葦原明倫館へ

空京大学

校長室

天御柱学院へ

あなたが綴る物語

リアクション公開中!

あなたが綴る物語
あなたが綴る物語 あなたが綴る物語 あなたが綴る物語 あなたが綴る物語

リアクション


●現代アメリカ 2

「ただいま」
 ガチャガチャと鍵を開け、アパートのドアをくぐる。
 1人暮らしなので室内は真っ暗だ。当然先の呼びかけに返事が返るはずもない。
 壁のスイッチを手探りで入れるとパッとあかりがついて、彼を出迎えるようにフローリングにちょこんと座った黒猫が見えた。
 黒猫はラムズと目を合わせ
「にゃあ」
 と鳴いた。


「ごはんですか?」
 足元にまとわりつく猫を見下ろして問う。
 猫はうれしそうに「なぁお」と鳴いて頭をすりつけてくるが、その向こうにはまだ今夜の分が3分の1ほどドライフードの入ったケースがあった。
 ラムズは、仕方ないですね、というようにため息をつき、猫用ミルクを取り出して器へそそぐ。
「今日、昔の友人が2人も結婚式を挙げたんです。あなたも一緒に祝ってあげてください」
 今度は猫は答えなかった。ただひたすらミルクをなめている。
「おいしいですか?」
 そこでふと、披露宴の席で聞いた話を思い出した。
 猫や犬を飼うと独り言が増えて、結婚が遠のくという。
 結婚は相手もいないしする気もないからどうでもいいけれど、独り言が増えるのは確かだ。一心不乱にミルクをなめる猫の後ろ姿を見ながら思った。
 小さく丸まった背中と尾。不器用そうにたてるぴちゃ、ぴちゃ、というリズムの悪い音を聞きながら、それにしても、と考える。
 一体どうしてこの猫を拾ってしまったんだろう?
 小雨が降るなか、路地に座ってにゃあにゃあ鳴いていた猫。ガリガリに痩せていて、野良だというのはひと目で分かった。
「一緒に来ますか?」
 目が合ったのでそう話しかけたら、とことこ後ろをついてきた。
 なんとなく抱き上げ、なんとなく部屋へ入れ、なんとなくエサをやっている。
「もうおなかいっぱいですか?」
 顔をなめた手で洗い始めたのを見て、両手で抱き上げた。おなかが丸くふくらんでいる。ぷよぷよした指ざわり。
「昔ね、あなたのような猫を飼っていたんですよ」
 するっと口から言葉がすべり出た。
 つくづくひとの脳とは不思議なものだ。昨日会った人の顔も思い出せないのに、何十年も昔のことを鮮明に覚えていたりする。
 例えば、その白い子猫を拾ったときも小雨で、似たような夕刻だったとか。
 傍らで死んでいた母猫は三毛だったとか。
 当時少年だったラムズが連れ帰ったその子猫を見て、彼の里親たちは最初とまどっていた。どんな人たちだったかは思い出せない。いくら思い出そうとしても、のっぺらぼうの人形のようだ。どんな話し方をしたのか、どんな声だったのかも思い出せない。ただ身振り手振りの所作は覚えていて……なんとなく、元の場所へ返してきなさい、とかいうようなことを言われた気がする。
 けれど子猫をがっちり抱き締めて離さないラムズに、結局里親たちの方が折れた。両親を亡くした自分と子猫を重ね合わせて見ているのかもしれない、と考えたのかもしれない。推測だけれど。
 にゃあにゃあ鳴くばかりのその子猫を連れて、ラムズは毎晩一緒に眠った。
 ちょっと子どもに甘い、優しい里親。補助金目当てで何人も子どもを引き取り、虐待する里親も多いなかで、彼らはとても立派な人たちだった。
 良い人間は長生きできないと言ったのはだれだったか。
 ある日学校に警察がやってきて、ラムズに彼らの死を告げた。馬小屋から出火した火が母屋に燃え移り、全焼したのだ。父親は馬を連れ出している最中に落ちてきた梁の下敷きになり、母親はほかの小さな里子を連れて母屋から逃げ出そうとしたが戸口へたどり着けず、そのまま死んだという。
