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はじめてのひと

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はじめてのひと
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リアクション


●約束

 自宅の研究室(ラボ)、置き時計の針はとうに、深夜一時を回っている。
 『cinema』の解析をしていた緋山 政敏(ひやま・まさとし)は、ふと顔を上げた。
(「こんな時間に……」)
 電源を入れ直したばかりの『cinema』に、ちょうど着信があったのだ。着メロは『Faithfully』という曲、特徴的なピアノのイントロの途中でディスプレイを出し、通話アイコンを指で弾く。
「どうした、カチェア?」
 電話は、カチェア・ニムロッド(かちぇあ・にむろっど)からのものだった。
「ごめんなさい。こんな遅い時間に……」
 実際、呼び出しの最中何度も、カチェアは電話を切ろうかとためらったのだ。あとワンコール、政敏が遅ければ斬っていたかもしれない。(電話を「切る」というより、緊張に耐えられず電話機そのものを「斬る」という意味で。……いや、勢い余って政敏本人を……?)
 政敏の声は至って冷静だ。
「それで、どうかしたのか?」
「携帯を新しく購入したので、移行がちゃんとできているかなって……」
 言葉尻が消え入りそうである。そんな彼女に普段と異なる雰囲気を感じながらも、
「電話番号くらい、覚えてないのかよ」
 多少苛立たしげな口調で告げる。しかしその実、政敏の口元には笑みが浮かんでいた。
「他に用がなかったら切るぞ」
 とは言ってはみるものの、政敏は自分から切断するつもりはない。
 一方、いささか毒気のある彼の言葉に、ややカチェアはムッとしているのだが、
(「落ち着こう。これっきりにしちゃったら、わざわざ電話した意味がなくなる……」)
 と心中繰り返してから告げた。
「明日……いや、もう今日ですが、どうせ暇ですよね?」
「明日なぁ……」
 政敏はぼんやりと考える。正直、暇とは言いがたいところだ。携帯の解析と改造にもっと時間をかけたいし、できれば機能拡充までしておきたい。実際、これを戦争や冒険に使う日がいつ来るか予想がつかないのだ。早ければ早いほうが良い。だから明日はその作業に費やしたかった。
「電話中?」
 そのとき、二つのコーヒーカップを手にリーン・リリィーシア(りーん・りりぃーしあ)がラボに入ってきた。
 政敏は声を出さず、『まあな』という仕草を示す。しかしその挙動だけで、勘の鋭いリーンは電話相手を察している。
 とりあえず自分の事情はさておき、政敏は問うた。
「明日、何かあるのか?」
「映画のチケットの期限が明日までなので無駄にしたくないかなと……どうですか?」
 映画も嫌いではないが、両天秤にかけると今は、携帯の解析を優先したい政敏だった。断ろうかな、と思った矢先、政敏はほんのりした甘い香りに包まれている。
「……!」
 それはリーンの髪の香り。カップを置いた彼女が、無言で政敏の首元に抱きついたのだ。しかも、わざと体をすり寄せてくる。秋の夜に冷えた体に、伝わってくるリーンの体温、それに柔らかさが心地良い。
 よせ、と言えない状況が悲しい。白いストッキングを穿いたリーンの膝が、政敏の脚の間に割って入った。
 ――しかしその動揺を、声色に出さない冷静さが政敏にはある。
「いいぜ、行こうか、映画。礼がわりに昼飯くらいおごってやろう……ただしファーストフード限定な」
 その言葉に舞い上がりそうになるカチェアである。返事が返ってくるまでの間をやけに長く感じたものの、それは彼が、どうせまっ白のスケジュール帳を繰っていたためだろうかと一人合点しつつ、
「お気遣いなく、チケットが勿体なかっただけですから。でも、それなら昼はハンバーガーで」
 仕方なく誘った、という口調を取り繕いながら、内心躍り出したいくらいの気分を隠す。手早く待ち合わせの時間と場所を定め、電話を切った。
「……ふふっ」
 とたんに笑みがこみ上げてくる。カレンダーの日付に大きく丸をつけて、カチェアは自分の『cinema』の蓋を閉じた。カチェアのはじめての電話は、嬉しい結果に終わったようだ。
 通話が終わると、くみつかれたままの首を政敏は振りほどいた。
「いきなり何だ」
「ごめん。でも、電話してる政敏が可愛かったから」
 蠱惑的な仕草で、リーンは髪をかきあげた。
「こんなこと、アイツには知られたくないんだからさ……」
「こんなこと、って……私たちの関係?」
 仏頂面の政敏は答えない。
「コーヒー、もらうぞ」
 とだけ言って不味そうにすすっている。その正面に座るリーンも、湯気上げるカップを手に取る。いつの間にかリーンの顔からは微笑が消え、真剣な表情が現れていた。
「このことを知ったら彼女、怒るでしょうね」
 やはり政敏は返事をしなかった。それでいい、とリーンは思う。
(「でも、この場所と時間は、私と政敏だけのもの――そう思う私ってズルイ女よね」)
 さて、と声を上げてリーンは解析作業中のパソコンの画面を更新した。
「約束もできたみたいだから明日は寝坊できないわね」
「わかってるさ、それに、やっぱりこいつの解析と改造は、早めにやっておきたい」
 つまりこれから、徹夜作業ということになる。
「……今夜は寝かせないわよ」
「……そのつもりだ」