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年の初めの『……』(カギカッコ)

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年の初めの『……』(カギカッコ)
年の初めの『……』(カギカッコ) 年の初めの『……』(カギカッコ)

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●聖アトラーテ病院の朝

 消毒液の匂いに満ちた病院から外に出ると、外の寒気と無性に爽やかな風が迎えてくれた。
 左腕に巻かれた包帯の白さが眩しい。
 その無垢な白さに「無茶をするな」と言われているようで、橘 恭司(たちばな・きょうじ)は苦笑する。
「なんだかんだで酷使したからな……また月夜に怒られるだろうか」
 見上げた空は原色のような青、太陽の姿もあり、全般的には気持ちの良い朝だ。
「大晦日のうちに治療は完了……。元旦にずれこんでしまったが、朝のうちに退院できるのは幸いだ」
 左腕の義手がもげてしまったのだ。仕方がない状況だったとはいえ負担をかけすぎた。しかし、なんとか再接合の手術は終わった。これ以上繰り返したらどうなるかわからない、と医者にきつく言い含められたものの、とりあえずは放免である。
 真っ直ぐ帰るのがなんとなく勿体ない気になり、恭司は病院を散策していた。短い期間とはいえ世話になった場所だ。名残惜しい気持ちもある。
「建物の構造が変わるんだな」
 ある境界を越えたところから、病院の造りが一変した。緑の庭が大きく取られ、建物はひときわ新しく、全体的にゆったりした雰囲気になる。
 しかしその一方、他の病棟にはない緊張感のようなものを恭司は敏感に感じ取っていた。
「……他の場所とは違う。どういうことだ」
 その理由はうすぼんやりとわかる気がするのだが、強いて明らかにしようという気はしない。
 偶然、見上げた窓に知った姿を見かけ、吸い込まれるようにして恭司はその病棟――精神病棟に入っていった。
 入院着の上から桃色のカーディガンをまとい、夢遊病患者のように歩く。彼女は、小山内 南(おさない・みなみ)だった。顔色は良くない。以前より痩せていた。だがもっとも特徴的なのはその目だ。暗く沈んだような色をしていた。
「調子はどうだ……少し散歩でもしないか?」
 何気ない様子で恭司は彼女に話しかけていた
「橘さん……?」
 衰弱しているのは一目瞭然だ。南は、手すりをたどりながら歩いていたのだ。
 散歩はまだ難しいか――恭司は近くの、待合用と思われるベンチへ彼女を誘った。
「この間遭った時から浮かない顔をしているがどうした」
 あまりにストレートな尋ね方だっただろうか。南は下を向いたまま、
「私……」
 と呟いただけで絶句した。
「まぁ言いたくないならそれでも構わんが辛くないか? もし何か溜め込んでいるなら吐き出すといい……聞いてやることしかできんが」
 それで気が楽になったか、南はつっかえつっかえ、自分のことを語った。
 塵殺寺院のテロリストに記憶をいじられ、自分を機晶姫『クランジΣ(シグマ)』だと思い込まされていたということ。
 洗脳の結果、少しずつ精神に変調を来し、苦しんでいたこと。
 最後には、エリザベート校長の殺害未遂を起こし、イルミンスール大図書室で追走劇を繰り広げたということ。
 事件については恭司も聞いていた。しかしその原因が南であるとは聞いていなかった。マスコミには秘していたものと思われる。
 全部話して、南はまた下を向いた。
「……軽蔑しますよね……私のこと」
「するはずがない。むしろ敬意を抱くほどだ。南は、この経験を乗り切ったのだからな。誰にでもできることではないだろう」
 穏やかに恭司は告げた。
「記憶を書き換えられ真実と虚偽が混濁し……自分が何者か判らなくなったのではないか?」
 南は言葉を使わないが、小さく頷いた。
「まだその元気がないかもしれないが。泣けるうちに泣け、叫べるうちに叫べ。『私はここにいる』とな。それがお前の存在の証明になる……少なくとも俺が証明する」
 恭司は言葉を終えると立ち上がった。意味は、南が自分で咀嚼してくれればいい。
「そうだ、コレを渡しておこう……俺の名刺だ。必要になったらいつでも呼んでくれ」
 白い名刺を渡すと、南は弾かれたように顔を上げた。
「ごめんなさい! 私……」
「どうした」
「いえ……とても、ありがたく思ってます。お言葉……。困ったら、あるいは、退院したら電話します……」
 南の謝罪には理由があった。
 ――どうして自分は、橘さんのことを忘れていたのか。
 いや、彼だけではない。自分には沢山の友達、力になってくれる人たちがいたはずなのに、『クランジΣ』になっていたときはそれを失念していた。自分は孤独で、独りぼっちだと信じて疑わなかった。
 今考えれば、あの孤独感は、クランジΘ(シータ)が催眠術でそう思い込ませただけのことだったのだろう。孤独な人間のほうが、手駒として使いやすいからだ。けれど、これほど自分を気にかけてくれた人を忘れていた自分を小山内南は許せなかった。涙が零れそうだった。
 南の表情を見てもそれ以上語らず、恭司は軽く手を振って彼女と別れた。
 二度ほど振り返った。
 そのいずれにおいても南は彼のほうを見ており、軽く頭を下げた。

