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リアクション
monodia ──開宴前の独唱、伴奏には遠ざかる幾多の悲鳴
さようなら、愛しき人よ。
あの囁きは、ただ沈黙を埋めるだけに口ずさむ、ありふれた愛の詩だった。
騙された愚かなわたしを嗤うなら、
わたしは気付かせてくれたあなたに、この生き様で答えよう。
目線と、仕草で。小さな嘘を混ぜた囁きひとつで。
あなたのお仲間の、虚飾で塗り固められたその化けの皮をはぎ取り、流れるその血で贖わせ続けよう。
鏡に映るあなたの頬が、青ざめ衰えるまで……。
第1章 事件の舞台へ
「……何か、聞こえた?」
空気を震わす歌声に、桜井静香(さくらい・しずか)は顔を上げ、辺りを見回す。
だが、そこにあるのは物言わぬ建物ばかりだった。
「いいえ、何も聞こえませんでしたよ」
生徒の返答に、そっか、と静香は頷く。
「気のせいだったのかな」
──ヴァイシャリー北部に広がる、高級住宅街。
早朝の光に優しく包まれた古い石造りの豪邸たちは、不思議といっそう凛々しく見える。
それは、気の引き締まるような、早朝特有のひんやりとした空気によるものでもあり。
今日の仕事が、そういった豪邸のひとつで行われるから、一層身近に感じて緊張している、のかもしれない。
それに、今日はパートナーたる、ヴァイシャリーの血筋を誇るラズィーヤ・ヴァイシャリー(らずぃーや・う゛ぁいしゃりー)がいないから。
(大丈夫、落ち着いていこう。一人で何とかしなきゃだけど、一人ぼっちじゃない。今日もみんなが側にいるんだから……)
静香の側には、百合園生を始めとした各校の生徒達がおしゃべりをしながら歩いている。
その笑顔は、静香にはとても頼もしく見えた。
彼ら彼女らは、名門貴族の夫人とはいえ、面識もないアレッシア・バルトリの命を護る為に集まってくれたのだ。
彼らの行く手に、やがて現れたのは、事件の舞台となる白亜の豪邸だ。
敷地こそイギリスのカントリー・ハウスほどもないものの、バロック建築風の建物の壁面は、ヴェロニカの花の意匠で飾り尽くされている。
(僕も頑張るよ……うん。絶対に殺人事件なんて起こさせない)
心の中で一つ頷いて決意も新たに、静香はバルトリ家の門を潜った。
*
「ようこそおいでくだいました」
応接室で生徒達を迎えたアレッシア・バルトリは、噂に違わぬ美貌の持ち主だった。
栗毛の長い髪をアップにし、ヴェロニカの生花で飾っていたが、花の方が飾られているのではと錯覚してしまうほどだ。豪奢な応接室の家具や絵画も、彼女を引き立てる小道具に過ぎない。
榊 朝斗(さかき・あさと)は彼女に見とれぬよう気を付けながら、そして部屋に踏み入れた足を、埃ひとつ落ちていない絨毯のふかふかさ加減におっかなびっくりにさせながら、何とか並ぶ椅子のひとつに座った。これもふこふこ触感で、お尻が落ち着かない。
もぞもぞして、きょろきょろして、そこでやっと、普段の癖で開いていた両脚を閉じる──スカートを履いた脚を。
「ええ、今日は五時開場、七時開演です。オペラの終了は八時で……メニューはこちらに」
朝斗が戸惑っている合間にも、応接室では打ち合わせが進められていた。
誕生日であるのに、夫の姿は見えない。オペラとの兼ね合いのせいか、どうやら祝われるアレッシア本人が取り仕切っているようだ。
他には執事に家政婦、メイド長、静香やクロエ・シャントルイユ、弟フェルナン・シャントルイユ(ふぇるなん・しゃんとるいゆ)らが揃っていた。
「ええ、そのように動きますので──はい、承知しました。アレッシアさんは、ご心配なさらずに誕生日を楽しんでください」
打ち合わせが終わると、静香は頷き、ソファから立ち上がると生徒達を見渡した。
「みんな、これから部屋を案内してもらうから、ついてきてね」
アレッシアとメイド長に案内され、静香たちは応接室を出て会場を見て回る。
「この屋敷自体は三階建てですが、今日使用する部屋はすべて一階にございます」
広いパーティ会場、その隣にはオペラの舞台と客席となる部屋。オペラ出演者の楽屋や衣裳部屋。メイク部屋。大道具、小道具の部屋。救護室などなど。そしてキッチン。
「うわぁ……」
朝斗は思わず声を上げた。それから、ひっつめ髪のメイド長が怪訝な目で見てくるのに気付き、声を作った。
「こほん。あの〜、素敵なキッチンだ……ですわね」
今までどれだけ大勢の来客を迎えてきたのだろう。設備もレストラン並みの本格キッチンは、どこもかしこもぴかぴかに磨き上げられていて、並ぶ調理器具にスパイスが、料理好きの彼の心をときめかせる。
(なのに。ああ、料理の勉強にはるばる海京から来たのに、どうしてこんなことになってるんだろう……)
反面。可愛らしい体格と顔にエプロンドレス姿が良く似合う朝斗は、内心その事実には泣きそうになりながら心中で呟いた。
……静香は指示を出したりはしなかったのだけれど。
彼は周囲は女の子が沢山いるから、「女の子」の格好をしないといけない、と思ってしまったらしい。
アレッシアに呼ばれたシェフたちから、キッチン担当者向けの説明を聞きながら、彼は祈った。
(ああ、ばれませんようにっ)
大好きな料理の勉強に、脅迫状にまつわる情報収集に。これでは、どれも中途半端になってしまいそうだ。
