混じりの風に乗って機械犬の攻撃を避けるのだ。このときを心から待ち望んでいたのがその嬉しそうな表情から判った。
「無縁のやつ、機嫌良さそうだな」彼女と併走するは明子だ。しかしこの声は、明子ではなくその装着する鎧が発するもの。明子にだけ聞こえるように、魔鎧のレヴィ・アガリアレプト(れう゛ぃ・あがりあれぷと)が話しかけているのだ。――魔鎧といってもセーラー服状態なのだが、そこはあえて気づかぬふりをしてあげるのが大人の寛大さだろう。
「ケケ、まァ、俺様も機嫌は悪くねェがな。アイスプロテクトをギンギンにきかせて、マスターの冷気耐性をきっちりアゲた。あとはブン殴るだけだ。殴って怒って直るもんなら、殴りに行くのもありじゃね?」
 というレヴィに応じず、明子はアクセルギアで加速をつけ、緋色の髪したラムダとの間合いを一気に詰めた。ラムダが見せた動きのムラ、十分の一秒のさらに十分の一ほどの虚を突いたのだ。
「隙あり!」ラムダの眼前に飛び込み、明子は告げた。「犬を全部片付けてからとりかかるつもりだったけど……犬どもも半端なく強いし、大将から落とさせてもらうよ!」
「……確実にいけい!」阿吽の呼吸で無縁が高熱の炎を放つ。真っ赤に燃える紅蓮が明子の拳に宿った。
「ちいっ!」ラムダが冷凍の息を吐きかけた。されど、
「小細工無用!」灼熱の炎は、消えない。「アンタ負けたら私んとこに来なさいクソガキ!!」
 太陽が落ちてきたかのよう。燃える拳は、確実にラムダの腹部を捉えた。
「顔はよしなよ、ボディ、ボディ……ってね!」
 耳を聾すほどの爆発音が轟いた。
 同時に、真っ赤な炎の帯を曳きながら、クランジΛの体は高速回転して雪に沈んでいた。
「正直すごい熱い……けど、手応えは本物だった」明子自身、拳に焔を宿したのだから激しく火傷していた。しかし構わず、彼女はクランジが落ちた場所に駆けつけるも、そこで目にしたのは意外なものだった。
 可塑性のある流体金属の上に、背を預けてラムダは目を閉じていた。犬だ。機械の犬が二頭、ラムダの着地点に集結してその身を犠牲に、彼女のクッションとなったのである。
「岩場に叩きつけられてたら……危なかった」クンッ、と、ラムダはブリッジをして起き上がるや半回転、しなる脚で明子の顔面を蹴りつけた。反射的に明子はガード姿勢ばつんと乾いた破裂音がした。明子の左の鼓膜が破れたのだ。空気を送り込むように足の甲で蹴り、しかもそれが異様な威力を持っているからこそできた高下kぢあった。
「もう少し仲間を語らって、犬を全部片付けてからボクにかかってくるべきだったね。誰がガキだって!? ええっ!」
 たちまち明子は右側面も打たれた。さっきの半分の音(左耳が破れているから)がして、右の鼓膜も破裂した。
「諦めない……」明子は歯を食いしばった。ここで諦めれば、ラムダを闇から救うことはできないだろう。「私は絶対、諦めないからね……この……」
 しかし明子の意識は、ゆっくりとその幕を下ろしていった。