 出火原因は浮浪者の寝タバコだった。その浮浪者もまた、里親たちが不憫に思って馬小屋を寝床に提供していた者だった。彼も同じく焼死体で発見された。
 せめて生きていてくれたなら、怒りのやり場もあっただろうに。
 何もかも焼けて失われ、ラムズに残ったのは外に逃げて無事だった猫だけだった。
 周囲で不幸な出来事が続けば、人はそれを自分のせいと思い込む。子どもは特に。新たに引き取られた施設で、ラムズはひととかかわるのを極力避けるようになった。ただでさえ歳をとった子どもというのは引き取り手が少ない。内向的な性格も作用してラムズは里子として選ばれることなく義務教育期間を終えた。
 施設を出てアパートで独り暮らしを始めたラムズ。勉強は並以上にできたので奨学金を受けるのに苦労はしなかった。
 ただひたすらに学校とアパートを往復するだけの日々。単調で、退屈で、平和。凪の続く海原のよう。そこに浮かぶ船はラムズだけで、それ以外はときおり霧のなかから姿を現しては通りすぎる影にすぎず、同船者は1匹の猫だけ。そのことは彼をとても静かな気持ちに落ち着かせた。孤独は感じなかった。彼は平穏を手に入れた。
 長い長い時間が過ぎて。
 いつの間にか猫は長い時間眠るようになった。
 でも猫はよく眠るものだし。
 街が発展していくにつれてアパートの周りも物騒になって、猫には危険な物もいっぱいできて、うろつくのは心配だったし。
 ラムズはそのことに納得し、安心さえしていた。
 しかし猫はエサも食べなくなっていた。
 歳がいったからだ。昔のようにはいかないだろう。人間だってそうじゃないか。
 そのときでもラムズはそう考えることで現実を拒絶した。
 まさかと。
 そんなはずはないと。
 しかしその日はやってきた。
 猫はついに立ち上がることさえできなくなっていた。
 そのことに気付いたとき、ラムズは半狂乱になった。子どものときからずっとそばにいた猫。何をなくしても必ず傍らにいてくれた猫が、とうとう彼の元から去ろうとしている。
「いかないでください……ああ、お願いです…。どうか、どうか私を置いていかないでください…」
 愛する者を失うことには耐えられた。愛した場所をなくすことにも。愛することをやめることにも。だけど猫を失うことには耐えられない。
 横たわった猫の前でラムズは祈った。
 神にではない。神など信じていない。
 彼が唯一信じてきたのは猫だった。パートナーとして、唯一無二の存在として。
 だがその猫は力尽きて、もはや何の力もない。
 そうして長い長い時間がすぎて。
 まるでラムズの呼びかけに応じるかのように猫はぱちりと目を開くと突然頭を持ち上げ「にゃあ」と鳴いた。驚くラムズの前、ぱたりと頭をベッドに戻して……そして二度と動かなくなった。
 まるで遺言のようなひと言。それは「さようなら」という別れの言葉のようであり、「また会いましょう」という約束の言葉のようでもあった。
 そのひと言がなければ、ラムズもそのままそこで死ぬことを選んだかもしれない。しかしそのひと言がラムズに生きる道を選択させた。
 そしてそれから何年も過ぎて。
 たった1人で乗っていた船に、こうして同船者が再び現れた。
 あの猫は真っ白だった。この猫は真っ黒。どこも似たようなところはないのに、不思議とあの猫を思い出させる。
「また会えました……そうですよね?」
 ベッドでぴったりと背中をくっつけて眠る猫に向かってそう言うと、ラムズはふふっと笑った。


