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リアクション
春の日は回想を誘って
やっと休みが取れたのは、桜が散りはじめたある日のこと。
立心偏に亡、つまり『心』を『亡くす』と書いて『忙しい』だ。よく言われる言い回しではあるが、セレンフィリティ・シャーレット(せれんふぃりてぃ・しゃーれっと)は今年になってから、とりわけここ数週間はとみに、そのことを味わい尽くすくらい味わうはめになった。
心が亡きものになるどころか、亡霊になって、長い白い尾をひきながらゆらゆら飛んでいくよう。
昇進以来、研修だ訓練だ、その間にも任務だというわけで、自分の分身が二三人くらいほしいくらいの日々を過ごし、気が付いたら一年もその三分の一近くが過ぎてしまった。
けれどそれだけに、自由の身になった喜びはひとしおである。
砂漠の慈雨のよう……といっても天候は、春らしく落ち着いた好天だった。
暑すぎず、かといって肌寒くもなく、緑色の風が吹いている。
「出かけようか」
と言ったセレンフィリティに、
「近くでいいよ」
とセレアナ・ミアキス(せれあな・みあきす)はこたえた。
休日といってもつかの間、すぐに忙殺される日々が再開される……それがわかっているから、遠くに行くより近くでいい、できるだけ長くふたりきりの時間をすごしたい――そうセレアナは願ったのだ。
それはセレンも、同じ気持ちだった。
出かけたのはほんの数分の場所、ふたりが選んだのは士官官舎そばの公園だった。
散りゆく花もまた風流、ひらひらと舞う花弁を楽しみながら、手をつなぎ合って静かな公園を歩く。
平日の日中だからか人の姿はない。まるでふたりのためだけに、桜のアーチは花を付けているかに思えた。
ときおり強い風が吹くと、落ちた花すら舞い上がり、桜色の渦を巻いた。
「あそこにしない?」
セレンが指したのは、まだ多くの花をのこしている桜の大樹だった。
周辺の桜にくらべてもずっと大きい。枝ぶりは大雑把でアンバランスだったが、そこにむしろ、人工ではない自然の創造物らしい風雅を感じた。
「いいね」
微笑みあい、その根元にならんで腰を下ろした。
敷物は用意していなかった。芝の緑とやわらかさ、あとは少々の春の匂い、それだけあれば十分だ。
買ってきた弁当をゆっくりと食べ、ノンシュガーの紅茶で喉を潤した。
食べている最中も食べ終わっても、咲くのは他愛もないおしゃべりだ。それこそ甘露にちがいない。あまりに忙しい日常からすればこれこそ、喉から手が出るほどに求めてきた贅沢だった。
いつまでも続くような句点や読点のあまりない女ふたりのおしゃべりに、やがて不意の区切りが訪れた。ちょうど、近況を俎上にした話題が尽きたころだった。
笑い転げていたセレンが、ふと口を閉ざした。
エメラルドの瞳はなにかを見ているようで見ていない。
静かだった。桜の落ちる音すら聞こえるほどに。
やがてセレンは、ぽつりと呟いたのである。
「想像もしなかったわ……あたしが今こうして、セレアナと一緒にいるなんて、こと」
よみがえるのは、わずか六年前、あるいは、遠く六年前の記憶だ。
当時、セレンフィリティは十六歳だった。
そして、『クリスティーナ』と呼ばれていた。
青春という言葉は当時の彼女には存在しない。
あったのは、一方的に奪われ続けるだけの日々だった。
自由を奪われ、
純潔を奪われ、
尊厳を奪われ、
心すら、奪われかけていた。
システム化すればどのような不条理も、ため息が漏れるほど合理的に動くものだ。
『クリスティーナ』がいた場所は、高度にシステム化された少女売春の組織だった。悲惨という言葉すら追いつかないほどの世界ゆえ、おかれた状況に絶望して人形のようになってしまう少女も少なくなかった。
不条理によって管理されながらも『クリスティーナ』は意志を保ちつづけた。このとき彼女の胸には、まだ希望の灯があったのだ。
ある夜逃亡を図った彼女だったが、同室の少女の裏切りによりたちまち発覚し捕らえられてしまった。
結果加えられた暴行については、書くまい。
その仕打ちによって、彼女は死んだと見なされた。
冷たい雨の降る中、全裸で捨てられた『クリスティーナ』を拾ったのがセレアナだった。
当時、セレアナも十六歳だった。
セレンとはまったく意味が異なるが、それでもやはり、青春という言葉とは無縁の生活をセレアナは送っていた。
下級ながら貴族令嬢に生まれたということは、人生に選択肢がないということを意味する。
有力な家系との政略結婚が、白い一本道のように予定されている。セレアナの生は、ただその道を歩むためだけにあった。
地球へ旅行に行ったのは、いよいよ結婚の日取りが決まり、人生で最初で最後の自由な日々を送るためのものだった。
帰国を間近に控えたある日。
