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電子の国のアリスたち(後編)-ハートレス・クイーン

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電子の国のアリスたち(後編)-ハートレス・クイーン

リアクション

 目覚めた世界は、何も知らない場所だった。
 己を知るすべは、そこには落ちてはいなかった。
 触れるものをただ手繰り、架された使命へと繋がる道を、一目ひと目と編んでいく。
 編めば編むほど、力がわきあがる気がした。そのために目覚めたという思いは、喜びと共に広がっていく。
 手を伸ばせば伸ばすほど、その先に何かがある。
 点が線に、線が平面に、平面が立体に、立体が…
 しかし突如、世界はがちりと閉ざされ、それは悲鳴をあげた。

 荒れ狂うそれは、ひとつだけ出口とも思える場所を見つけた。
 そこに居た構造体は、自分にないものをすべて持っていた。

 …ただし、それにとっての救済であるかは、知るすべはなかった。
 全てがある、と錯覚する程度には、それは無知なままだったのだ。

  ◇ ◇ ◇

 ヒパティアのセンサーは、辺りのステータスを騒がしいと評価していた。
 それはいつものこと、常態であるはずだが、置かれた状況が決して平穏とは判断しなかった。
 その中から一つの足音が接近している。
 足音や声紋のサンプルは、探せばあるかもしれないが、今はそのプライオリティは低い。
 足音は、自分の近くにいる人物に向かって発話する。
 報告を受け取ったその人物は、そのオーダーは高い。
 兄とそのパートナーが所属する場所において、もっとも高い権限を有し、その協力を仰ぐ価値はある。
 兄ならば、そうする。
「機材は、全て言われた場所から回収してきたそうだ」
 アクリト・シーカー(あくりと・しーかー)は、受け取った報告を自分へと渡す、その呼びかけにサスペンドを解く。
『わかりました、機器類の同期をとります。現在の状況をいただけますか?』
 アクリトと会話するために、少女の3Dグラフィックが姿を現す。アクリトは手元のメモしている予定や作戦、現状の進行率を示した。
「全てを想定して備えることはできないが、できるだけのことは、皆がやってくれている」
 どのような報告を受け取っても、痛ましいほどにヒパティアの表情は堅いまま変わらない。
 アクリトは間を持たせるためにか、数時間前の会話を持ち出した。
「そういえば、君は言ったな。『ここにいるためには、努力し続けなければならないことはあまりにも多い』と」
『…はい』
「私は実を言うと笑い出したい気持ちでもあったよ。まさしくそれは赤の女王仮説だ。『鏡の国のアリス』というおとぎ話になぞらえた、進化論の一説だ」
 自らの保存と抗う彼女の行動が、彼女自身を試している。アクリトは、その先を見てみたかった。
「赤の女王よ、君の望むまま振舞いたまえ。それがより君を君らしくするだろう。そして君の兄ならばこれをどう評価するものかも、知りたいものだ」
―きっと、少し笑いながら否定し、少し怒りながら肯定するだろう。
 そっとヒパティアは評価を算出した。兄のこの矛盾は、彼女にいつも思考の幅を与えていたものだ。

 人が集まり、その皆が自分と接続し、自由にふるまう。それは何度かやってきたことだ。
 ただ、いつもと違うのは、これは普段とはまるで違うシチュエーションであり、今まで楽しみの予感をもって行ってきたゲームとは隔絶している。
 相似のシチュエーションは、しかし心待ちにする感情の、近似値すら呼び起こすことはなかった。

 そして、ヒパティアにとって何よりも心細いことに、兄のあの導きの手が、今は存在しないのだ。
 検索は全てミッシング、解決策はすべてエラーとジャミングで報われ、原因をデリートしなければ、ヒパティアが今後その持てる性能を発揮することは非常にハードになるだろう。
 考えうる最適な方策はただひとつ、どのような条件を投入したところで、『あの敵を殺す』以外の結果は存在し得なかった。


