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リアクション
(そろそろ始めるかな)
リビングの柱にかかった時計を見上げて、涼介・フォレスト(りょうすけ・ふぉれすと)はそっと立ち上がった。
彼の妻、ミリア・フォレスト(みりあ・ふぉれすと)と娘のミリィ・フォレスト(みりぃ・ふぉれすと)はテレビの方を向いたままで、映っている芸人の発言に対してミリィが何か意見を言っては笑う姿をミリアがやさしく見つめている。
静かに、音を立てず。自然にその場を離れた涼介の動きに2人が気づいている様子はなかった。
そのままダイニングへ移動した涼介は、あかりをつけてキッチンに立つ。
年越しの準備は昼間の大掃除のあとにあらかた済ませてあった。水屋には正月用のおせち料理が入っている。そのとなりにふきんをかぶせて置いてあるのは付け合わせ用の天ぷらだ。鍋には甘く炊いた油あげがあり、ほどよく味が染みているはずだった。
しかしメインの年越しそばはそういうわけにはいかない。
深鍋を取り出し、水を張って麺を茹でる準備をしていると、後ろでカチッと音がした。
ブン、と機械の作動する音がして、暖房機が風を送り始める。
振り返ると、ミリアが暖房機の前で中腰から背を伸ばしていた。
「冷たい所に長くいますと体が冷えて、風邪をひいてしまいますわ」
「ミリアさん」
「私も手伝います」
傍らにきて、そば粉の入った袋に伸ばしたミリアの手を、そっと横から掴み止めた。
「あとはそばを作るだけだから、私だけで十分だ」
「でも」
「あなたこそ、長時間台所に立ったりして、体を冷やしてはいけない。大事な体なのだから」
涼介の言葉にミリアは彼の視線を追った。涼介は彼女のおなかを見つめている。
ミリアは涼介との愛の結晶をそこに宿していた。まだそんなにふくらんでおらず、マタニティウェアの洗練されたデザインのおかげでひと目で妊婦と気づけるほど目立ってはいなかったが、手足の冷えやむくみ、腰痛など、妊婦によく見られる身体的特徴が出ていることに涼介は気づいていた。
ミリアは少し考え込むように首を傾げ、うなずく。
「分かりました。でも、あなたもすぐに来てくださいね。あと、本当に手がいるようでしたら呼んでください。運ぶくらいはできすから」
きっとそれでも涼介は呼ばないだろう。そう分かっていても、言わずにいられなかった。
涼介は笑顔で「ああ」とうなずいた。
リビングからかすかに聞こえる楽しそうな2人の女性の声に耳を傾けながら、涼介は料理を再開した。
水をさしながらそば粉を練り、へそ出しの状態まとめて寝かせているうちにかつおだしでさっとそばつゆを作る。できあがったところで一度火を止め、再び生地づくりへ戻った。打ち粉をした台に乗せ、手を使って地のししたあと、麺棒で圧をかけながら適度な厚みと形に延ばす。
トントンとリズミカルに折りたたんだ生地を包丁で切っていると、2人の声の様子がいつの間にか変わっていることに気づいた。
テレビの音がしなくなっている。妙にきゃあきゃあとはずんでいて……。
「あ」
と涼介は思い当たった。
「そういえば、ミリィが大掃除中にアルバムを見つけたって言ってたな」
ミリィが抱えていたアルバムの表紙からそのアルバムに何の写真が入っていたか思い出そうとしたが、特にこれといって思いあたるものは浮かばなかった。おそらく、特に何かといったようなものではなく、いろいろな写真が入っているアルバムだろう。
まあ、取り立てて人の目から隠さないといけないような写真があるわけでもない。(そもそもそんなものは最初からアルバムに貼って残したりはしない)
むしろ、ミリィにとって両親のあれやこれやを知ることができるというのは、悪いことではないだろう。
そんなことを考えているうちも手は休みなく動き、年越しそばは完成した。
天ぷらを乗せるか油あげを乗せるかは個人の好みだ。好きな方を選べるようにどちらも皿に移してトレイへ乗せた。
「あ、お父様!!」
3人分の年越しそばの乗ったトレイを持って帰ってきた涼介に、ミリィが笑顔で振り返った。
「今ちょうどお母様に、このお写真のお話をおうかがいしていたところでしたの」
「どれどれ?」
ミリィが指でさしていたのは、花火が咲く夜空を背景に2人並んで撮った写真だった。『シャンバラ独立記念紅白歌合戦』のときのものだ。今よりほんの少し若い2人はまだ寄り添うことに慣れておらず、どことなく緊張のうかがえる微妙な距離感を保っている。
「お父様とお母様は、年が変わる瞬間に付き合い始めたのですね。