*            *            *



 病院は今、野戦病院さながらのありさまだった。
 駐車場は車で埋め尽くされ、病院の玄関付近は三重駐車しているものもある。外も内も人であふれかえり、緊急を表す回転灯が回っている。
 病院へ駆けつけた涼介は、一歩敷地内に入ったとたん、その異常さに驚いた。
「これは…」
 ミリアがはねられただけじゃないのか?
「ああ、フォレスト先生!」
 ロビーで立ち止まっている彼に気付いた看護師がぱたぱたと駆け寄ってきた。
「一体何が起きたんだ?」
「玉突き事故です。バスのタイヤが突然破裂して蛇行運転になり、次々とぶつかってはじき出された車が路上の人たちをはねたんです。バスは店に飛び込み、炎上しました」
「ミリアはそこに巻き込まれたというわけか」
「そうです。ミリアさんは頭部を打って失神しているところを発見されました。はねられましたが距離があったので軽傷ですんでいます。今は投薬され、眠っています。命に別状はありません。
 それより先生、先生はすぐにオペ室へ行ってください。今非番の先生方もこちらへ向かっていますが、とても手が足りません!」
「……分かった」
 すぐさまミリアの元へ行き、安否を自分の手で確認したい思いはあったけれど、この惨状でそれを押し通すことはできない。
 涼介はオペ室へ急行し、そこで自分のチームの者たちとともに命を助ける戦いに没頭した。専門は心臓外科だがそれ以外できないわけではない。
 時間の概念なくひたすら馬車馬のように働いて、とうとうエネルギーが尽きかけたとき、通路にその女性が現れた。
 最初、涼介は事件を聞いてパニックを起こしたまま駆けつけた家族が悶着を起こしているのだと思った。だがよくよく聞いてみれば違うようだ。
「ここにセレアナという女性がいるでしょう? すぐにあたしを彼女の元へ連れて行きなさい!」
 そんなことをその女性は言い張っている。
 かなり強気な女性で、看護師たちのロビーでお待ちくださいとの発言は全てごまかしだと思っているらしく、一歩も退く気配を見せない。看護師たちが対処に困っている様子を見かねて、涼介がそちらへ歩み寄った。
「あなたはだれですか」
「そういうあなたこそ」
「私は涼介・フォレスト。この病院の外科医です」
 女性は尻ポケットから身分証を出して彼に見えるように突きつけた。
セレンフィリティ・シャーレット(せれんふぃりてぃ・しゃーれっと)。連邦捜査官よ」
 その声は周囲に聞かれることを配慮してか、先までと違って格段に落とされている。涼介がそれを本物と確認するだけの間を置いて、また身分証を戻した。
 連邦捜査官がこんな所に現れるとは。その意味がなんとなく推察できて、涼介は眉を寄せる。
 事故はただの事故ではなかったということか。
「あなたが何者かは分かりました。それで――」
「一体何の騒ぎかと思ったら、やっぱりあなたなのね」
 処置室から出てきた黒髪の女性が語尾に言葉を重ねた。腕と足に包帯を巻いている。
「セレアナ! 無事だったのね!」
「ええ、そうね。でももう少し声のトーンを落としてもらえるとありがたいんだけれど。あなた、かなり悪目立ちしてるわよ。そんなことしていいの?」
「こうなったらいいも悪いもないわよ! さあ一刻も早くここを出るわよ!」
 腕を引っ掴み、走り出そうとするセレンフィリティに、セレアナがまったをかけた。
「ちょっとちょっと! いきなり何するのよ、痛いじゃない!」
 包帯の真上を握っていた手を振り払う。
「あ」
「しかも何? 私に走れというの? 冗談じゃないわよ。私はね、いまだかつて走るなんてそんな下品なことをしたことなんかないんだから! 車の方を持ってきなさいよ!」
「……車は玄関前に横付けしてあるわ。だからそこまで――」
「いやよ」
 ぷい、とそっぽを向く。
「私は走らない。いいこと? 上品な淑女は、絶対に、何が起きても、走ったりしないの。OK?」
 子ども相手に噛んで言い含めるようなもの言いをするセレアナに、セレンフィリティの口端が引きつった。
 彼女は出会ったときからこうだった。高慢で、外見や世間体ばかり気にして、ちっとも事態を理解していない。マフィアから命をねらわれているのは自分だというのに。
 なんて守りにくい護衛対象!
(よくもこんな相手を押しつけてくれたわね……恨むわよ)
 脳裏に浮かんだ上司や先輩捜査官たちに毒づきつつもそんなことはおくびにも出さず、セレンフィリティはにっこり笑って見せた。……少し引きつっていたけど。
「いい? 車は病院のなかまで入ってこれないのは常識的に考えて分かるでしょ。あなたには2つの選択肢があるの。1、自分の足で走る 2、あたしに引きずられながら走る」
「3よ。優雅に歩いて出るわ」
 そのとき、セレンフィリティの携帯が振動した。見張りからの合図だ。
「もう遅いわ! 2に決定!」
 むんずと腕を引っ掴み、セレンフィリティは駆け出した。
「ちょっと! 痛いじゃない! 緩めなさいよ、このゴリラ女!」
「緩めたらまた振り払うでしょ! あんたは!」
 そのほかにも何かをひっきりなしに怒鳴り合いながら2人はけたたましく廊下を駆け抜けて、あっという間に涼介たちの視界から消えていった。
「あの……先生。セレアナさん、外来扱いでいいんでしょうか?」
「ああ……まあ、そうだな。それでいいだろう」
 セレアナ・ミアキスというこの名前が本物かどうかも疑わしい患者だが。そうしたところで文句はどこからも出てこないに違いない。
「診療費は政府に請求すればいい」
 おずおずと訊いてくる看護師の肩をぽんとたたき、涼介は安心させるように笑顔も見せた。



