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【カナン再生記】黒と白の心(第3回/全3回)

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【カナン再生記】黒と白の心(第3回/全3回)
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序章 戦争序曲 2

 空け放たれた窓から夜風が迷い込み、端まで引かれていたカーテンをさらさらとはためかせた。心地よい夜気の冷たさを肌で感じながら、黒崎 天音(くろさき・あまね)は窓辺に置かれたチェス盤に駒を並べた。対面に座るのはパートナーであるブルーズ・アッシュワース(ぶるーず・あっしゅわーす)だった。彼はまるで影のように静かに、駒を並べる天音の指先を見下ろしているだけだった。
 駒はキング、クイーン、ルーク、ビショップ、ナイト……そしてポーン。ナイトを配置する天音は薄く笑いながら呟いた。
「例えば……カナンをチェス盤に見立てて、黒と白のナイト。シャムスとエンヘドゥだね」
 続いて配置してゆくは歩兵を表すポーンである。薄く笑みをかたどった唇からは、くすりとしたかすかな声が漏れた。
「僕らシャンバラの契約者も含めた兵士達は、さしづめポーンと言った所かな? 盤上で繰り広げられるゲームはきっと心躍る見ものなんだろうね」
 中央にポーンを置こうとして、天音の指先が思わず2つの駒を倒してしまった。倒れた駒が盤上を転がる無機質な音を聞いて、天音は何か考え込むようにして倒れた駒を手に取った。
 キングとビショップ。チェスの大駒たるそれを見つめる天音の目は、なぜか少しだけ楽しげで、しかし悲哀さえも帯びているようだった。
「……黒のキングと、ビショップの心はどこにあるのか。食べられたのか……もしくは……魔物が答えを知ってるかな?」
 再び微笑の声を漏らした天音の手が、かつりと音を立てて駒を配置する。
 ブルーズは信じがたいような、推する表情で天音の呟きに答えた。
「心喰いの魔物か……本当にそんなものが存在するのか」
 どこか夢物語でも聞かされているような気分だ。現実感を帯びないそれの畏怖と懐疑が混じりあって、ブルーズは不気味な悪寒を感じていた。いや、予兆……かもしれない。圧倒的な戦況の不利やエンヘドゥの敵対。それに兵士たちの間の不穏な空気。嫌な予感はぬぐえ切れなかった。
 目の前では32個の人員が揃った。しかし天音は……チェスを始めるでもなくじっと並べられた駒たちを見下ろしていた。怪訝そうに眉を寄せたブルーズが彼に尋ねる。
「天音、並べた駒を見つめてどうした?」
「いや。シャムスが女性だというのにそんなに問題があるのかなと思って? 護衛部隊の先頭に立つカナンの国家神は女神イナンナ。空中部隊の迎撃を指揮するのは、シャンバラ女王の影武者だったユーフォリア・ロスヴァイセ。逆に女性の方が、勇ましいくらいなんじゃないだろうか」
「……かもしれんな。しかし、得てしてそのようなそのようなものでもある。積み上げてきた歴史と風潮を前にしては、現実から目を背けるぐらいは容易だ」
 呆れと同情が同じ程度含まれた物言いだった。
 二人は同時に窓の外に目をやった。夜の闇にあってなお、月は地球で見るものと全く同じで薄ぼんやりと幻想的な光を降り注いでいた。その光に魅せられたように、ブルーズが更に口を開いた。
「不安定な心につけ込むのが魔物のやり口なら、今の民の間の不安を煽り扇動や相打ちをさせるのは楽だろうな……思う壺にならねば良いが」
 明日の朝にはシャムスが兵を連れて出立するらしい。
 果たして先で描かれるものが何かは分からぬ。ブルーズが視線を送った天音でさえも、彼の言葉に返事を返すことはなく、ただ微笑を崩さぬまま月を見つめ続けていた。