そんな彼や百合園の生徒を見ながら、リア・レオニス(りあ・れおにす)はパートナーのレムテネル・オービス(れむてねる・おーびす)にこっそり話しかけた。
「なぁ。あいつは男だよな」
「他学校の生徒さんですね。せっかく百合園は女子高なんですから、リアも着替えたら如何です?」
「ん? 何だそれ。着替えなら、オペラ鑑賞用ってことで、鞄に正装一式入れてきたけどよ……」
それには答えずレムテネルが笑顔で取り出したのは、可愛らしいワンピースだった。それをリアの首下に当ててみる。
「おい、面白がってねぇか? レムはともかく、俺だと笑えね?」
「面白半分でこんなことをすると思いますか? それに、意外と似合うかもですよ?」
しごく真面目な顔と口調のレムテネルだったが……後ろ手に隠したデジカメに気付くと、はぁっとため息をついた。
「俺はそういう趣味はねぇんだよ。……あークロエさん、力仕事……弁当とかドリンクの運搬、やらせてもらえねぇかな?」
(残念ですね。半分じゃないですよ。面白全部でしたのに)
唇に指を当ててレムテネルは残念がりな-がら、ふと真顔になる。
(でも。彼の物おじしない行動が、行動が何らかの手がかりを生むのなら……。さて、私はオペラ鑑賞まで、あちこちのんびり観察させてもらいましょうか)
リアに話しかけられたクロエはといえば、彼の申し出を受けると、
「お願いするわ。それから、私達外部スタッフ用の食事や部屋の準備もお願いしていいかしら。お屋敷の方だけじゃ、実際今日は猫の手を借りたいくらいの忙しさなのよ」
「オッケー、まかせとけ」
「ありがとう。助かるわ」
実際手伝いに来た生徒の中心は、女子高だから、か弱い女の子──少なくとも女性に見えるような──生徒が多く、リアのような男手は重宝される。
だからだろうか、クロエがさらさらっと書いて渡してきた予定表はリア一人の手には余りそうなくらいだった。
「これを、パートナーさんと一緒によろしくね」
そうクロエは言ったのだが。
「お手伝いはしますが……力仕事は期待しないでくださいね」
ひらひらと手を振るパートナーに、リアは再びため息をついた。
「しゃーねぇな、いっちょやってやるよ」
ポケットに紙切れを突っ込むと、彼は気合を入れて段ボール箱を持ち上げた。
薔薇の学舎というと泥臭いイメージはないが、男子校なのだ。こういう裏方の力仕事でお嬢さん方の手伝いをするというのもまたひとつの“美しい”形かもしれない。そんなことを、イエニチェリを目指す青年は思った。
役割を割り振られたお手伝いの生徒達が、それぞれ屋敷のあちこちに散っていく。
彼女らの本来役割は、だが、それではない。アレッシア・バルトリへの殺害予告。起こるかもしれない殺人事件。それを防ぐために集められた、集まった者が殆どだ。
──そんな中に一人だけ。忠実にお仕事を遂行しようとする少女がいた。
「はい、お任せ下さい」
高務 野々(たかつかさ・のの)は、フル装備であった。
身に着けたホワイトブリムにメイド服は上品な、お屋敷の格式に合わせたもの。一方で両手と背中には、はたきにモップに、仕込み竹箒にデッキブラシ。意気込みのほどが伺える。
実は彼女、この話を聞いたときにはものすごく思い悩んだ、という・
(それは、私にとって究極の選択なのです。メイドを取るか、観劇を取るか)
しかし彼女はメイドを取った。
それには理由は要らない。なぜなら彼女はメイドだったから。それで全てに説明がつく。
(……断腸の思いで諦めたオペラ鑑賞。であれば、全身全霊でメイドとしてお手伝いを致します!)
「さあ、全力でメイドのお時間です!」
アームカバーをした腕に握ったはたきとモップをぎゅっと振り上げ、野々は決意を新たにお屋敷の掃除を始めた。もう、無心に。事件のことなど忘れる勢いで。
「ここは私がやっておきますね」
通りがかった顔見知りの生徒から場所を奪い、知らない生徒からも置物を受け取る。
……ただ、自分がみんなの仕事をもらっていけば。そうしたら、ほかの人は事件に集中できるから。そういうかたちで役に立てればいい。
仕事に精を出す野々は、好意的に使用人たちに受け入れられ、ほどなく馴染んでいた。
昼食時間も忘れて階段の手すりを磨くことに集中していて、リアから配られたお弁当にやっと休憩をとったくらいだ。
「ありがとうございます。……大きなお屋敷だけあって、仕事のし甲斐がありますね。磨き粉も素敵な香りですし、得した気分です」
汚れたフリルエプロンを外しながら、仲良くなった屋敷のメイドに招かれて使用人室に向かった野々は、アレッシアの元へと足しげく通う執事らに首を傾げた。
「そういえば、変ですね?」
たとえば英国的なメイド社会には使用人ヒエラルキーがあるが、それには二つの頂点がある。男主人をトップとした男性使用人のものとの、女主人をトップとした女性使用人のものと。多分それはこのお屋敷も同様だ。
なのに、男性使用人も、やたらとアレッシアに用事を聞きに行っているのだ。それも、アウグストが本来処理しなければいけないようなことまで……。
けれど、主人の秘密には口を出さないのもメイドの務め。
野々は、今はそれを心のうちにしまっておくことにした。
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