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春待月・早緑月

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春待月・早緑月
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リアクション

「え〜っ、そんな、悪いよ〜」
 耳に押し当てたケータイ相手に、芦原 揺花(あはら・ゆりあ)は屈託ない声でしゃべっていた。
 そうしている間も歩く足は止めない。
「だってお姉ちゃん、もうお昼食べちゃってるんでしょ?」
 反射的、となりを歩いていた荀 灌(じゅん・かん)がビクッと肩を震わせた。こころなしか先までと違い、少し青ざめた表情で聞き耳をたてている。けれどその後の揺花の会話は「うん、うん、そうなんだ」とあいづちばかりで要領を得ず、やきもきしている間に終わってしまった。
「郁乃さん、何と言ってましたか?」
「うん。あのね、出かける用事とか特に何もないから、お寿司用意して待ってるって」
「えっ!? 郁乃さんの、て、手料理ですかっ!?」
 揺花の言葉に、一気に鼓動が跳ね上がった。声が裏返ってしまったのが自分でも分かったが、その理由は揺花も知っているため、気づかれても問題はなかった。
「どうだろ? いくらなんでも、そこまでは訊けなかったよ、失礼だもん」
「……だからわざとお昼時を避けて、年始のごあいさつに行くことにしたんですが……」
 こうなったら玄関であいさつだけすませて、早々に退出するべきか?
 いや、いくらなんでもそれは失礼すぎるだろう。きっと郁乃は自分たちの訪問を楽しみに待ってくれているんだから。
 さりとて、このままUターンして帰りたいのも事実。
 回避するための名案が何も浮かばないのに、どんどん芦原宅が近づいてきていることに、ぎゅっと目をつぶって歩いていると、揺花がおそるおそるといった様子で口を開いた。
「あのね、荀灌……。前に食べた郁乃さんの手料理の味……覚えてる?」
 どうやら揺花もまったく同じことについて考えていたらしい。悩みの点は灌より数歩先をいっていた様子だが。
 灌はちらととなりの揺花を見つめ、首を振って見せた。
「それがまったく……」
「え? 覚えてないの?」
「無茶言わないでください……食べたら気を失うんですよ? 記憶に残るはずがないじゃないですか」
「そっかー」
「そういう揺花こそ、何か覚えてることあります?」
「う、うーーーーーん……」
 揺花はこめかみに人差し指をあてて、思い出そうと必死に記憶を探る。
「すっごくおいしそうではあった、たしか!」
「それ、見た目の特徴ですよね」
「だってー、無茶だよ〜。スプーンでひと口分すくって口に運んだとこまでしか覚えてないんだもんっ」
「そうなんですよね。舌の上に乗せた直後意識がブラックアウトして、回復魔法で意識レベルが回復するから覚えてないんです」
 おいしいのか、まずいのか。にがいのか、からいのか。
 舌を麻痺させ、完全に記憶を破壊しないと正気が保てないレベルの味であるのはたしかなので、きっと、おいしいということはないのだろうと推察はできているのだけれど……。
「記憶がないのに、どこが反応してるの?」
「それは『こころ』じゃないでしょうか」
 記憶として微塵も残らなくても、肝心のこころが感じ取っている。「あれはとてつもなくヤバい代物だ」と。
 きっとそれは、体の奥深くに刻みつけられた生存本能。連綿と続く人間の歴史のなか、受け継がれてきた太古からのDNAの声に違いない。
(……って、今の私、正確には人ではありませんけれど)
 フッと遠い目をして宙を見つめる灌の無意識的なアルカイックスマイル顔を見て、揺花は「むーう」と何事かを思案する。そして
「あ、あのね、荀灌――」
 と何事かを口にしようとしたときだった。
「おーーい、2人ともー! こっちこっちー!」
 窓から近づく2人を見ていたに違いない。道路へ走り出てきた芦原 郁乃(あはら・いくの)が、ぶんぶん手を振りながら満面の笑顔で2人を歓迎した。


