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束の間の安息
雲間から射し込む光も美しく、見上げれる世界樹ユグドラシルの姿は威風堂々。アールキングの驚異を退け、新たな皇帝の誕生しようというこの時を祝うかのような、明るい空の下。それに負けないほどの明るさと華やかさが、エリュシオン帝国に満ちていた。
パラミタに広がる暗い陰、アスコルド大帝の崩御と、不安に満ちた日々を送っていた帝国の人々にとって、待ち望んだ慶事だ。心に溜まった不安のすべてを吹き飛ばそうとするかのように、国を挙げた盛り上がりを見せていた。
そんな帝国のもっとも中心部である帝都ユグドラシルの中だが、重たい空気に静まり返った場所がある。
エリュシオン宮殿オケアノス選帝神公邸。もう一人の皇帝候補でありながら、世界樹ユグドラシルへ大きな傷跡を残した大罪者。荒野の王ヴァジラにあてがわれた一室である。本来であれば極寒のジェルジンスク監獄がふさわしい身分ではあるが、先の戦いで大きな傷を負って動けないため、療養のために、彼の共謀者である選帝神ラヴェルデと共に、屋敷に軟禁状態に置かれているのだ。
屋敷に勤める者ですら敬遠しがちなその部屋に、見舞いに訪れていたのはティー・ティー(てぃー・てぃー)とイコナ・ユア・クックブック(いこな・ゆあくっくぶっく)だ。
ガーベラやスイートピー、カスミソウ等、明るいオレンジややさしいピンクに白がバランスよくアレンジされた花は、豪華ではあるがどこか冷たい空気のある室内を、ぱっと華やがせた。それらを生けた花瓶の側には、さくらんぼや桃、ぶどうにメロンと季節の果物が並べられていく。
その甘く淡い香りが鼻孔をくすぐったのに、ヴァジラは薄く瞼を押しあげた。
「……具合はどうですか?」
視線を動かすのもどこか億劫そうな様子に、ティーが控えめに声をかけたが、数度瞬きした後、ふん、とヴァジラは変わらぬ態度で鼻を鳴らし、ゆっくりと上体を上にずらした。
「む、無理しちゃだめですわ」
「眠っていただけだ。大事ない」
慌てたイコナにヴァジラは表情を変えなかったが、ティーはずれたふとんを引っ張り上げながら、わざと気づかなかったふりをして、その肘を軽くわき腹に当てた。
「……ッ、……、」
力としてはほんの僅かだ。それでも、声を殺してはいるが、寄った眉や震えた掌が現状を正しく伝えてくる。やはり強がっているのだと、ティーはほんの少し抗議するように眉を上げた。
「い、痛いなら、苦しいなら、ちゃんとそう言って下さい……うさ……」
「……」
ヴァジラは答えなかったが、また試されてはたまらないと思ったのか、息をついて体を動かすのはあきらめたようだった。そんなヴァジラを、枕元に寄ったイコナが困ったような顔でのぞき込んだ。
「約束のデザート、作ってきたのですけど……食べるのは難しいですの?」
その言葉に、一瞬妙な顔をしたヴァジラは「問題ない」と答えようと口を開いたところで、ティーの目線を感じて眉を寄せた。
「……器官が万全ではない」
遠巻きに、消化器官の不全で食べられないのだと伝えるヴァジラに、イコナは残念そうに眉根を下げたものの直ぐに気を取り直して「また作りますわ」と笑った。
「そうしたら、食べてくださいますの?」
「……ああ」
返答にわずかに間を空けつつも、頷いたヴァジラに、イコナはその表情をほころばせて枕元ににじり寄り、でしたら、約束に添え足すように口を開いた。
「スイカが、収穫待ちですの。治った頃には、食べごろだと思うんですの。それから、フリングホルニという船を頂いたので、一緒に乗って……」
それから、それから、と、その日が来るのを待ち遠しそうに、そして楽しそうに先のことを語るイコナの言葉を、ヴァジラは馬鹿にするでも否定するでもなく、表情を変えぬままに黙って聞いていた。その横顔を見て、ティーがわずかに悲しげな顔をしているのにも気付かず「そう言えば」とイコナは身を乗り出した。
「ジェルジンスクに温泉が出来たといいますし。湯治も良いと思いますの」
