空京大学

リアクション

■小鳥遊　美羽とコハク・ソーロッドの場合


　コトコト、トントン。リズミカルに何かを軽くたたくような音がして目を覚ましたコハク・ソーロッド（こはく・そーろっど）の目に最初に飛び込んできたのは、窓からの風で揺れるピンクのレースのカーテンだった。
　あんな物、自分の部屋にはない。
　まだ覚めきれない頭でぼんやりしつつ、身を起こす。その体からするりと落ちた上掛けはファンシーな花柄で、手をついたシーツも薄いピンク色だ。
「……ああ」
　ここでようやく頭が働きだした。
　そういえば昨夜は美羽の部屋に泊まったんだったっけ。
『今日はベア、仕事で帰ってこれないんだって』
　昨夜、電話を受けた美羽から、「だからコハク、泊まって行ってよ」と軽くおねだりをされた。
　これまでだったらコハクは辞退するか、あるいは客室を借りたと思う。そういうことはこれまでにもちょくちょくあったから。
　ただ、もう今のコハクは美羽の婚約者で、結婚も間近に控えている２人として、それなりの関係も築けてて。だから今回は、美羽の寝室で夜を過ごしたというわけだった。
　分かっていたけど、朝になって、こうして美羽の寝室で目覚めると妙にドギマギしてしまう。
　寝室というのはとてもプライベートな空間で、その人のカラーが一番出る場所だ。
　美羽はあんなに活発でさばけた性格をしているけど、内側は女の子している。色はピンクが好きで、レースや花柄といったファンシーな物が好き。
（僕の部屋で起きたとき、美羽もこんなだったのかな……）
　そういう内面が見られてうれしい反面、ちょっとだけ気恥ずかしい。
　コハクは椅子の座面に用意されていた服――客室で泊まることはあったので、日常的な物はちょこちょこ置いてあった――に着替えると、そそくさと退室した。


　廊下に出たとたん、プン、とおいしそうなにおいが鼻をつく。
　漂うそれと、かすかに聞こえる鼻歌に引っ張られるようにダイニングルームへ姿を現したコハクを、小鳥遊　美羽（たかなし・みわ）が迎えた。
「おはよう！　コハク！」
　やっぱり歌っていたのは美羽で、鼻歌を止め、笑顔で振り返ったその手にはフライ返しが握られている。もう片方の手に握られたフライパンからはジュウジュウという音とともに白い湯気がほかほか上がっていて、部屋いっぱいにいいにおいが充満していた。
「おはよう……」
「すっごくよく眠ってたね。もう１０時回ってるよ」
「ええっ！？」
　それまでわずかに残っていた眠気も吹っ飛ぶ思いで壁の掛け時計に目を向ける。美羽の言うとおり、掛け時計は１０時４５分を回っていた。
「うわ。全然気づかなかった」
　つぶやいたあと、目をあらためてテーブルへと戻す。
「もしかして、待っててくれたの？」
「うん」
　何事でもないようにケロリと返すと、美羽はフライパンの中の目玉焼きをキャベツを盛りつけた皿に移した。
「でもあんまり遅いから、用意できたら起こしに行くつもりだったんだよ」
「ご、ごめん……」
　思わず赤面してしまう。美羽は振り返ってもいないのに。
「ううん。
　それより、もうじき用意できるから、顔洗ってきて」
「分かった」
　中へ入りかけた足を引き戻してバスルームの洗面台へ向かう。戻ってきたときにはテーブルの上に２人分の食事が用意されていて、美羽がコップにミルクを注いでいるところだった。
　光あふれる明るいダイニングルームで、テーブルの上にはほかほかの食事が乗っていて、エプロン姿の美羽が待っている。
　結婚したら――その日はもうすぐそこまで迫っている――こういう光景が毎日、現実になるのだと思って、コハクはうつむいた。
　きらきらきらきらして、やけにまぶしくて。
　直視できないでいるコハクに、美羽が気づいた。
「どうしたの？　そんなとこ突っ立って」
「あ、うん」
　入ってきたコハクに、美羽が自分と向かいの席を引っ張った。
「コハクはここね。はい、フォーク」
「ありがとう」
「ううん」
　美羽は照れたように笑いながらフォークを手渡す。
「それじゃあ、いただきます」
「いただきます」
　２人で声を合わせ、朝食というには少々遅い食事をとり始めた。
「ねえコハク」
「なに？」
「先月の東カナンの空中庭園でのことだけど」
「うん」
「私、本当にうれしかったんだ。あれから、何度も何度も頭の中でリピするくらい」
「……ふ、ふーん……」
　思わずそのときのことを思い出して、ほおが熱くなったコハクは視線をさまよわせると照れ隠しでミルクをごくごく飲む。
「コハクがあんなふうにプロポーズしてくれるなんて……。
　ね？　もう一度聞かせてよ」
　まったく想像していなかった美羽からの言葉に、ブッッと思わずミルクを吹きだす。そしてそのままげほげほと軽くむせた。
「な、何、言って……嫌だよ、そんな……」
　むせて赤くなったほおをさらに赤くして、うつむく。
「えーっ、いいじゃん」
「ああいうのは、１度だけで……」
「そんなのだれが決めたの？　私は何度でもコハクから聞きたいし、言ってほしい。だって本当にすっごくすっごくうれしかったんだもん」
「そんなこと、言ったって……」
「ね？　いいでしょ？　ここには私たちしかいないし。お・ね・が・い」
「…………」
　コハクは赤くなったまま落ち着きなく目線をあちこちに飛ばしたあと、意を決したように正面で固定した。
　でもやっぱりうつむいたままで、まともに美羽が見えなくて。
　美羽はそういうコハクにニヤニヤが止まらないながらも真面目に両手をひざに乗せる。
「……美羽」
「はい」
「ぼ、僕と、結婚してください」
「はい。……ありがとう、コハ――」
　そのときだった。

