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【カナン再生記】東カナンへ行こう!

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【カナン再生記】東カナンへ行こう!
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第2章 セテカの受難

アガデの都・東カナン領主の居城――

「やあ、みんな。この遠い地までよく来てくれた」
 城門をくぐった先。
 城の入り口に続く階段の前、セテカ・タイフォンが賓客を迎える軍礼服姿で立っていた。
 にこにこと笑顔で立つ彼の後ろには、東カナン領主直属の騎士たち12人、そしてその後ろには27人の将軍たちが勢揃いしている。その全員が、国賓として彼らを迎えるべく騎士の正装をして、階段の1段1段に左右に分かれて並び立っていた。
 背後には石造りの王城。
 出迎えるは30人の正装した騎士たち。
 まさしく中世ヨーロッパの世界だ。
「今はまだエリヤの喪中で、都自体祝い事に関して自粛する雰囲気になっている。あまり派手な歓待はできないが、救国の士として、心からきみたちを迎えさせていただこう」
「ほらほら、さっそくチャンスですよ」
 こそっとリカイン・フェルマータ(りかいん・ふぇるまーた)にだけ聞こえる声で、後ろから空京稲荷 狐樹廊(くうきょういなり・こじゅろう)がせっついた。
「わ、分かってるわよ…」
 本当にこんな手が有効なのかしら? ぶつぶつつぶやきながら、リカインはすすすっと前に出た。
「リカイン。きみも来てくれたのか」
 彼女に気づいてセテカが手を差し伸べる。
 しかしリカインは答えない。無言のまま、彼の前でにこやかに立っている。
「そうそう。その調子です。相手の言うことには一切答えず、しゃべらず、ただ微笑みながらそばにいるのです。即効性はないですが、じわじわ効いてきますよ。された相手はあなたのことが気になって気になってたまらなくなってくるのですっ」
 そして、ああこんなに気になるなんて、これはもしかして恋? とかになるハズっ!
 人影からこそこそ力説する狐樹廊。
 ――おまえ、いつの時代の少女マンガ読んだ?
「リカイン?」だがしかし、返事をしないことで、たしかにセテカの気は引けているらしい。「どうかしたのか?」
 話しかけても無言で立っているだけの彼女に、セテカはちょっととまどい気味だ。
 ただし、別の意味で。
「喉の具合でも悪いのか? 歌姫のきみに、ぜひ滞在中に一度その歌声を披露してもらえたらと思っていたんだが」
「え? あの――」
「残念だが仕方ないか。無理は言えないし。またいつか、美しいきみの歌姫姿を見せてくれ。楽しみにしているから」
 ぽんぽん、と肩を叩いて。
 セテカはさっきからずっと彼を見上げていたミシェル・シェーンバーグ(みしぇる・しぇーんばーぐ)の方にあっさり向き直ってしまった。

(……ま、ああなるだろうとはうすうす思っていましたが)
 狐樹廊は首をふりふり、はーっと息を吐く。
 こうなったらやはり搦め手でいくしかないかも。狐樹廊はこっそりこの場をぬけ出した。

 そんな、自分に対する包囲網が着々と敷かれかけていることも知らず。セテカはにこやかにミシェルに話しかけた。
「久しぶりだね、ミシェル。元気だった?」
「――あ、あの…」
 優しげな目で自分を見つめてくるセテカを見上げ、懸命に、何か言おうとしたそのとき。
 ミシェルの目から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
「ミシェ――」
「ごめ……ごめんなさいっ!!」
 ぱっと顔をおおい、ミシェルは突然中庭の方に走り去ってしまった。
「ミシェル!!」
 ただごとではない様子に、あわててあとを追おうとしたセテカだったが。
 次の瞬間、何かがドンッと胸にぶつかってきて、残念ながらそれはかなわなかった。
「――き、きみは…?」
 腕の中に倒れこんできた美しい黒髪の女性――水心子 緋雨(すいしんし・ひさめ)を抱きとめて、はっとなる。
 振り仰いだ彼女の目が、きらきらと涙に濡れそぼっていたからだ。
「セテカさん…」
 伏せられた目から、つつーっと涙が頬を伝って流れ落ちる。
 きゅっと胸元で握り締められた手。
「きみ、一体――」
「きゃあっっ……!!」
 セテカの両手が肩に乗った瞬間、再びドンッとセテカの胸を突いて、緋雨はよろよろと――少々不自然な角度で――よろめき、騎士たちの足元でばったり倒れた。
 まるでセテカに突き飛ばされたように。
「ああっひどいっっ、こんなときまで私を拒むのですねっ!」
「……は?」
 寝耳に水、青天の霹靂、藪から棒……えーと。あと何があったっけ?