 救急診療を終え、ほかの外科医師と交代したとき、涼介はすっかりくたびれきっていた。
 時刻はもう明け方。涼介が病院へ駆けつけてから12時間以上経過している。もうミリアも目覚めているころだろう。一度家へ帰って、身なりを整えてからミリアの元へ行くべきだろうか? こんな様子では彼女を心配させるだけだ。そう思ったものの、帰宅すればその場で倒れ込み、寝てしまうのは分かりきっていた。
 ミリアも医療関係者だ。きっと分かってくれるだろう。そんなことを思いつつ病室を訪ねた涼介は、彼女がまだ眠っているのを見てほっとした。だがそれもつかの間、彼女の眠りの深さに妙な違和感を感じる。
「そこのきみ」
「わたしですか?」
 廊下を歩いていた看護師を捕まえてミリアのカルテを持って来させた。
 身体的には車体と野接触による軽いすり傷のみ。頭部を背後の壁で強打し、昏倒した状態で運び込まれている。後頭部に小さなひびが入っているが生命に影響するようなものではない。重度の脳震盪の恐れあり。
「呼びかけはしている?」
「はい。定期的に覚醒を確認しています」腕時計を見る。「15分後に6回目の確認をします」
「そうか。ありがとう。それは俺がやるからいいよ」
 カルテを戻し、再び部屋へ入る。イスを引き出して彼女の枕元に腰かけた。
 こうして眠る彼女を見るのは久しぶりかもしれない。しかし、そうしているとまた先の妙な不安感がこみ上げてきた。カルテは見た。信頼のおける医師だから誤診ということはないだろう。だが彼女の口から直接聞きたかった。何ともないと笑ってほしい。
 枕元のデジタルがピーと小さく鳴って、時間を知らせる。
「ミリア。起きて、ミリア」
 声をかけ続けるとすぐにミリアは目を開いた。焦点が合ってないのは寝ぼけているからだ。覚醒するにしたがってそれもなくなる。
 数度まばたきをしたのち、ミリアは涼介の方を向いた。
「私…」
「自身の名前を言えますか? 私が出している指は何本です?」
 その質問のおかしさに笑いたいのをこらえて、涼介は大真面目な顔で診断テストをする。
「ミリア……フォレスト……です。指は、3本……ですね」
「あたりだ。どこか痛いところはある? 手足のすり傷以外でだけど」
「いえ……特にはありません…。あの……今、何時ですか…。家に帰らないと……犬が…」
「大丈夫だよ。いつものセンターに連絡して、面倒を見てくれるように頼んである」
「そうですか…。ありがうございます、先生」
「10時の回診で問題なければ午後には退院だ。
 きみが無事でよかった、ミリア」
 そっとキスをしようとして――ミリアはぱっと顔をそむけた。
「ミリア?」
「あ、あの……先生、いきなり何を…」
 最初、その反応は先生と患者ごっこをまだ続けているのだと思った。だがベッドの端に寄って身を縮めている彼女を見ているうち、違うと気付く。
 彼女は本気でセクハラされたと思っておびえている。
「ミリア?」
「近付かないで…! ひ、ひとを呼びますよ!」
 指はナースブースに通じるインターホンに添えられていた。
 彼女は記憶を失っていた。