「なるほど。コハクくんはそう言って、美羽さんにプロポーズしたんですね」

　そんな声が後ろから飛んできて。振り返るとベアトリーチェ・アイブリンガー（べあとりーちぇ・あいぶりんがー）が部屋の入り口で腕を組み、うんうんとうなずいていた。
「あー、ベア」
「ベ、ベベベベ、ベアッ！？」
　入り口に背中を向けていた美羽だけでなく、うつむきっぱなしだったコハクも全然その存在に気付けていなくて、聞かれたと知った瞬間頭から蒸気が噴き出したんじゃないかと思うくらい、全身真っ赤に染まってしまう。
　愛情表現というのは、まだコハクにとってごくごくプライベートなもので、人前ですることではないから。
　しかし美羽はコハクと違い、ある程度オープンなさばけた性質の持ち主のため、特にあわてる様子は見せなかった。
「おかえりー。お仕事お疲れさま」
　入り口までベアトリーチェを出迎える。
「ただいま、美羽さん」
「午後になるって話じゃなかった？」
「ええ。ですが思ったより仕事が早く終わって……。
　コハクくんもいらしてたんですね。いらっしゃい、コハクくん」
「お、お邪魔してます……」
「えーと……。コハクも、さっき来たばかりなんだよ」
　訊かれたわけでもないのについ言ってしまうのは、やはりちょっと気にしている証拠か。
　ベアトリーチェはテーブルの上の食事の様子や、コハクの着ている服が客間に備えてあった着替えであることももちろん承知の上で、にっこり笑って
「そうですか」
　と答えた。
　にこにこと笑うその笑顔に、コハクも美羽もベアトリーチェが看破していることに気づく。
　これにはさすがの美羽も、コハクに負けないくらい赤くなった。
「そ、そうだ。ベアも座る？」
「いえ、せっかくですが。一応仕事場で仮眠はとってきましたが、疲れていますのでこのまま部屋で休みます。でもその前に、少しおなかへ入れたいと思いますので、余り物でかまいませんのでお皿に分けてもらっていいですか？」
「あ、うんっ。ちょっと待っててね、すぐ用意するからっ」
　余り物なんてとんでもない。
　椅子の背にかけてあったエプロンをすばやくつけて、フライパンに火を入れる美羽のそばで、コハクも「僕も手伝うよ」と冷蔵庫を開く。
「うん、お願い。卵と、ウィンナーと、牛乳出して」
「分かった」
　台所で共同して動いている２人の背中に、今までとは違う、間に入りがたい２人だけの空気を感じることにベアトリーチェはどこか一抹の寂しさのようなものを感じつつも、それを上回る喜びに、笑顔のまま静かに見守っていた。