「寒かったでしょ? さあ、入って入って。もうじきお寿司も届くと思うからっ」
 郁乃はよほど退屈していたのか、はしゃぐようにそう言うと2人の背中を押して家に入った。
「あ、注文、したんですか。
 わざわざすみません」
 内心ホッとしつつ、顔に出てはいないか隠すように軽く頭を下げる。
「わーいっ。郁乃さん、ありがとう!」
 揺花が礼を言ったが、その真の意味は郁乃に伝わってはいなかっただろう。
「なんのなんの。かわいい妹たちのためだもの」
 郁乃は笑って2人を部屋へ通すと暖房機のスイッチを入れる。
 そうして、脱いだ上着を手に持って、あらためて揺花と灌は郁乃に正面を向けると新年のあいさつをした。
「あけましておめでとうございます、お姉ちゃん。昨年はいろいろお世話になりました。本年もよろしくお願いいたします」
「郁乃さん、あけましておめでとう。今年もよろしくね!」
 深々と頭を下げる。
「あ、こちらこそ。あけましておめでとう。今年もよろしく……って、や、やだなぁ。なんか、こういうのって照れちゃうよ。
 2人とも、ほら、いつまでも立ってないで早く座って座って。上着はこっちにちょうだい。掛けとくから」
「うん」
「ありがとうございます」
 郁乃は2人から預かったコートをハンガーに掛けて吊るしてから、台所へ向かった。
「待っててね、2人とも。今ちょうどお雑煮ができたところだから、お寿司がくるまでそれでも食べて体をあたためて――って、何? その顔」
 まさかの油断させておいてからの一撃!
「お、お姉ちゃんが……作ったんです?」
 先に立ち直った灌が、どうにか言葉を発した。
「そりゃ作ったに決まってるでしょ」
 おかしな娘ね、という目で郁乃は灌を見る。なんとなく口端がひきつって震えているように見えたが、きっと冷えていた体があたたまってきたせいだろう、と判断した。
「お雑煮って作り置きできるものじゃないし。この家で、私以外のだれが作るっていうのよ」
「……デスヨネー」
 揺花はあいづちを打ったが、棒読みに聞こえた。
 きっとまだ外の寒さから回復しきれてないのだろう。今日はすごい寒波だというし、2人は初詣をしてきた帰りらしいから、ずっと外にいたに違いない。
 郁乃は大急ぎ、止めていた火をつけて雑煮をあたため直すと、2人の前に差し出した。
「はい、どうぞ。まだまだいっぱいあるから、遠慮なくおかわりしてね」
「わ、わーい……うれしいなぁ……」
 お雑煮を真上から覗き込む。
 白菜、タイモ、花形に切られたニンジン、三つ葉、それに丸もち。それが椀のなかに品よく盛られて、ほかほかと湯気をたてていて、見るからにおいしそうだ。
 外見は。
(おかしいです……まだひと口も食べてないのに、目がジンジンして涙がこぼれそうです)
 きっとそれは湯気のせい。
「大げさだなぁ、たかがお雑煮1つでそんなに喜ばなくてもいいのに」
 身を寄せ合い、ポロポロ涙をこぼしている2人を見て、郁乃は笑う。もちろんまったく2人の心情には気付いていない。
「おせちもあるから、なんだったらそれも食べる?」
「い、いえっ! せ、せっかく頼んでいただいたお寿司が入らなくなると悪いですからっ」
「そーそー、そーそー」
 コクコクうなずく揺花に、郁乃は「それもそうか」と思い直して台所へ行きかけた足を止めた。
「……これ、どうしようか……?」
 寄せ合った体に隠れるように、揺花がつぶやく。
 何も妙案は浮かばない。寿司の配達が来て、郁乃が玄関へ受け取りに出ればその隙に、という手もあるが、届く気配もない。
 もはやこれまで。
(でも、雑煮は出汁とおしょうゆで煮るだけの、簡単なお料理なのです。これまでの物と違って、そんな破壊力がある可能性は……)
「……と、とりあえず私が食べてみます」
「! 荀灌……あなた……妹の鑑だよ……」
 ほろり。ハンカチで涙を隠す揺花は気づけていなかった。
 灌がこれに耐え切れれば、次は自分の番なのだと。
 しかしもちろん、灌が今回に限って耐えられるはずもないわけで。
 すまし汁をひと口すするなり。
「うっ!!?」
 灌はさながら猛毒でも口にしたようにのどを詰まらせ、ひっくり返ってしまった。
「どうしたの灌っ!?」
「わーっ、やっぱり!!」
 思わず本音を口にしてしまった揺花だったが、郁乃はまったく気づいていない様子であわてて倒れたまま動かない灌の枕元へつく。
(うう……お姉ちゃんの料理の破壊力を侮ってしまったのです……)
 この部屋はたしか、暖かくてポカポカしていたはずなのに、なぜこんなにも冷たく、寒くて暗い所へ自分は落ち込んでいっているのかと。
(こころは寒いです……極寒です)
 自分を呼ぶ2人の声は聞こえていても、返事をすることもできない。
 薄れゆく意識のなか、灌は涙を流しながらそう思った。