「もう……もう私は必要ないとなった途端にこの仕打ち。いくらあなたでもひどすぎます…!」
 よよよ、と泣き崩れ、地に伏せる。
「あなたが力を貸してくれと言われたから、私はこの命賭けてこの地を守ったのです。そうしてあなたの望まれるがままにこの身を差し出し、遠い遠い北カナンまであなたに付き従い、ボロボロに傷つこうともあなたの望みを叶えたのです。なのに、願いがかなった途端にあなたは私を捨てて、かえりみることすらしてくださらなかった…!」
「きみ、一体何を…」
「ああ! 私を騙し、こき使って、最後にはゴミクズのように私を捨て去ったあなた…! それでもあなたを忘れられず訪ねてきた私にこの仕打ち……あんまりですわぁ…」
「なんと!」
「美しいお嬢さん、もうそれ以上は…」
 わああああっと声を上げ、身も世もなく泣き伏せった緋雨の周りに、みるみるうちに騎士たちの輪ができた。
 そのだれもが緋雨に手を差し伸べ、肩を抱き、慰めようとしている。
「あなたのようなうら若き女性が、そのように泣いてはいけません。病気になってしまう」
 中でも1人。黒髪にグレイが混じりかけた歳のころ四十後半と思われる男性が、緋雨の手を取り、そっと立ち上がらせた。
「セテカ」
 緋雨を胸に引き寄せ、慰めるように背中を叩きながら、きつくにらみ据える。
「父さん、俺は何も…」
「父さん!?」
 場にいた全員が目を瞠って2人を見比べた。厳しい顔つきのこの男性と、精悍な顔つきのセテカ……全然似ていない。だが、2人はまさに親子の会話をしていた。
「こういうことは、もう卒業したとばかり思っていたが…」
「真面目な顔して人聞きの悪いこと言わないでください! 俺は女性を騙して捨てたことなど1度もありませんよ!
 大体、なんだって俺がそんなことを――」
「口のよく回るおまえなら、十分やりそうなことだ!」
 立ち上がった騎士の1人が間髪入れず叫んだ。
「はぁ!?」
「そうだそうだ! その人の良さそうな顔で、裏では何をしているか知れたものでないわ!」
「ええっ!?」
 美しい女性を弄び、騙して捨てたという話に気色ばむ、父とほぼ同世代の生真面目な騎士たちに愕然とするセテカの前、セテカの父に抱き寄せられた胸元で隠れるように、べーっと緋雨が舌を出す。
 そこでようやく、セテカはこれが彼女の復讐なのだと気がついたのだった。
「……はは」
 最初のうち、何が何やら分からなかったものの、彼女のユニークな復讐に思わず笑ってしまったセテカの肩を、ぽんぽんと矢野 佑一(やの・ゆういち)が後ろから叩く。
「2カ月前は、すぐ南カナンへ出発されるということでしたので遠慮させていただきましたが。もういいですよね?」
 え? 何が?
「殴っていいですか?」
 と爽やかな笑顔で断っておいてから。
 佑一は返事も聞かずセテカを思いきり殴りとばした。
「この、女の敵ー」(棒読み)
 かたちばかりのこの言葉を真に受けて、騎士は足元へ投げ出されたセテカをいっせいに袋叩きにし始める。
「なんというやつだ!」
「このっこのっ!」
「騎士の風上にも置けぬ!」
「おまえのせいでうちの息子は何度振られたことかっ」
「一度死んで生まれ変わってこいっ」
「この顔がっ、この顔が!」
 ……なんだか私的な恨みをここぞとばかりに晴らしている者も中にはいるようだ。
「きゃーっ! セテカ君っ!!」
 無言作戦はどこへやら。ズタボロにされるセテカを見て、リカインが血相を変えて駆け寄る。
 彼女とすれ違いに、ケロリとうそ泣きをやめた緋雨が颯爽と天津 麻羅(あまつ・まら)の元へ帰ってきた。
「よいのか? あれで」
「いーの。間違ったことは言ってないもの」
 セテカさんが騙した事は事実だし、純情な乙女である私はセテカさんに騙されたのも事実よね。
 その事実をつなげると、セテカさんは純情な乙女を散々弄んだ上に、最後はゴミのように捨てたという事実になって間違ってはいないわよね?