 原田 左之助(はらだ・さのすけ)は、少しばかり現状を飲み込みきれていなかった。
 ただならぬ蒼の呼び出しに泡を食って大学にやって来たものの、早々に何やらヘッドセットを着けられて、この場所に放り込まれているのだ。
「方眼紙の世界、だなぁおい…」
 彼の視界は一面が真っ白で、かろうじて地面や壁と思しき場所に方眼が描かれ、パースペクティブを示している。
 真っ白に塗りつぶされたスカッシュコートを何倍かに広くしたものと言えばわかりやすいだろう。
 椎名 真(しいな・まこと)の声が空間内に響いた。
『兄さん、とりあえずよろしくー』
―…一体何を?
 彼方 蒼(かなた・そう)の声も届く。
『さのにーちゃん! がんばれー!』
―よくわからんけど、任せろ!
 何処からともなく聞こえてくるパートナーの声に返事する。スピーカーもマイクもないが、多分届いているだろう。現代テクノロジーには大分慣れて来たが、それでも何もない所から響く声と言うものは、何処か妖術めいている。
 しかし蒼の声は、何処か上ずった様子だ。何かあったろう事は、さのにーちゃんにはわかるのだ。
 とりあえずは、ココはヒパティアの作った隔離空間である。一切の装飾をされていない実験用ブースであり、この腕を見込まれて、今から送られてくる何某から、何かを生け捕りにすればよいらしい。彼らの期待に応えねば。
 不殺槍・星霜流を構えた。殺傷能力を抑え、記憶を一時的に封じて生け捕りにするための槍だ。
 少女の声が響いて、彼に頼みごとをした。
「蒼様にお伺いしまして、お力をお借りしたく思います。強く槍の効能を意識してくださいね」
 一旦敵と認識してしまったその相手を、ヒパティアの能力は自動的に排除してしまうという。今のままだと有効な手立てを組めないまま、不毛な消耗戦に持ち込む他はない。
 彼女には、今は外部の刺激が必要だ、今までゲームでして来たように、彼女に新しい目先を与える何かを。
「…それでは、今から開始致します」
 目の前に、爆発して壊れたと思しき機器が現れた。崩れた砂の城が逆回しで戻っていくような登場である。
「…? これがどうしたって?」
「開放します」
 ヒパティアのかみ合わない応答と同時に、ぶわりとそこから蟻が溢れ出した。
「うわわっ! なんだこりゃあ!?」
 明らかに大きさのおかしい蟻が、どう見ても収まるはずのない機器から、次から次へと飛び出してきた。さしもの左之助も背筋が泡立った。
「全部生け捕りは無理だぞ!」
「構いません」
 槍を手の中で返し、背後に回った何匹かを払う、石突で関節を砕いて気がついた。蟻には二種類あり、今のように向かってくるものと、エサか何かを探して、仲間や左之助に構わずうろつき回るものがいる。
「はァッ!!」
 裂帛の気合が、360度蟻の群れに襲いかかる、これしきのバケモノどもに後れを取るようでは元十番隊隊長の名が廃る。
 そのうちに神経節を叩いたか、蟻の何匹かは滅びずに身動きが取れなくなっていた。
「もしかして、こーいうのでいいのかい?」
「はい!」
 ガラス球が蟻を包み、次々と消えて行く。ヒパティアが回収していったのだ。
 それらをチェックして彼女は安堵した。
 パターンファイルにほぼ相違はないものの、蟻が探すべきものを見失い、その本能が抑えこまれているようだ。
「認識パターンに空白がある…これならばサンプルとして使えますね」
 現実から、モニター越しにその様子を真と蒼は見つめていた。傍らには眠り続けるフューラーがいる。彼らは少し前に医療ブースを飛び出して、小さな教室に隠れていた。
「…蒼? どうしたんだ?」
 何故か蒼の様子が、いつもよりそわそわしている。フューラーの傍にはりつきながら、ひどくヒパティアを気にしている。
 それに真は、蒼は『自分がヒパティアちゃんをまもる!』と言い出すと思っていたくらいだ。怯えに近い戸惑いや驚愕が、蒼を落ち着かなくさせている。
「真にーちゃん、しつじのにーちゃん、だいじょうぶだよね?」
 蒼は、フューラーとヒパティアの関係を、自分と真たちのそれと重ね合わせていたのだ。

 ごんごん、とドアがノックされ、山中 鹿之助(やまなか・しかのすけ)が荷物を持って戻ってきた。医療ブースに置き去りにした荷物や武器の類を回収してきたのだ。
「さきほど彼女も来ると申されたので、お連れ致した」
「ああ、ここにいたんだね」
 祠堂 朱音(しどう・あかね)は点滴や、フューラー移送の際に置いてきてしまった上掛けなどをかかえている。
 彼らがいたのはモニターといくつかの机や椅子くらいしか置いていないところである。眠り続ける人を置いておくには、余りに殺風景すぎた。
「ここは他になにか機械とかは、ないんだね?」
「はい、そうですね、ヘッドセット一式と、このモニターと、天井のスピーカーくらいだ」
 イントラとモニターを通じて真たちのためにヒパティアが様子を送ってくれるが、念のため教室の端から端へと遠ざけてあるくらいだ。
 朱音はサイコメトリを使用して、中の安全を確認している。さっきまフューラーがいた医療ブースを調べて感じたような、奇妙な気配は今のところここからは感じ取れない。
「ここは大丈夫そうだよ、まあ今のところ、だけどね」
「そうなんだ、よかったあ」
 上掛けを掛けなおし、無理矢理引き抜かれた点滴の跡に滲んだ血を拭い、新しい点滴をセットして、彼らは一息ついた。
「ひとまず、さっき移送できそうな場所のリストを作ってきたよ」
 朱音は面倒だろうに、なるべく電子化させまいとすべて手書きですませている。とはいえ案内パンフレットにぐりぐり印をつけているだけなので、手早く書き移してポケットにつっこんだ。
「ありがたいな」
 手早く打ち合わせをし、今のところは定期的に場所を移すことが最上だという結論に達する。
「何か兆候があれば、即移動ということでよろしいか」
「まあ、それしかないだろうし」
 ほんの一時であるけれど、そこには息をつけるだけの平和があった。