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【真相に至る深層】第一話 過去からの呼び声

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【真相に至る深層】第一話 過去からの呼び声

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【昏い夜の帳の下で】



――――それが、絶望と言う名の病だと気付いた時には、既にそれは目の前へと迫っていた。



 深い海の中にあって尚、朝夕は絶えることなく繰り返す。
 しかし、海の闇は地上のそれと比べると月の見えぬ分酷く深く、恐れるようにして灯された各所の不寝の明かりが、ふつふつと頼りなげに揺れている、そんな深夜のことだ。
「……すまない」
 ラルゥは小さく呟き、左手に持っていた絹のスカーフをティユトスの口元へと宛がうと、優しく拭った。だがその右手の剣は、深々とその左胸を貫いている。白い寝巻きが真っ赤に染まっていくのを痛ましげに目を逸らし、引き抜かれた剣の後ろで血飛沫の上がる音がする。
 酷くあっけなかった。茜色の騎士団最強のあのアジエスタが数年もかかって為せなかった事が、こうも簡単に。やはり彼女はティユトスに情を移していたのだ。そう思いながら去ろうとした、その時だ。
「……ごめんなさい」
 聞こえる筈のない声を背中に受けて、ラルゥは驚きに振り返った。そこに見えたのは、先ほど確かにずるりと生々しい音を立てて崩れ落ちたはずのティユトスが、静かに目を瞬かせる仕草だった。
「馬鹿な、私の剣は確かに心臓と肺を貫いたはず」
 我知らず震える声が呟く中、ティユトスの唇が小さく動く。
「私は死ねないのですよ」
 囁くようなか細い声、ゆらりと立ち上がる細い身体、闇に浮かぶ金の髪、その全てがぞわぞわと背中を冷たくさせ、ラルゥはその茶の目を揺らし、思わず後ずさった。その反応にティユトスは悲しげに目を細める。
「貴方は……オーレリア様の騎士“ソレイユ・ドール”ですね。ならば、オーレリア様に伝えてください」
 そう言ってゆっくりと近付く足は怪我人のそれではなく、ラルゥは追い詰められるようにして更に一歩を退いたが、ティユトスは悲しげな眼差しのままでひたりとその目を見つめ、続ける。
「アジエスタは貴方の言葉を忠実に果たしています、と。私が生きているのはただ、そう――この魂にこびりついた呪いのためだけ」
 その言葉をどこまで頭が理解したのか、ぞわりと背中を這うものに、気がつけばラルゥは踵を返して、その金の髪を揺らしながら、逃げるようにその場を駆け出していたのだった。


 その後ろ姿を悲しげに見送るティユトスに向けて、ふと声がかかった。
「何をしている?」
 淡い金の髪に、深い青の瞳をし、ティユトスに瓜二つ――僅かにだけ目元や口元に強さが滲み出ている――の女性。黄族親衛騎士団に所属する戦士で「天狼」の二つ名を持つ、ティユトスの双子の姉だ。
「……また、か」
 忌々しげに眉を寄せた姉に、ティユトスは淡い苦笑を浮かべた。
「ええ、またです……今回も、無理でした」
 その言葉に、天狼は更に眉根を寄せた。
「貴方の死にたがり癖も、いい加減直せと言いたい所だが……仕方がないのだろうな」
 溜息を吐き出すと、血でべっとりと汚れた服を脱ぐのを手伝い、傷ひとつ残っていない滑らかな肌を拭ってやりながら、天狼は燻っている思いを、ぽつぽつと唇から滑らせた。
「父上は残酷だ。街のためだからと、貴方一人を犠牲にしようだなどと……」
「お姉さま」
 ティユトスはそんな姉に、小さく宥めるように苦笑を落とした。
「お父様は、望まなかった子供である私たちを愛し、慈しんでくださいました。同じように、皆を愛していらっしゃるだけです」
 そう言って、そっとその自分よりも力強い手を取ると、苦しげに眉を寄せる。
「お心を痛めていらっしゃいます。私さえ……生まれなければ」
 そのまま消え入るように漏らされた妹の声に、堪らなくなって天狼の腕はその体をきつく抱きしめていた。自分に比べ、細く柔らかく、華奢な少女だ。そんな彼女が絞り出すのがそんな言葉であって良いはずがない。
「……大丈夫だ、ティユトス。私がどんなことをしても、貴方を救って見せるから」