 ――世に恐ろしきもの数多くあれども、女よりも恐ろしきものはなし。
(エリヤさんの死を背負う覚悟すらさせてくれなかった、セテカさんが悪いのよ)
「さあ、行きましょ」
 邪魔な髪をパッと肩の向こうへ払い込んで。
 緋雨は麻羅とともにこの場を歩み去った。



 そのころ、中庭へ下りる回廊の階段に1人腰掛けて、ミシェルは一生懸命目じりの涙をこすり落としていた。
「……泣いたりしちゃ駄目だって、あんなに決めたのに…」
 でもセテカさんの顔を見たら、なんだかいろんなこと思い出して…。
「――うーっ…」
 ぷるぷるっと首を振って、しつこい涙を振り飛ばす。
 あれから3カ月も経つのに、まだこんなだなんて……やっぱり会うべきじゃなかったかも。きっとセテカさん、ボクのこと変に思ったはず。
 でも、ここまで来て会わないなんて、そんなことできないし…。
 ――ううーっ…。
「やれやれ。そんなに頭を振っておると、はずれてポーンとどこかへ飛んでいってしまうぞ」
 頭の上から、そんな言葉が降ってきた。
「ファタさん…」
 隣に腰を下ろしたファタ・オルガナ(ふぁた・おるがな)は、膝の上で頬杖をつくとミシェルの顔を覗き込む。
 さっきからこすりっぱなしの目元や頬は、赤くなっているに違いない。ファタの、どこか笑んでいるような顔を見ると急に恥ずかしくなって、ミシェルはふいとそっぽを向いた。
「どうした?」
 立ち上がったミシェルにファタが声をかける。
「ボク、戻らないと。あんなふうに逃げちゃったりして……セテカさん、きっと困ってる。謝らなくちゃ」
(――いや、あやつは今それどころじゃないと思うが)
 ここ数カ月ミシェルを動揺させてくれたお返しにと佑一に殴り飛ばされたのをしっかり見てきたファタは、そんなふうに考えて、ぱしぱし階段を平手で叩いた。
 今戻ってセテカの姿を見たら、ますます動揺してしまうに違いない。
「まぁいいから座れ。そんな様子では、また同じことを繰り返すだけじゃ。第一、泣いたことが丸分かりの顔をしておるぞ。少し冷ましてから行け」
「えっほんと?」
 両手を頬にあてる。ちょっと熱を持ってるみたいだ。
「……うあー……佑一さんにもばれちゃうかなぁ…」
「いいから、ほれ、座れ。その間、わしでよければ話を聞いてやろう。どうせ佑一のやつにも内緒なんじゃろう? いつまでも溜め込んでおるからそうなるのじゃ。ここで吐き出してしまえ」
「………」
 ファタに促され、ミシェルはまた、すとんと腰を下ろした。
 両膝を抱きかかえ、額を押しつける。
「ボク……ボクも、よく分からないの…。あの神殿でのことが、ずーっと心に引っかかって、忘れられなくて…。
 ここに来る前、エリヤくんが病気で亡くなったって聞いて、すごく悲しかった。会ったら「心からお悔やみ申し上げます」って、言おうと思ってたんだ。だけど、セテカさんを見たら、やっぱりあのときのセテカさんを思い出しちゃった…。
 ――あのときのバァルさん、怖かった。本気でセテカさんを殺そうとしてた。それなのにボク、怖くて、すくんで、手足が動かなくて…。佑一さんは、セテカさんを庇おうとしてたけど……ボク、全然動けなかったんだ…」
 セテカさんを守りたいと、あんなに思っていたのに。
 いざその瞬間がきたとき、すくみ上がってしまって、何の役にも立てなかった。
「いっぱい、いっぱい血が出て……セテカさんも、バァルさんも、血で真っ赤になって…。
 ミーアシャムで傷は癒せたけど、本当は、あんな酷い怪我をするところ自体、見たくなかったんだ…」
 そのずっとずっと前に、とめなくちゃいけなかったのに。
