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消えゆく花のように

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消えゆく花のように
消えゆく花のように 消えゆく花のように

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●Π、Ρ
 
 蒼空学園だった。
 そう、その場所は蒼空学園なのだった。
 それも真昼の蒼空学園だ。
 夏よりぐっと穏やかになった秋晴れの陽差し、ちょうどお昼時といった時間帯である。
 問題があるとすればただ一つ。それは、彼ら以外生徒の姿がまるでないということだろうか。異様なほど学園の敷地内は静まり返っている。休日でももうちょっと賑わっているだろう。
 といっても今にも、どこかの陰から級友がでてきて手を振ってくれるように錯覚してしまう。
「洞窟……だったはずよね?」
 さすがの小鳥遊美羽もこれには意表を突かれた。
 鍾乳洞を歩いているうち周囲の光景は溶けるようにして消え、気がつけばよく知った母校、蒼空学園のグラウンドを歩いていたのだ。
「なんかのトリックがあるのか? それとも、実は全部夢でしたって話……つまり夢オチってやつなのか?」
 七刀 切(しちとう・きり)も落ち着かない様子で、自分たちの来た方向を繰り返し振り返っていた。どれだけ振り返ろうとも、その方角には蒼空学園の校門があるだけである。
「キョロキョロしないの、ユーリ。ほら、ローも!」
 パティ・ブラウアヒメルは苛立たしげに呼びかけながらも、自身、どこか怖れている様子で背を丸め気味だった。
「そう言われても、なんか、落ち着かないね……」
 ローラ・ブラウアヒメルはしきりと自分の頬をつねっている。だが切のいう『夢オチ』になる気配はまるでなかった。
 柚木 桂輔(ゆずき・けいすけ)としても、本当は同じ気持ちだった。
 桂輔は天御柱学院の所属であり蒼空学園の生徒ではない。とはいえ蒼学の敷地内には何度も足を踏み入れており、とりわけ蒼学のローラと恋人関係になってからは、なにかと縁があるこの学校である。
 だからこの状況にはうすら寒いものを感じてならない。
 だが桂輔はむしろ胸を張った。自分まで怖れを見せては、ますます士気が下がるだけだ。
 それに、ローラの前でいいところを見せたいという気持ちもあった。できることなら彼女を勇気づけたい。
 なので桂輔はつとめて明るく言ったのである。
「でも考えてみてよ、ローラ。慣れた蒼空学園が戦場なら、むしろ蒼学生には有利に働くんじゃないか?」
 するとローラではなく美羽が、「たしかに!」と声を上げて手をポンと打ったのだった。
「勝手知ったる蒼空学園ってやつね! この場所の再現力たるやすごいものがあるわ。それだけに、こっちには地形を利用した戦法がとれるとも言えるじゃない!?」
 冴えてるね、と美羽は桂輔を称える。
 その言い方が気に入ったのか、
「サエテル! サエテル!」
 とローラは笑顔になっている。不安を払拭するための笑顔かもしれない。それでも、
 ――ローラの笑顔には癒されるなぁ……。
 桂輔には嬉しく、また、その彼女が自分の恋人であるということが誇らしくも思える。
 ――あれ? 俺。
 ローラを勇気づけるつもりが、なんだかローラに勇気づけられている……そのことに気づいて、なんとも気恥ずかしい桂輔なのだった。
 一行から少し遅れて歩くグラキエス・エンドロア(ぐらきえす・えんどろあ)には、また別の思いがある。
 ――やはりまだ、夏の間消耗した身体は回復しきっていない……。