「お会いになって行かれないのですか?」
「…………」
 リーシャが踵を返したアジエスタの背中に声をかけた。天狼の声を漏れ聞いて、アジエスタは踏み出しかけた足を翻して、闇の中を引き返そうとしていたのだ。
「天狼の前に、顔は出せないよ」
 ティユトスの顔を見に来たが、天狼は自分が傍に寄る事を快く思わない。自分の妹を殺すために宛がわれた存在だ、好意を持てというのは難しい話だ。そう苦笑するアジエスタに、リーシャもそうですね、と息をついた。影武者である彼女のティユトスと全く同じ姿にも、アジエスタは複雑な感情があるようで、緩く首を振って「後で、よろしく伝えてくれ」とだけ言い残して今度こそ踵を返した。
「あんな風に、救うと……口に出せれたら良いのに」
「弱音とは、珍しいですね」
 神殿を出ながら呟いた所へ、すっと寄ったのは副官であるジョルジェ、そしてアジエスタの祖父であり、茜色の騎士団最高齢のノヴィム、そして親友の一人であるファルエストだ。任務を終えたアジエスタが、ひっそりと神殿に寄るのを見咎めて、後を追ってきたようだ。
「先に帰れと言ったのに」
 苦笑したアジエスタだが、それぞれが心配しているのは判っているので、それ以上は言わずに帰路へと足を進めた。
「姫様のお加減は?」
 ファルエストの問いに、アジエスタは小さく首を振った。
「私は会ってない。手を出したのはラルゥだ。オーレリア様はとうとう私を見限ったかな」
「あの太陽は、気を回したのでしょう。オーレリア様が見限ったのであれば、貴方はとっくに解雇です」
 ジョルジェが肩を竦めるのに、ファルエストも頷き、僅かにその表情を変えた。
「でも、その方が良いのかもしれないわ。あなた……自分が死にそうな顔をしてるわよ」
「そんな酷い顔をしているかな」
 苦笑したものの、アジエスタの反論には余り力が無い。定められた刻限――“約束の日”はもうすでに残り一年にまで迫ろうとしているのだ。焦りに任せて何度もその手を汚したが、結局苦しみを与える以外のことが出来ずに居る。その背中を、ジョルジェとノヴィムはただ無言で叩くのだった。


 そうして、灯りに照らされる石畳の上に小さな足音を響かせること暫く、紅族が統治する区画へと辿り着くと、それを待ち構えていたようにリリアンヌ・コルベリティディアルトを伴って「御機嫌よう」と声をかけた。薄紅のウェーブのかかった長い髪を揺らし、親しげにアジエスタの腕を取ると「ねえアジエスタ」と甘い声で自身を親友と呼ぶ相手の名を呼ぶ。
「媛様のお嘆きようは如何でしたの?」
 囁くような声に、アジエスタは身を硬くした。ノヴィムが僅かに眉を寄せたが、リリアンヌは構わずに更にぴたりと体を寄せると、痛ましげな顔でアジエスタの手に自身のそれを絡めた。
「……苦しんでいらしたでしょう。お可哀想に。早く殺してさしあげないと」
「わかっている!」
 リリアンヌの言葉に、アジエスタは思わずといった様子で声を荒げた。その時だ。
「アジエスタ、声が大きいですよ」
「……すみません……オゥーニ姉さま」
 声を聞きつけたのだろう、橙の髪が闇夜に揺れた。アジエスタの家に仕え、今は巫女となったアジエスタの姉のような存在であるオゥーニだ。静かに近付くと一方の手を取り上げて、その豊かな胸元へと招いてぎゅっと抱きすくめるようにすると、痛ましげにその赤い瞳を揺らした。
「余り、思いつめては駄目ですよ」
 かける声には心からの憂いと愛情に満ち、アジエスタが僅かに縋るようにその目を細めるのに、オゥーニはぎゅっとその手の平に力を込める。
「私はあなたが心配です、アジエスタ。このままではあなたの方が参ってしまう」
「ありがとう、オゥーニ姉さま。けれど……リリアンヌの言う通りなんだ」
 暖かくやさしい言葉は、アジエスタの心を包んだが、それも一時のことだ。囁かれた言葉がじくじくとその心を苛んで痛む。何度手にかけても果たせない任務、そして何度も絶望を宿す、あの青い瞳。
「ティユトスは苦しんでいる。せめて……せめて、私の手で」
 掠れて消え入りそうな声に、ジョルジェとオゥーニが眉を寄せた。単純な力では藍色の騎士団長であるビディシエに劣る、茜色の騎士団長であるアジエスタが、ティユトスの殺害者に選ばれているのには勿論理由がある。故に、代わろうと言えるはずも無く、ただ沈黙を返すしかない。そんな重たい空気の中で、ノヴィムがその肩を優しく叩いた。
「……主が選ぶことじゃ、儂らはそれに従うまでじゃよ」
 ノヴィムの低い声が、アジエスタの耳に滑り込んだ。
「じゃが……本当に望むことを、見失ってはならんぞ」
「……はい」
 噛み締めるようにアジエスタが頷いたが、その横顔を、フェルエスタが酷く暗い瞳で見つめていたのを、気付いたものは誰も居なかった――……