「ごめん……ごめんね、ファタさん……ボク、自分でも何言ってるか、分かんないや…。頭の中、グチャグチャで……ごめんなさい…」
 すぐ泣きやむから…。
 思い出して、またにじんできた涙をこしこしこすって消そうとするのを見て、ファタはミシェルの頭を引き寄せた。そのまま、こつん、と自分の頭にあてる。
「そうか、ミシェルは大事な人が傷ついたのが怖かったんじゃな」
 いいこ、いいこと、なで続ける。
「それを防げなかった自分の無力さが腹立たしいか」
「……そう、なのかな…?」
 言われて初めて気づいたように、ミシェルはつぶやいた。
 じっと両手を見る。
 自分に、あれほどの怒りを止める力があっただろうか? あのとき体が動いていたら、自分は何をした?
 セテカを突き飛ばした? それとも、バァルを攻撃した?
「……ボク……よく分かんないや…。だって、バァルさんはエリヤくんが石化を解かれたら死ぬって分かってたんだもの…。あのときのエリヤくん、本当に危なかったし…。
 あのとき、ボク知らなかったけど、でも…」
「バァルを攻撃しておったら、真実を知ったとき、今よりもっと自己嫌悪が強くなったかもしれんのう」
「……うん。でも、セテカさんを守るためには、何かできたと思う……バァルさんを傷つけなくてもできる、何か……何か、ボクにも」
 ぎゅっとこぶしを作った。
 小さな手だと、あらためて思った。
 白く、やわらかい、小さな手。――女の子の手。
 こんな手で、一体何ができる? 肝心なとき動けなかった、こんなやわらかな心で?
「ボク…………ボク、ほんとは――」
 そっと、ファタがミシェルの手に手を重ね、こぶしを開かせた。
「言わずともよいのだ、ミシェル。言わずとも…。
 のう、ミシェル。わしは、どうすればよいか知っておるよ」
「えっ…?」
 ファタがため息まじりに言った言葉に、ミシェルは顔を上げた。
 ファタは背をそらして空を仰ぎ、飛ぶ鳥を見つめている。
「どうすれば今度のようなときにもおぬしの心が傷つかず、それほど悩まずにすむか。
 じゃがのう、それはおぬしには選んでほしくはない道なのじゃ。それはあまりに簡単で、そして取り返しがつかぬ道じゃから」
 だれもがいつかは選ぶ道。
 それは、自らの心が傷つかずにすむように守るための道でもあるし、もうだれも傷つかずにすむようにとの決意で選ぶ道でもある。理由はさまざまだ。
 ファタもまた、それを選んできた1人……おそらくは佑一も、ほかの大多数のコントラクターたちも。
 ファタはいつになく笑みを消した静かな目で、ミシェルに向き直った。
「ミシェルよ。つらいかもしれぬが、わしはそれを感じぬおぬしになってほしくないのじゃ。おぬしには、その道を歩んでほしい。大事な人が傷ついたからと、心を揺らし、涙を流すおぬしのままで」
 今感じているものが何かも分からない、無垢なままで、というのは無理な願いなのだろうか。
 自分たちがはるか昔に捨ててきたものを、ミシェルには捨ててほしくないというのは。
「――ボク……いいのかな……今のままで…?」
「いつまでもそうであってほしいと、わしは思っておる。多分、佑一もな」
 両手を見下ろし、うん、と頷くと、ミシェルはぴょんっと立ち上がった。
「ファタさん、ありがとう。
 ボク、やっぱりもう行くねっ。セテカさんに謝らなくちゃ。あと、佑一さんにも! あんなふうに飛び出しちゃって、きっと心配してくれてると思うからっ」
 たたたたっ、と駆けて行くミシェルにバイバイと手を振って。
 ファタは回廊の柱のひとつに視線を流した。
「もう出て来てもよいぞ。ミシェルは行ってしもうたからの」
「おや、気づかれていたか」
 柱の影から黒衣の男が現れる。