 強い陽差しはグラキエスにとって毒だ。暦がめぐってようやく盛夏から逃れることはできたとはいえ、今年もまた凄まじい暑さだったため、彼が被ったダメージはまだ、澱のようにその身に蓄積していた。
 愁いを帯びた長い睫毛に黒い影がさしている。
 日中の蒼空学園、どこか長閑な光景ではあるが、グラキエスはそこに不吉の匂いを嗅ぎ取っていた。
 ――クランジΔ(デルタ)のこの仕掛けは、俺にはやつらの断末魔のようにも思える。確認できる限りではもう、クランジはあのΔと、Μ(ミュー)の二人を残すのみ……。
 クランジの研究開発に関わった者やデータはまだあるかもしれない。しかし、これを片付ければΡ(ロー)もΠ(パイ)も安心して暮らせるのではないかとグラキエスは考えている。
 それこそ、彼が望むことだ。
 ΡやΠは人として生きることを選んだ。その平穏を脅かす事件はおそらくこれが最後となろう。
 ――Ρも狙われるたびに同じクランジ……姉妹と呼んだ者たちと戦って破壊し、他の者の手で破壊されるのを見るのは辛いだろう。
 その連鎖を断ち切る。止まらぬ螺旋にエンドマークを刻む。
 まさにそのために自分は来たのだとグラキエスは考えている。
 グラキエスのこの感情を理解しているのは誰か。
 少なくとも、彼が着ている黒のロングコートはそれにあてはまろう。
 ――主は御身より他者のことを気遣う……。そのような余裕があるわけではないのに。
 グラキエスのコート、これは実のところアウレウス・アルゲンテウス(あうれうす・あるげんてうす)なのであった。正しくは、コートの他に、グリーブ、グローブで構成される魔鎧だ。
 普段からグラキエスに着られ、ときには肩を並べて戦うアウレウスゆえ、自身の主の体調については存分にわかっている。
 ――本来なれば主には、休養こそが必要だが……。
 しかし、たとえアウレウスが百万言を費やして嘆願しようと、グラキエスの意志を曲げることはできないだろう。
 ――しかも今日は、信頼する戦友ベルクさんも主の義兄弟にあらせられるフレンディスさんも同じ洞窟にはいない……。
 だからこそ、上限二十人の禁を破ることを承知で、鎧としてアウレウスはグラキエスに同行したのだ。
 グラキエスはいざとなれば、同行者たちを護ろうとするだろう。
 なればアウレウスは、そんなグラキエスを守り切るまでだ。
 ここでアウレウスの思考は中断されることになる。
 甲高い音。耳を聾するような。
 しかもそれは破壊力を伴う。
 超音波の放射が一行の頭上を横切ったのだ。
 第二波がくるまでの間に、すでにグラキエスは敵の姿を発見している。
 パティによく似た姿。いや、生き写しだ。小柄な体躯、それが校舎の陰から一瞬姿を見せて消えた。リスのように敏捷だ。
 その姿を目にするや、切は反射的にかたわらを見てしまった。
 妻パティが、本当にそこにいるのかどうか知りたくて。
「ユーリ、その気持ち、わかるよ」
 パティは険しい顔で、Πc(パイ・クローン)の消えた方向を見つめていた。
「私だって、鏡でも見たのかと思ったくらいだもん」
「本当に出てきた……!」
 桂輔は二丁の銃、シュヴァルツとヴァイスを抜き放った。
 本当に夢であればどれほどよかったか!
 だが対化物用拳銃のずしりとした重みは、これが現実の世界であると桂輔に告げていた。
 校舎の反対側から出てきたのはローラのドッペルゲンガー、Ρc(ロー・クローン)だ。
 いつもニコニコと笑っているローラは太陽のように明るくまぶしく魅力的なのに、あれはどうしたものか、手負いの獣さながらに殺気立ち、肩を先にして突進してくるではないか!