机の上にあった招待状をひらりと揺らしたイコナは、ジェルジンスク、と聞いて微妙な顔をするヴァジラに、首を傾げたのだった。
「今頃複雑な顔をされているでしょうね」
その招待状の送り主、聖・レッドヘリング(ひじり・れっどへりんぐ)は、小さく笑いを噛み殺した。
ジェルジンスク監獄に程近く、雪深く木々に囲まれた一角に建てられた、真新しく、建築様式こそジェルジンスク地方のものだが、内装は施設の面が強いためか一種独特なこの建物こそ、件のジェルジンスク温泉である。監獄周りは常に雪と氷に覆われた、天然の要塞であったのだが、温泉をいたく気に入った様子のジェルジンスク選帝神ノヴゴルドが、その付近の気候をどうにかしたらしい、とは公然の秘密だ。
「しかし、白峰の湯……とは」
ノヴゴルドが温泉に贈った名前は、予想外に和なものだった。意外そうな顔をしている聖に、すっかりスタッフとして馴染んでいる樹隷のハーフである青年ランドゥスが、くすっと小さく笑った。
「こちらの地方は、冬の寒さが堪えますからね。温泉は非常に憧れなんですよ」
北方に位置し、連なる霊峰が寒気を留めるためなのか、特にこの辺りは吐く息が凍る、とまで言われる極寒地帯である。おかげで、他の地方なら街で見かける公衆浴場なども、殆ど無いのだそうだ。老体と思わぬ貫禄のあるノヴゴルドが、憧れるあまり地球の島国の情報までこっそり仕入れていたのかと思うと、妙におかしい。
「招待状も、どうやら皆さん受け取っていただけたようですし、あとは落成式を待つばかりですね」
そうしてし向けた視線の先では、スタッフたちにまめまめしくアドバイスしているキャンティ・シャノワール(きゃんてぃ・しゃのわーる)の姿がある。
「掃除のブラシ掛けはそうじゃないですわ〜、もっと力を入れて……こうですぅ」
「はいっ」
元気よく答えているのは、監獄に勤めていた樹隷のハーフ達だ。テロ騒ぎの一件から、温泉探しに開発に、と尽力してくれた彼らは、今では立派に温泉のスタッフである。それなりに規模の大きな宿泊設備付の天然温泉施設で、キャンティの監修による地方の特産品の販売コーナーから、料理まで幅広くこなす、欠かせない戦力だ。そんな彼らの表情は、目の回るような忙しさの中でも、総じて明るい。
「貴方には、感謝してもしきれません」
そんなスタッフの顔を見ながら、ランドゥスが口を開いた。
「本来、帝国臣民とは接触の許されない筈の、樹隷との間に生まれた我々です……日の当たる場所で生きることができるとは、思ってもいませんでした」
細められた目に滲んだものが、今まで彼らの置かれた状況を語っている。そんな背中を、聖はぽんと叩いた。
「セルウスも皇帝になられ、こういう場所も出来ました」
きっと、少しずつ、樹隷や彼らハーフたちの境遇も変わってくるだろう。そう告げる聖に頷き、しんみりとした空気の流れる二人に、「ちょっと」とキャンティが口を尖らせた。
「ひじりん、らんちゃん、何をぼーっとしてるんですの?」
やることは一杯ありますのよ、と叱りながら、ちゃっかり自身のキャラクター商品を並べている様子に二人で顔を見合わせて笑った。
「様々な理由で今後も難しい方もいらっしゃるでしょうが……今は稀有なこの場所を、遠くない未来、エリュシオンで知らぬ者はない場所にしたいですね」
呟いて目を落としたのは、招待状を贈った面々からの書状だ。それぞれ忙しい身分ではあるが、ノヴゴルドは必ず出席すると約束しているし、ティアラも乗り気のようだった。クローディス・ルレンシア(くろーでぃす・るれんしあ)達は大所帯になると思うが、という手紙付きだ。彼らが訪れることで、後に続いてくれるものは必ずいるだろう。
出だしは好調ですかね、と笑って、湯場の扉の前にカット用の紅白のリボンを掛けながら目を細めた。
「この温泉が、人と人の垣根を取り払う場所になると良いですね」
「なりますよ」
珍しくしみじみと漏らされた聖の言葉に、ランドゥスは力強く頷いたのだった。
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