葦原明倫館へ

空京大学

校長室

天御柱学院へ

そんな、一日。~台風の日の場合~

リアクション公開中!

そんな、一日。~台風の日の場合~
そんな、一日。~台風の日の場合~ そんな、一日。~台風の日の場合~ そんな、一日。~台風の日の場合~

リアクション



7


 朝起きたら思いのほか風が強くて、博季・アシュリング(ひろき・あしゅりんぐ)は大いに慌てた。庭に飛び出し、プランターや鉢植えを屋内へと仕舞う。
 ぎりぎりまで外にあった方が花たちも喜ぶだろうと思ってのことだったが、こんなに風が強くなっているとは思わなかった。風に負け、茎が曲がった子がいないだけまだセーフか。妻からもらったハーブも無事なようだし。
「ごめんねごめんね……!」
 安全圏に移した鉢植えへと謝ってから、もう一度庭に出た。物置から支柱を取り出して、植木に立てかけ補強してやる。直植えのこの子たちは元々風雨には強いたちだから、たぶんこの処置で大丈夫だろう。
 それからちらりと生垣に目をやった。どうにかしてやりたいが、どうにかできる代物でもない。多少なりとも乱れてしまうだろうから、後で手を入れてあげないと。
「って、それはお庭全体に言えることなんだけど……」
 強い暴風雨は砂塵や土を運び込み汚すだろうし、枝が切れたり倒れたりするかもしれない。修復にかなりの体力を使うのだろうということは想像に容易く、苦笑いが込み上げてきた。きっと、庭を持つ人は今の博季と同じように苦労を感じているのだろう。まあ、苦労した分愛しく思えるのだから別にいいけれど。
 他にも気になる場所はないかと家の周りを見て回る。壁も、屋根も、心配なさそうだ。庭から部屋へ戻ろうとして、ふとひとつ気になった。庭を抜けて玄関に出て、きょろきょろと辺りを探ると、見つけた。
「こんにちは、蛙くん」
 博季の玄関先に住み着いた蛙だ。こんな天気でも、変わらずチャイムの上で寝ている。身体は小さいくせに、随分と心臓が大きいようだ。少しして蛙は目を覚まし、博季のことをじっと見た。博季は「おいで」と声をかけ、蛙を手のひらに乗せて部屋に戻った。とりあえず、室内なら安全だろう。
 懸念材料を片付けると精神的に余裕ができた。お茶でも飲もうとキッチンに行って、ふと思いついた。冷蔵庫の中から鶏肉を取り出す。適当な大きさに切って、紅茶を淹れて、お茶請けにクッキーを用意して。
「生肉と紅茶とクッキー。……シュールだなぁ」
 呟きながら、ソファに座る。ピンセットを手にする僅かな間に蛙はテーブルに鎮座していた。こうして肉をあげたことが何度もあったため、蛙の方も慣れきっているのだろう。可愛い。
 ピンセットで肉をつまみ、蛙に与え。
 たまに自分も紅茶を飲んで、クッキーを齧って。
 テレビをつけると通常通りの番組進行の合間に気象情報が入り、台風の大きさを物語っている。窓の外を見ると、いつの間にか大粒の雨が街を覆っていた。
「……クロエさんやみんな、大丈夫かなぁ?」
 ぽつりと呟くも答える人間は誰もいない。それを少し心細く思っていると、電話が鳴った。妻だろうか。
「もしもし?」
『あ、ひろきおにぃちゃん?』
「あれ? クロエさん?」
 どうしてこの家の番号を、と尋ねると、クロエは前にマリアベルが教えてくれたのだと言った。
『なにかあったらえんりょなくかけろっていうから』
「えっ、何かあったの? 大丈夫?」
『ううん、なにもないわ。へいきよ』
「そう? それならよかった」
『しんぱいだったからかけただけなの』
「心配? って、僕?」
『うん。きっといまごろ、ひとりだとおもって。ひとりのときおてんきがわるいと、なんだかきぶんがしずまない?』
 確かに、と頷く。実際ちょっと、沈んだところだった。そう言うと、クロエは笑った。
 しばらく他愛もない話をして、それが五分ほど続いた後お客様が来たからと言って電話は切れた。
 ひとりの時に天気が悪いと、気分が沈む。か。
「…………」
 博季は、通話を終えたばかりの電話のボタンを押した。何度もかけた番号へ、繋げる。
 たぶんあの人は、ひとりじゃないだろうけど。
「あ、もしもし? リンネさん? 僕。――いや別に、用って用があったわけじゃないんだけど。うん――」