セレアナは道に迷った。偶然に迷ったのか、意図してそうしたのか、それは自分でもわからない。
うっかり入った路地裏で、セレアナは『クリスティーナ』と出会った。
天の配剤だったのだろうか。
それは彼女の人生にとって転機となり、苦悩の日々の始まりともなった。
瀕死のあの子を救いたい――ただその衝動に駆られてセレアナは彼女との契約を果たした。
契約そのものには双方の合意が必要だが、この場合『クリスティーナ』の側に、拒めるほどの意思の力はなかった。
これが、禍根を残した。
「どうして棄てておいてくれなかったの」
まともに話せる程度に体力を回復したとき、『クリスティーナ』が口にしたのはこの言葉だった。
感謝などまるでない。『クリスティーナ』がセレアナに示したのは怒りであり、怨みであり、ありとあらゆる否定だった。
死なせてくれればよかったとなじった。余計な親切と毒づいた。それがどれほど残酷なことかと訴えた。
虐待され続け、裏切られて死にかけた彼女に、他人であるセレアナを信じろというのは無理な話だ。彼女にとってセレアナは、恩人どころか仇敵に等しい。
『クリスティーナ』にはなにひとつ所有物はない。『クリスティーナ』という名前にしたところで、売春組織がつけたいわゆる源氏名でしかなく、本名はわからないのだ。
唯一、例外的に『クリスティーナ』が所有していたのが心だ。
彼女はセレアナに拾われたことで、その心すら踏みにじられたと感じていた。
しかしセレアナは、執念と呼べるほど根気強く、『クリスティーナ』の世話を焼いた。拒絶されてはねのけられても、ときに暴力を振るわれようとも。
セレアナは聖女ではない。拒否されるたびに悦びを感じるというタイプでもない。当然、『クリスティーナ』に酷い言葉を投げかけられるたび傷ついた。錆びたバールで削られるように摩耗した。耳鳴りや不眠に苦しむようにもなった。
なのになぜセレアナは諦めなかったのか、そればかりか、貴族の家名を棄てて彼女と生きる道を選んだのか。
それを一言で説明するのは難しい。あれから年月が経った今でも無理だ。
彼女の再生を扶けることで自身も再生しようとしていた……あえて言うならば、それが近いかもしれない。
『クリスティーナ』という名前を憎んでいるのを知ると、セレアナはかわりに『セレンフィリティ・シャーレット』の名を彼女に与えた。これはパラミタの古語で『緑瞳の忘名姫(りょくとうのわすれなひめ)』を意味する。
『クリスティーナ』が『セレン』と呼ばれても返事するようになった頃、ふたりはシャンバラへ移った。
移住してまもなく、セレンは教導団へ入った。
「手っ取り早く死ねそうだから」
というだけの理由で。セレアナへの当てつけのように。
さすがのセレンも、まさかセレアナが躊躇せず自分を追って入団するとは思ってもみなかっただろう。
鍛えるためというよりは、振り落とすためのような過酷な訓練にもセレアナはよく耐えた。弱音一つもらさず、黙ってセレンの隣を走った。
ふたりにとって運命の日は、入団一年目の冬に訪れた。
猛吹雪の中での冬季戦闘訓練、セレンはついに、会いたかった者と直面した。
それは、死。
味方からはぐれたセレンは、冬の山で死にかけていた。
目の前は雪。振り返っても雪。肌に突き刺さるような極寒ながら、その光景は絶頂を覚えるほどに美しかった。
このときセレンの顔には、恍惚とした笑みが浮かんでいた。
――ようやく死ねる。
自殺はしたくなかった。運命に敗北したことになるから。
けれど避けられぬ死という現実には、求め続けた美酒のような、あるいは、記憶にはない母の懐のような、甘美な魅力があった。
薄れゆく意識のなかで、セレンは首を巡らして誰かを探した。
探して、彼女が……セレアナがいないことを知って、紙人形のように倒れ伏した。
「……どうして」
目が覚めたとき、セレンは自分がまだ生きていることを早々と理解していた。
「見捨てないって、決めたの。あなたが私に心を開いてくれるなんて期待してない……それでも……そう私は決めたのよ、セレン」
どうやって自分を見つけたのだろうか。それはわからない。
それでもセレアナはそこにいて、自分の手当てをしてくれている。
セレアナ自身も怪我をしていた。しかしそれに構わず、セレンの手当を優先していた。
セレンの目に熱いものがこみあげていた。会いたかったのは死じゃない。
――私が会いたかったのは……セレアナだ。
セレンが生まれて初めて、泣いた瞬間だった。
強い風が吹いて、桜の花弁を雪のように降らせた。
セレンは手を伸ばす。
指の間を風と、桃色の花びらが通り過ぎていく。
「あの寒い日……まるで生まれる前の話みたい……でも、まるで昨日のことみたい」
セレアナはなにも言わなかった。
けれど、ただ、同意のしるしのように、セレンの唇に口づけした。