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リアクション
●33
「さてさて、こちらが『山の伝説』ザナ・ビアンカか」アトゥは優雅な仕草でソリから降り、ブーツで冷たい雪を踏んだ。「たしかに、なんとも畏敬の念に打たれるお姿だね。敬意をもって接したいと思う。しかし……奇妙な話かもしれないが、ここに見えている姿は恐らく、その正しい『在り方』ではないのさ」
「どういうこと?」と鳳明は問いながらも、心の底では既に、答を知っているような気がしていた。
「私が説明します」アリーセが、しっかりと荷造りしたバックパックを開けながら言った。「その前に巨狼さん。私は、ある人からあなたへの恋文を持ってきたのですよ。ご覧下さい」
アリーセが取り出したのは一冊のスケッチブックだった。装丁の確りした作りで、新しいものではなさそうだが、決して古びてはいなかった。アリーセはこれをぱらぱらとめくって、目的のページを開き頭上に掲げた。
「見えますか? これは、あなたを恋して止まなかったある方が描いたあなたの理想像ですよ。あなたがこのような姿であることを、その人……ハンターのイサジ老は望んでいたのです」
そのとき、狼がのそりと起き上がった。
鳳明は身構え、天樹はさりげなく彼女の前に立った。
ラルクも、万が一に備えて息を吸い込んだ。全身の骨が軋んだが、一撃くらいならなんとかなりそうだ。
一方でアトゥは両手を握っただけで立ち尽くし。ノーンはどこか悲しげな目をして、狼の顔を見上げていた。
そしてコウは、黙ったまま自分の荷物に手をかけていた。まるで雪と一体化したかのように彼女は動かずにいた。
ザナ・ビアンカはスケッチを覗いたのだった。狼からすれば豆粒のような小さな画であろうが、確認できたようで、狼は座り直した。
スケッチブックにあった絵は、老人がペンで、巨大な狼を描いたものであった。精巧なタッチで描かれたその姿は、まるでザナ・ビアンカを写真撮影したかのようにそっくりである。
アリーセは言う。
「私は村の記録をできるだけ調べました。多くの人から聞き込みもした……そしてわかったのは、これまであなたの姿を見たことがある人は誰もいないということでした。イサジ老のこの秘蔵画については詳細はわかりませんが、想像で描いたものと考えます」
アリーセは狼に大胆に歩み寄った。そして手袋を外し、素手で狼の前脚に触れてみた。狼は動じなかった。
「長い間、人目に触れる事のなかったあなたという伝説が、なぜこのタイミングで現れたのでしょうか? 私はその理由をずっと考えました。そして一つの結論に達したのです」
アリーセは断じた。
「あなたは、山です。イサジ老が愛したこの山そのものです。
老ハンターとあなたは相思相愛の関係にありました。山の精霊、あるいは大自然の意志、超越存在……正確な呼び方がどうなるかはわかりませんが、あなたは愛していたイサジ老の無残な死に衝撃を受けるあまり、生前彼が望んでいた姿を取って実体化してしまったのでしょう。
かたや人生をかけて相手を追い求めたハンター、かたや、そのハンターの死に感じて現実世界に舞い降り雪崩を起こす山……イサジさんとあなたは、両想いでらぶらぶだったのですね」
ふふ、とアリーセは微笑んだ。(「イサジさん、私の前では狩猟生活一筋でござい、という顔をしておいて、あんな綺麗な方を引っ掛けていたなんて意外とスミにおけません」)これはアリーセの偽らざる気持ちだ。
「つまり、哀しみのあまり狼に『なってしまった』ってことか。雪崩をおこしたときも、怒りを感じてはいたが、自分が何をしているかまではよくわかってなかったってのか」
ラルクが呟いたとき、再び純粋意思のようなものを彼は感じた。
「うん、って言ってるみたいに感じられたね……」ノーンは、次に待ち構えているものを予想し、寂しげに陽太にもたれかかった。「元の姿に戻りたいんだね……ざなびあんかさんは」
「元の姿に戻すといっても……?」
どうすれば、と鳳明が言ったとき、ついにコウが口を開いたのだった。
「囚人(とらわれびと)だったんだよ。ザナ・ビアンカも、イサジ老も、あるいは村も、みんな……」彼女は立ち上がり、ほどいた荷から猟銃を取り出した。古い型の銃だが、よく使い込まれておりコンディションは完璧に近い。
コウの姿は漆黒のボディースーツに包まれている。それは魔鎧レイヴン・ラプンツェル(れいぶん・らぷんつぇる)の化身だった。レイブンは、コウにだけ届く声で言った。「その銃、イサジ老の銃でしたわね……それがザナ・ビアンカを解き放つことができるのでしょうか?」
「わからない。が、できるとすれば、この銃しかない」コウは銃に弾を込めた。火薬を増し呪を刻んだ強装弾、この銃に合うように加工をほどこしている。
ザナ・ビアンカは唸りを上げて立ち上がった。彼女――狼が、混乱しているのが伝わってきた。
コウを止めるべきか、それとも認めるべきか……ラルクは戸惑った。しかし、
「お前がいては村は未来へ行けない、役目は終わったんだ……!」
コウが毅然と告げて銃を構えたとき、ラルクも意を決し、座り込んだのである。
アトゥも、アリーセも口を閉ざしこれを見守る。ノーンはやはり陽太に身を預けて震えていた。
「私は森の魔女、いま、この銃にイサジ老の魂魄が宿ったのを感じている……。ザナ・ビアンカよ、黙って撃たれろとは言わん。一対一だ。銃弾も一発きり。この銃撃、凌げばあんたの勝ち、そのときはオレを食い殺すなりなんなり好きにして狼として猛るがいい。だが、凌げなければ山としての姿にかえれ!」
山と銃は相対した。
コウはゆっくりと、狼の体の周囲を巡った。寒さは感じない。レイヴンのスキルが防衛してくれているから。しかし、胃がひっくり返りそうな緊張は感じ続けていた。(「雪の上では奴の方が速い……。挑みかかられればそれこそ一撃で敗れるだろう。それにあの巨体……強化したこの弾でも着実に当てなければ致命傷にならない……。問題は、何処を狙い撃つかだ。心臓は厚い胸筋の下だ。眼、口腔……正面に立つのは分が悪い」)
頭に、針でも突き立てられたような鋭い痛みがあった。とりわけ眼球の裏が痛んだ。しかしコウは、その痛みの中、己の行動のシミュレートを終えていた。
「ならば!」
奇策かもしれない、しかしコウはそれに賭けた。
「狙うは、ここだ!」
走り込み引き金を絞った。かちりと、指先から始まって脚の爪先まで、絶頂感のような感覚がコウの躰を奔り抜けた。
コウは狼の背後、しかも下方から銃弾を撃ち込んだ。肛門を通して心臓を狙うという軌道だった。
「逃れる術は……Nevermore(もはやない)」レイヴンが囁く声を、コウは耳にしていた。
瞬間、世界は停止した。
そして銃撃の谺が収まったとき、再び世界は動き出したのである。
狼は数歩よろめくように歩むと、ズゥン、と音を立てて横に倒れた。
この山には珍しい柔らかな風が吹き、折りからの雪が桜のように舞った。いつの間にか狼は姿を消していた。
舞い上がった雪が空に吸い込まれていく。
「本来の姿に還ったんだ……あいつは」
ラルクが言った。