それにしても、花火が打ち上がる中で告白なんて、お父様もロマンチックなんですね」
「ああ」
願わずは叶わず――自ら願い、動かなければ、何事も動かず、叶わない。
涼介は決意し、ついにミリアへ愛を告げた。
そのときの自分がよみがえって、知らぬうち、涼介はほほ笑んでいた。そしてそんな涼介を見つめて、ミリアもほほ笑む。
それは、世界じゅうで2人だけが共有するものだ。こればかりは、話を聞いただけでは本当には理解しえない。
2人の様子が微妙に変化したことに気づかず、ミリィは当時の様子を聞きたがり、2人に話してほしいと促した。
「お母様のお話を聞いていると普段のお父様とは違った一面を知ることができて、なんだか楽しいのですわ。ですから今度はお父様からのお話を聞きたいのです」
「それもいいが、延びてしまわないうちに、先にそばを食べるとしよう」
「あっ。はい、お父様」
すっかり忘れていたと、涼介から差し出されたそばを受け取って、椅子にきちんと座り直した。
「いただきます」
両手をあわせて感謝をささげ、そばを食す。
窓の向こうから、かすかに鐘の音が聞こえてきていた。
年越しそばを食べ終え、約束どおり当時のことを自分の視点から語りつつミリィと片づけを済ませた涼介を、ミリアがベランダへ誘った。
「寒いぞ?」
「少しだけですから」
からりと窓を開けて出る。新年を祝う人の声や音があちこちから聞こえてくるなか、ベランダの手すりに手をかけて、外の新鮮な空気を吸い込む。吐き出した息が白く変わり、溶けていく。
涼介は後ろからおおうように身を寄せることで、自分の熱で彼女を少しでもあたためようとしていた。それと悟ったミリアは振り返り、やさしい涼介からの思いやりに少し恥ずかしそうな顔をして、胸に手を添える。
「どうかしたのか?」
問いかけに、ミリアはそっと首を振った。
「ただ少し……こうしたいと思っただけです」
「そう?」
その意図は涼介には分からなかった。これも妊婦特有の不可思議な思考経路から出た行動なのかもしれない。
だがたしかに、ほてった体に外の澄み切った空気は気持ちがよかった。
「こうやって、家族でのんびりと過ごすのもいいものだね。きみと私、そしてミリィだけで」
「この子もいますわ」
「おっと、そうだった」
くすっと笑い、ミリアは自分を囲うようにして手すりについていた涼介の手をとり、腹部へ持っていった。
次の瞬間、ハッと涼介の顔に驚きが走る。
マタニティウェアの上からでもはっきりと、手のひらを突くような動きが感じられた。
「最近、よく動くんです」耳元でミリアがささやく。「私、できるだけたくさんこの子に話しかけるようにしているんです。この子も理解していて、返事を返してくれるんです。もちろん言葉ではありませんけど……そう感じるんですわ。
さっきミリィと話していたことも、全部この子は聞いて、理解していました」
「……どんなふうに?」
「とても喜んでいました。あの子が喜ぶと、この子も喜ぶんです。そしてあの子が楽しそうだと、この子も楽しそうでした」
「そうか」
涼介はもう片方の手もミリアのおなかに添えて、おなかの子どもの動きを感じようとする。
「ミリアさん。あらためて誓うよ。私はこの子やミリィ、そしてミリアさんのためにも、良き父親であり良き夫になると」
厳粛な声に、ミリアはこつんと額を涼介に当てた。
「私も誓いますわ。良き母、良き妻となれるよう、努力します。あなたやミリィ、この子のために」
「ミリア……」
月明かりに重なった2人のシルエットを、ミリィはこっそり部屋のドアの影から見守っていた。
仲のいい両親の姿が見えてうれしいという思いと、そしてほんの少しだけ、嫉妬する気持ちがある。
(わたくしにもいつか、お母様みたいにロマンチックな体験をさせてもらえる相手が現れるのでしょうか?)
ミリィにとって2人は理想のカップルだった。分かちがたき運命の1対。あんなふうになりたい、母のように愛されたいという羨望と、でもはたしてそんなふうに自分を思ってくれる相手がいるのだろうか? という不安がある。だって、父の涼介以上に自分を愛してくれる存在がいるとは、とても思えないから。
ふう、とため息をつくミリィに、再び涼介の声が聞こえてくる。
「そうだ、ミリアさん。今日は久しぶりに同じ布団で寝ようか。一緒の布団で家族3人、いや4人のぬくもりを感じながらさ」
その提案に、ミリアが何と答えたかは、残念ながら聞き取ることができなかった。
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