「記憶喪失の範囲は約2年。つまりここへ赴任してきたおまえと出会ってからの一切だな」
 心身両方で何十時間にも渡る診査を行ったあと、精神科医師はそう結論をつけた。
「とにかく……彼女を家へ連れて帰るよ」
 混乱した頭のまま、涼介は答える。
 家は結婚を機に購入したものだった。つまりミリアには初見だ。
「これが家……ですか」
 ミリアにはぴんとこなかった。昨日までアパートで1人暮らしをしていたと思っていたのだから当然ではある。
「ミリア、今玄関を開けるから少し待って」
 車から荷物を下ろしていた涼介の言葉にびくんとミリアの体がはねた。
「あ、はい。あの……申し訳ありません」
 他人行儀でびくついているミリアの姿にそっとため息をつく。
 名前を呼ぶだけでびくつかれてしまうとは。一番警戒される人間になってしまった。
(最初にキスしようとしたのが悪かったのか…)
 夫婦なのだし。あれは当然の行為なのだが。
 病院で複数の人間から説明を受け、今ではミリアも自分の状態を理解していた。ただそれは了解せざるを得なかっただけで、本当に納得しているのとは違う。
 ミリアにとって涼介は初めて会う男性で、なのに夫で、自分は知らないのに相手は自分のことを知っている、という複雑な相手なのだった。しかも一緒に暮らさなくてはならない。
 本来ならここは紳士的な態度で「俺はアパートに移るよ」とか言わなくてはならないのだろう。膨大な矛盾する情報によって彼女がすでにオーバーキャパシティなのはあきらかだ。しかし反対に、それによって爆発的な何かで記憶がよみがえってくれるのではないかという期待があった。
「記憶喪失といっても一時的なものがあるからな。ほんの数時間、数日で回復するものもある。重度になれば幼児退行や言語障害、日常生活の一切を忘れてしまうのもある。それに比べれば2年分の喪失なんか軽い方だ」
 精神科医の言ったなぐさめが今の涼介のよりどころだった。このままの状態が続けば、離婚ということにもなりかねない。
「ミリア」
「は、はい。何でしょう?」
「俺は病院へ戻らなくてはならない。帰りは何時になるか分からないんだが」
 うぉんっとミリアの横についていた愛犬が吠えた。
「この子がいるから大丈夫です」
「うん。分かった。じゃあ」
 本当は休暇をとりたかったが、フランスへの研修や先日の事故など諸々の要因からそれは却下されてしまった。
 車に乗り込み、去って行く涼介をミリアはキッチンの窓から見送る。
 優しい男性だ。それはとうにミリアも分かっていた。献身的な医師で、職場のみんなからも信頼され、患者にも慕われている。ミリアも看護師だったから彼が医師としても人間としてもすばらしい人だというのは理解できて……じゃあなぜそれだけ理解できてて彼を避けるような真似をしているのかというと、どうしてそんな男性が自分なんかと、という思いがぬぐえないせいだった。
「そうよ? そうですよね? だってそんなの、おかしいじゃないですか。もっときれいで、もっと有能な人たち、あの職場にはいっぱいいるのに…」
 なのに彼と同じ結婚指輪を自分がはめている。同じ苗字を名乗っている。一緒に暮らしている。そう考えると、もう胸がドキドキドキドキして…。
「だ、だめです。心臓がもちません。ほかのことを考えましょう」
 振り返り、ダイニングキッチンを見た。特に広くもなく、狭くもなく、ぴったりの大きさ。きちんと整理整頓されていて、明るくて、清潔で。それでいて観葉植物や所々に置かれた小物があたたかみを出している。
 結婚して家庭を持ったらこんな家に住みたいと思っていた。それがかなったのだ。
 私の夢の家。
 ミリアはうきうきとした気分で探索を始めた。