 頬に、水滴が落ちた。
 天ヶ石 藍子(あまがせき・らんこ)は落ちてきた雨粒を指先で拭い、空を見上げた。家を出るときには薄灰色の空だったが、いまや輪をかけて不穏な色となっている。本降りになるのは時間の問題、と考えている間に雨は大粒に変わった。急いで目的地へと駆け込むが、あの短時間で随分と濡れてしまった。
「本当は、雨が降る前にお店に来たかったんだけど」
 藍子がびしょ濡れで店に飛び込んで来ても、フィルスィック・ヴィンスレット(ふぃるすぃっく・う゛ぃんすれっと)は驚いた顔ひとつ見せなかった。いつも通りの食えない笑みで、「ご愁傷様ー」と言ってタオルを差し出している。
「降られる覚悟はしていたわ。仕方ないわね」
 タオルを受け取り、藍子はありがとうと言って微笑んだ。フィルはカウンターに頬杖をついて藍子の方を見ている。
「そんなにケーキ食べたかった?」
「はずれ。フィルくんが台風の中で何してるのか興味があったのよ」
「わおー。俺って好かれてるー」
「ええ。魅力的よ、とても」
「水も滴るいい女にそんなこと言われたらぐらりと来ちゃう」
「それは重畳。でもごめんなさいね、水も滴る格好って、この季節寒いの。着替えを貸していただけたら幸いなんだけど」
「これはこれは至りませんで。俺の私服とここの制服、どっちがいい?」
「あら、制服をお借りしていいの? いいのなら制服で。そしてついでに一日アルバイトとして雇ってくれたら嬉しいわ」
 ここでようやく、フィルはうん? と首を傾げた。この反応が見られたのでひとまず満足だ。藍子はにっこり笑って、先ほど思い浮かべたことをフィルに伝えた。
「お店の制服を借りてお手伝いすれば、雨宿りにもなるしフィルくんのお話も聞けるでしょう? 一石二鳥だと思うの」
 ついでにアルバイト料としてお店のお菓子や紅茶もいただけたら言うまでもない。が、そこはほとんど期待してない。だって元々こっちが突然転がり込んできたのだし、雇って欲しいというのもこちらから言い出したことだ。それに。
「確かにいい案だけど、藍子ちゃん仕事したことあるの?」
「ないわ」
「未経験」
「ええ、まっさらよ。貴方が好きに染めてくれて構わないんだけど、どう?」
「俺天才だから教えるの下手なんだー」
「面倒くさいだけでしょう」
「げっバレた。だから似たもの同士って辛いんだよねー」
「ふふっ。いいじゃない、教えてよ。調理は博季に教わったから出来ないこともないし、掃除は得意よ。紅茶は飲む専門でコーヒーはよくわからないわ」
「紅茶好きなら淹れ方覚えてみるー?」
「ええ。教えていただける?」
「先生と師事するよーに」
「わかったわ、センセ」
「ここで素直に返されると負けた気分。なんだかなー」
 と言いつつも別に嫌そうでもなく、フィルは藍子に制服を渡した。交渉は成立したようだ。
「それじゃセンセ、またあとで」
「はいはい、またあとでー」
 制服を持って更衣室へと向かう。
 自然と口角が上がってしまうような楽しい気分なのは、事が上手く運んだだけではないだろう。