 時刻はやや遡る。
「駄目だね、オーレリア子飼いの騎士も、失敗したみたいだよ」
 神殿の上階から、神殿の外の動きを眺めていたティーズにそう声をかけたのはフェンラスだ。おかっぱにした淡い金の髪が闇からするりと溶け出て傍に来ると、ティーズは「そうか」と短く応えた。先程慌てたように駆けて行く姿が見えたので、予想はしていたものの、若干の落胆も隠せないようでティーズが息をつく。その横顔に、フェンラスと、その後を追うようにやってきたリーシャは肩を竦めた。
「あのアジエスタで無理だったんだ、まあ当然といえば当然かな」
「だろうな」
 自分の娘のこととは思えないほど淡々とした声だが、その実情がそうでないことは判っている。珍しい男性の巫女であり、側近であるイグナーツは、「厳格」の名を持つに相応しいその厳しい横顔に滲む苦さに、眉を寄せた。
「いつかは迎える役割とは言え、気持ちの良いものではないな」
 ぽつりと漏らした言葉に、フェンラスは僅かに眉を寄せた。
「お嬢さん、望まれた子じゃないけど愛してくれた、と言ってたよ」
 その言葉に、イグナーツの顔も苦く曇る。ティーズの血族はいつか姫巫女の転生の受け皿となるべく定められた家だ。その日が来るのを避けたいと願いながら、けれどその日の為に血を繋いできたその重い日々を、あの幼い身で悟っているのだ。その事実はどれだけ厳格に心を戒めようとも、痛む心は止められるものではない。深く息を吐き出したティーズに、何時もの無表情で傍に控えていた、義理の娘であるネフェリィが外の景色を指をさした。
「……お義父様」
 その先では、アジエスタが神殿を後にしようとしているところだった。その後を追う茜色の騎士達を見送りながら、ティーズは苦い顔で息をついた。
「……あの娘にも、残酷な役割を与えることになってしまった」
 そう呟き、ティーズが見たのはリーシャだ。影武者の役割を与えられた意味を、彼女が悟っているのかどうか、ティーズには判らない。だがその迷いをもっとも象徴した存在である彼女に、ティユトスを重ねたようにティーズは眉を寄せる。
「君にも、すまないことをしたと思っている」
「いえ。これもお役目と承知しております」
 リーシャは頭を下げたが、正直な所を言えば、謝られる意味が彼女にはまだ判っていなかった。本来の姿を殺して格好を作っていることなのか、それとも知らされていないだけで、何か謝られなければならない意味があるのか。そんなことを考えていると、ティーズはその頭を軽く撫でるようにして触れて、また視線を神殿の外へと向けてしまった。
「厳格のティーズ、か。誰より似合わぬ名を、付けられたものだ」
「そんなことを、口になさらないでください」
 呟くティーズの、普段は鋼のような硬い背中が、僅かに小さく見える。この背中が今まで、どれ程のものを犠牲にしてきたか、重圧を背負ってきたか。それを知るイグナーツは、訴えるように声をかけた。
「私は、貴方が誰より心を痛めていることを知っています。どうか……お一人で苦しまないでください」
「……すまないな」
 その言葉にティーズが僅かに表情を緩め、動かない娘の肩へとそっと手を置いた。白い髪を赤いリボンで二つに括ったその赤い瞳は、その母親に良く似ている。だがその事実は、苦い記憶と共にティーズを苛んだ。
「お前にも……辛い思いをさせてすまない」
 契約が無ければ、ティーズがその役目に無ければ、ティユトスたちと同じく理不尽な人生を送らずに済んだ筈なのに。その声はそう告げていたが、ネフェリィはただ無関心に、その目を遠ざかるアジエスタへと向けていたのだった。