 陽光も差しきらない翌朝のこと。
 ヤンジュスの入り口にある朽ち果てた高木の門にいたのは、馬に乗るシャムスとそれを見送りにきた契約者の姿であった。民の護衛や後続の歩兵部隊に混ざる、レジーヌ・ベルナディス(れじーぬ・べるなでぃす)シニィ・ファブレ(しにぃ・ふぁぶれ)が、モート軍への迎撃に向かおうとするシャムスを見送りに来ていた。
「……シャムスさん……あ、あの……」
 レジーヌはおどおどと彼女に声をかけた。彼女が女性と分かってから、はっきりとまともな会話をするのはこれが初めてかもしれなかった。普段から会話というものが苦手なレジーヌであったが、それが余計に緊張を波打たせていた。
 しかしふっとシャムスの顔をはっきり見る時がくると、シャムスが柔らかくほほ笑んでいるのが分かった。緊張はほほ笑みの中に溶け込んでしまい、たどたどしくもレジーヌは声を続けることができた。
「民の皆さんは……私が守りますので……安心して自分のやりたい事、やるべき事に専念して下さい……ご武運を」
 シャムスは笑みだけでそれに答えていた。もちろん、レジーヌもそれ以上の返事を待ってはいなかった。表情だけでも、彼女の返事は見えた気がしたから。
「シャムス」
 レジーヌの後から声をかけたシニィは、なにやら大きな酒瓶を掲げていた。それは彼女がヤンジュスの古城の中から見つけたものであり、比較的保存状態も良く飲酒には問題ないレベルの名酒であった。
「勝利の暁には飲み明かそうぞ」
 小気味いい笑みをシニィは浮かべていた。友人を気軽に誘うそれを見て、シャムスは安らぐような心地であった。
「その時はわらわが酌をしてやろう」
「ああ……よろしく頼む」
 それは約束だった。勝利の際の約束。二人はそれを交わしたのだ。未来に向けた道標を立てるように、二人の視線が交わされて。
 出立だ。そう思って馬を走らせようとしたそのとき、シニィたちの後ろからシャムスに向けて駆けてきた少女が彼女を呼んだ。
「シャムス!」
「緋雨……」
 さらりと波打った黒髪の下にある眼帯をはめた顔。慌てて駆けてきた水心子 緋雨(すいしんし・ひさめ)はその表情をゆがめて息をついた。ようやく息を落ち着けたときには、シャムスの目が彼女を一瞥していた。
 その理由を緋雨はもちろん知っていた。出立準備の前に、緋雨はシャムスと話していたからだ。その内容は、緋雨の懇願――エンヘドゥの説得であった。ヤンジュスの古城に残されていた二人の想い出を映し出しながら、彼女はシャムスであればきっとエンヘドゥの心を取り戻せると言った。
 しかし――
「どうして、どうして姉妹で争わないといけないの……!?」
「言ったはず……確証のないことに付き合えるような状況ではない。今は、目の前に迫る敵を退けるために全力を尽くす。それがこの戦いの在り方だ」
 結果はこの場でシャムスが再度告げた通り、賛意を得られることはなかった。
 納得できなかった。どうして、血を分けた双子の姉妹が戦わねばならないのか。どうして、シャムスはそれを決断したのか。エンヘドゥを救おうとこれまで共に戦ってきた緋雨には、到底納得など出来る話ではなかった。だから彼女は、再びシャムスのもとにやって来たのだ
「でも……あなたなら……あなたならきっと、彼女の心を取り戻せるはずよ……! だって、あなたたち家族はこんなにも暖かくて幸せな時を共に過ごしているんだから……!」
「どうしてそう言い切れる?」
「え……」
 悲痛で冷気を持った声が緋雨に投げかけられた。一瞬、緋雨は言葉を詰まらせてしまう。シャムスの冷気を振り払うように何とか声を絞り出そうとしたが、その前に、それを遮るかのようにシャムスが続けた。
「確かにオレとエンヘドゥは姉妹で……そこには何らかの可能性があるのかもしれない。だが、それが何になる。何の保障になる。確証もないオレのわがままで民を危険にさらすなど……考える余地もない」
「それは……」
 間違っている。心はそう叫びを伝えようとしているが、現実は許してはくれなかった。緋雨の表情が悲痛に歪み、彼女が何かを口にしようとする。だがシャムスは、それを跳ね除けるように、そしてもはや話すことはないとでも言うかのように、手綱を引っ張った。
「シャムスさんっ!?」
 走り出した馬とシャムスの背中に、慌てた緋雨の声が聞こえてきた。だが、振り返りはしない。すでにシャムスは、そう心に決めていた。
「こんなの……こんなの……お父様も、お母様も……望んでないはずよっ!!」
 最後に聞こえてきた叫びは遠く霞となった。それでも、残響はシャムスの心に残ったままだった。胸中から消えない緋雨の声に、シャムスは気づいている。
(分かっている……父も、母もこんな結末を望んでいないことは分かっている)
 唇を噛んだシャムスの表情が、鋭い牙のように前方を見据えた。遠く、まだ見えぬ先にいる敵に向けたように。
(それでも……それでもオレは……!!)
 やり場のない決心を込めた心魂の叫びは、雄々しく猛々しく、咆哮となった。