 実際暮らしてみると、日常生活を送る上で2年程度の記憶喪失はたいした問題ではないことが分かった。
 近所の人たちは事情を理解し、協力的で地域のことはいろいろと教えてくれるしフォローもしてくれる。仕事についても、ミリアは結婚後退職して家庭に入っていた。いつかは職場復帰するかもしれないが、それはまだ先のことと考えていたらしく、そのことに今のミリアも不満はない。
 愛犬をおともにゆっくり家事をこなす日々は自分の性に合っているとも思った。
 休みになれば涼介がいろいろな所へ連れて行ってくれる。それは2人で行った思い出の場所ということだったが、彼の気配りで純粋にミリアは楽しめた。
 それだけに、彼のことを思い出せないのが申し訳ない気持ちがつのってくる。いつしかその思いは、自身へのふがいなさ、歯がゆさの方が大きくなっていた。
 全く知らなかった家にも、この地域にも、なじんだ。それは自身が動き、探索し、自分のものにしたからだ。
 とすると、彼のことを思い出せないのは、やっぱり彼に対して自分がひるんでいるから?
「ゆ、勇気です、ミリア……これは、そう、アレです。飛び込み台の上に立ったのと同じです。えいやと飛び込んでしまえば…」
 それにべつに、いやなことというわけでもないんでしょう?
 真っ赤なほおにを手ではさみ、自身に言い聞かせながら、ミリアは客室のドアを開いた。
 中は真っ暗だった。でも廊下の間接照明のおかげで物の輪郭程度は分かる。ベッドには眠る涼介の背中があった。
 そっと近づき、ためらいがちに手を伸ばす。指先が肩に触れるより早く、涼介から声がかかった。
「今触れたら保証できないよ。それとも」寝返りを打って彼女を見る。「それで来たの?」
「私……あの…」
 ミリアはとまどった。涼介は眠っていたせいか、笑顔が緩慢で、気だるげで、危険なほどセクシーだ。
 しどろもどろになりつつも、彼に説明をする。話の途中、涼介は床に足を下ろしてベッドに腰かけ、ミリアが自説を話し終わるのを待って立ち上がった。
「俺はきみの夫だ。きみを本当の妻として扱うことに異論はない。だけどきみはそれでいいのか? それが一番大切なことだ」
「私は…」すっと息を吸い込み、止めた。「ええと、あなたに不満があるわけではないんです。ただ……そのう……怖くて、緊張してるだけ、なんです」
 その最後の一歩を、涼介がうまくしてやればいいということだ。
 涼介はミリアの腕の下へ両手をすべらせ、軽々と抱き上げた。身をねじり、慎重に彼女をベッドへ寝かせる。少しへこんだやわらかなマットに残るほのかなぬくもりにミリアは彼を感じた。急速に高まった鼓動が痛いほど胸を押し上げている。上下する彼女の胸を見つめる涼介の黒い瞳がけぶるように明度を落としたのが分かった。ベッドに片ひざをついたまま、しなやかにシャツを脱ぐ彼の腕で盛り上がる筋肉にほれぼれと見入る。
 かぶさってくると廊下からのあかりは完全に彼の真後ろになり、彼はほぼ影になった。だが間違えようもなく、彼は涼介だ。涼介の指が彼女の寝間着に触れ、前ボタンをはずし始めた。ゆっくりと、まるで今でも遅くない、考え直す時間を与えようというように。しかしミリアはむずがゆいようなじれったさを感じるばかりだった。