「ああもう撃ちたくねぇ、でも撃たなきゃ!」
 桂輔は立て続けにトリガーを引いた。だが心の迷いが反映したのか、それとも単に相手が迅いのか、弾は彼女をかすりもしない。ずっとその後方まで飛んで案内板を撃ち貫いただけだ。
「アナタ、ワタシ? ワタシ、そんな怒ってないよ?」
 Ρcに立ちふさがったのはローラだった。長い脚で大地を踏みしめ、大きく腕を伸ばして突進を受け止めようとする。その両手には、コハク・ソーロッドから預かった怪力の籠手がはめられていた。
 されどそれは、ダンプカーの暴走を土嚢を並べて止めようとするに等しいものだった。
 潜在能力すべてを解放したΡcと、戦闘力より人生を選んだローラ、その差は絶望的だ。
 ローラは抵抗虚しく、己のコピーに弾き飛ばされた。
「!」
 グラキエスの行動予測能力は、結果が出る前に彼を行動に駆り立てている。
 グラキエスが優しい人物であり、ときに幼児のように無邪気で純粋なのはまぎれもない事実だが、その反面、彼は現実主義者で冷徹な戦士でもあった。グラキエスは物理法則としてΡcがローラに及ぼす作用を読むと、最もローラに被害の少ない(自分にダメージが行くことは考慮しない)角度に跳び彼女を抱きとめていた。
「グラキエス……!」
「Ρ、無事か……」
 グラキエスの赤い髪が、強い風を受けて逆立った。
 否、風ではなく音波だ。
 彼の無防備な背をΠcの攻撃が襲ったのだ。
 こつ然と出現したように見えるが原理は簡単だ。ΠcはΡcの背にしがみついて隠れていたのである。
「平穏な生活を送って、そこで大切な人や幸せを見つけて……」
 美羽は抜刀した。
「それの何が悪いっていうのよ!」
 その言葉はΡcやΠcではなく、その操り手(デルタ)へ向けたものだ。
 ローラの長い腕が唸りを上げ美羽の首を狙う。だが美羽は数センチの差でこれをかいくぐり、前方に駐めてあった赤いスポーツカーの車体を蹴ると水平にしたVの字よろしくローラの頭上に飛び戻った。パティが狙おうとするがそれよりずっと早く、美羽はずっと後方にあったブロンズ像にたどり着いている。
 両膝を曲げて銅像にとりつき、刀を振るった。
「ほら! マッチョ涼司像からご挨拶よ!」
 美羽の剣はΠcもΡcも狙ってはいなかった。中庭のブロンズ像、すなわち蒼空学園二代代目校長兼理事長像の両足を薙いだのだ。銅像はΠcのほうを狙って倒れバラバラに砕けた。
「ワイだって戦いたくはない……だってあれはパティなんだから!」
 七刀切は巨大刀を抜いて正面に構える。
 このときにはすでにΡcとΠcは別れていた。Πcは叫ぶ。
「うるさい! キモい! あたしは自分のこと『ワイ』なんて言うやつは嫌い!」
 その口調から発言からまるっきりパティなので、切は躊躇するような顔になる。だが、
「私は好き!」
 逆にそれ以上の声で叫び返したのはパティだ。
 どんっ、と百のバスドラムを一気に叩いたような爆発音があり、パティの口から超音波砲が飛んだ。久しぶりのソニックスクリーム、切も美羽も桂輔もローラもグラキエスも、その場にいた誰もがその威力を肌で感じた。
 されどスクリームはスクリームで打ち消されている。それを超える声の威力がΠcにはあった。たちまち逆流した音波が襲ってくる。
 だが音波は両断された。
 音すら斬り、辺りを無音にするという斬音剣と、
 刃渡り2メートルに達するという巨大剣からのソニックブレードで、
 前者は美羽、
 後者は切、
 いずれも、息を合わせたようにぴったりのタイミングで切り下ろした。
 Ρcは止まらない。音が音を打ち消したその空間に突入する。
 Ρcは勢い余って、主をなくした台座に激突した。
 そこには涼司像が残されているだけだった。
「……!?」
 Πcの視線の先に、グラキエスに肩を貸すローラと桂輔の姿があった。
 三人は校舎の中に入っていくところだ。
 それを守るようにしながら、美羽と切、そしてパティも逃走を図っていた。
「逃げる気!」
 Πcはいきりたってこれを追った。
「ほら! 来なさい!」
 そう言ってΡcを叱るΠcの眼には、炎のような怒りが燃えたぎっている。