 左目を覆った黒革の眼帯――だがそれを、身体的ハンデとは一切感じさせない男だった。そうして姿を現しながらも、柱の影ほどにも気配が感じとれない。
 見たことのない悪魔。
「おぬしがそこに潜んだときから気づいておったわ。ディテクトエビルにかからずともな」
「ほう。これはこれは。怖いねぇ」
 とても本気で言っているとは思えない、飄々とした口調だ。ファタは疑わしい者を見る目つきで彼を見た。
 悪意は持っていないからと見逃してやったが、間違いだったか。
「で、おぬしは何者じゃ? ミシェルと同じで佑一の気配がする。大方あやつのパートナーであろう?」
「お察しの通り。赤い髪のお嬢さん。シュヴァルツ・ヴァルト(しゅう゛ぁるつ・う゛ぁると)という。以後、お見知りおきを」
 どこまで本気なのか、男はさっと帽子をとって、胸にあてる。口元は現れてからずっと笑んだままだ。
 こいつも口ばかりのお調子者か。ファタはふんと鼻で嗤い、立ち上がった。服についたほこりを払い、回廊に上がる。
「それで、まだ何の用じゃ?」
「その前に、お嬢さん。お名前をいただけないか?」
 ファタの手を取り、その甲にそっと唇を触れさせる。
「……ファタ」
 ぴしり。音をたて、手を叩き払った。
 初対面の男にそこまでなれなれしくされる覚えはない。
 こんなうさんくさい男を相手に本当は名乗りたくもなかったが「お嬢さん」と呼ばれるよりはまだマシだ。そう考えて名乗ったのだが。
「ファタ」
 シュヴァルツがクリームを嘗めた猫のような顔をして、その名を美しく発音したとき。
 一瞬、腰のあたりがぞくりとした。
 なんだろう? 何か今、一生の不覚をしてしまった気がする。
「ミシェルを慰めてくれてありがとう。まさかあの子があんなことを考えていたとはね。俺たちが見ていないと思ったとき、浮かない顔をしていたのは知っていたが、理由がつかめなくて。俺も佑一も歯がゆい思いをしていたんだ」
「……近すぎて言えぬこともある。ましてミシェル自身、あのように自覚できておらぬようではな」
「ああ、そうだな」
 ミシェルの消えた辺りに向き直るシュヴァルツ。一体さっき感じたのは何だったのか……訝しげにシュヴァルツの横顔を見上げたのち。ファタはさっさとその横をすり抜け回廊の出口へと向かった。
「ファタ? どうした」
「わしが用があったのはかわいいミシェルにじゃ。おぬしらにはない」
 そう言い捨て、一度も振り返ることなく城の中へと姿を消してしまう。
「やれやれ。つれないお嬢さんだ」
 吐息をついて見送ったシュヴァルツは、別の柱の影に目を走らせた。
 そこには腕組みをして、柱にもたれた佑一がいる。
「おまえにもしっかり気づいていたようだぞ」
「だろうね。彼女は何事も見逃さないから」
「そうだな。あの激しい気性そのままといった髪や目つきといい、しびれるぐらい、いい女だ」
 佑一のもたれた柱に手をついて、そこで初めて、おや? と気づく。
「佑一?」
「――いや、僕もセテカさんばかりを責められないと思ってね。ミシェルがあんなことを考えていたなんて……僕も、無意識の内にミシェルを傷つけていそうだ」
「おかしなことを言う。相手を傷つけるだけの影響力もないのであれば、それはそばにいる甲斐も意味もないというものだ」
「それはそうだけど。だからといって、傷つけていいものでもないからね。……大切にしないと」
 人というものは、とシュヴァルツは思う。
 ときどき分別くさいことを言う。できもしないくせに。
「さあ、そろそろミシェルを追うとしよう。おまえが見つからないと、あの子があわてることになる」
「あ、そうだった。行こう」
 2人は連れ立って中庭を出て行った。