 やがて寝間着が左右に開かれて、ミリアの肌が空気にさらされた。貧弱な自分の体が涼介の目にさらされていると思うと、前を掻き合わせて隠したい衝動が起きる。でもミリアはそうするかわりに持ち上げた両手で涼介のほおを包んだ。涼介は少し呼吸が不規則になっている。
 彼女の手にキスをする間も目はミリアから離れない。
「キスしてください」
 その願いに応じるように涼介は頭を下げた。吐息が触れるほど近く唇を近づけ、ささやく。
「まるで初めてきみを抱くようだ」
 そして彼女の手を自分の心臓の上へと導いた。
 自分と同じくらい早まっている鼓動をてのひらに感じてミリアはにっこりほほ笑む。彼も私と同じ。そう思うと緊張が飴のように溶けていく。
「愛しているよ、ミリア」
 ささやかれるその言葉が真実彼の想いだとミリアは実感した。
 大切にされている。触れ合った肌からも、視線からも、それを感じることができる。もう言葉は必要ない。記憶も必要ない。ミリアは彼に愛されながらそう思った。
 彼に愛されていると心から信じられる。それがうれしい。涙がこぼれるほどに安心できる。
 翌朝、涼介の腕のなかで目覚めて、あらためて思った。間違っていなかった、ここが自分の居場所だと。
「ただ、覚えていないというのはちょっと残念ですけれど。でも確信があるんです。記憶を失う前の私も、今と同じような思いを感じていたに違いないって」
「そう」
 ベッドで彼女を後ろから抱き締めて座りながら、涼介は彼女の結論を受け入れた。
「人生は80年あるそうです。だとしたら、私たちにはこれからまだ半世紀近くあるんです。それに比べたら2年なんてほんの少しですし……それに、こうも思ったんです。もしまた記憶を失うことが起きたとしても、私はそのたびにあなたに恋をするって。
 あなたを忘れて、たとえこの思いを忘れても、何度でも、そのたびに私は必ずあなたを好きになり、あなたと愛しあうんです」
 それはゆるぎない、必然なのだとの思いが、彼を見つめる視線には込められていた。
「怖くないの?」
「どうしてですか? あなたは記憶をなくした私でもこうして愛してくれるのでしょう?」
 記憶はいつか戻るだろう。何かの拍子に、ふとしたはずみで思い出すかもしれない。例えば料理をしている途中とかに。でもきっとそれは重要なことではない。ああそうか、と納得して、彼女はそれまでしていた作業に戻るに違いなかった。料理を作り、テーブルを飾り、部屋を暖かくして、あかりの灯る家で涼介の帰宅を待つ。「おかえりなさい」と涼介を出迎え、夕食の席で今日あった出来事を互いに話したり聞いたりしながら、何気なく話題の1つとして持ち出す。
 多分、その程度のこと。
「愛しているよ、ミリア」
 耳元でささやかれた言葉にミリアはくすぐったそうに肩をすぼめ、でもうれしそうに笑った。



 1週間後、2人は2年前と同じ教会で式を挙げた。涼介がどうしても必要なことだと言い張ったからだ。
 はじめは必要ないと思ったミリアだったが、祭壇の前に彼と向かい合って立ったとき、彼がなぜあんなにも望んだのかを理解した。
 これは儀式だ。
 ささやかで、でも大切な誓い。こうしたことひとつひとつが積み重なって、二人の絆をたしかなものへと変える。
「これからも一緒だ、ミリア」
「はい」
 差し出された手に手を重ねてつなぐ。
 教会の鐘が鳴り響くなか、2人は外の光に向かって歩き出した。