 南が病室に戻ると、アルツール・ライヘンベルガー(あるつーる・らいへんべるがー)が彼女のことを待っていた。
「その後の経過を見に来た」
 アルツールは普段と変わらぬ厳粛な表情を崩さなかった。そのほうが南も気が楽だ。厳しい指導で知られる教師の彼が哀れむような目をしていたとしたら、それこそ、辛い。
「せっかくのお正月だからね。持ち込みの許可は得ているわ」
 と、エヴァ・ブラッケ(えう゛ぁ・ぶらっけ)が出してくれたのは重箱に入ったお節料理だった。
「新年最初の食事だ。病院食で過ごすのはあまりに味気ないだろう」
 アルツールはいいながら重箱をくるんでいた布を解き、さらに何か取り出した。
「茄子……?」
「そう、ビッグなすびだ。初夢に見るといいと思ってな」
 にこりともせずアルツールは言うのだが、これは彼なりのユーモア表現であった。これでいくらか、南の表情が柔らいだ。
「おお、少し良い表情になったな。そうでなければ」
 と告げるのはソロモン著 『レメゲトン』(そろもんちょ・れめげとん)だった。
「そろそろ、よろしいかね?」
 そのとき咳払いして、一人の紳士が現れたのであった。南は彼とは面識がない。
「あ、ワシは、アルツール君に頼まれて、たまに南君に勉強を教えに来ることになった司馬仲達だ」
 と、まず司馬懿 仲達(しばい・ちゅうたつ)は名乗り一礼した。
「好きなものは戦略。嫌いな者というか人物は曹操。かつて、退却にあたってヤケクソな突撃をしてきた敵軍が気の毒になり、またその捨て鉢加減が危険な気がしたので逃がすため一応退いてやったら、なぜか後世にはこちらがコケ脅しの木像を見てびっくり仰天して逃げたという話に脚色されて伝わっていたで御座る……という屈辱的な話もあるが……おっと何の話だったかな。初対面でここまで話すとちとくどいか」
「くどいとわかっておるなら話すな、そこまで」
 レメゲトンが一言指摘するも仲達はそ知らぬ顔だ。大物である。
 飄々たる仲達を見てもさして気にした様子もなく、アルツールは南に向き直った。
「今日、司馬先生に来てもらったのには理由がある。聞いてほしい」
 おせちを食べながらアルツールは語った。「論理学的な事を勉強したりしてみたらどうか」と。
「南君。君は、魔術師とは何か知っているかね」
「改めて問われると難しいのですが……。魔術を使う人、ですか?」
「悪くはないが、少し、簡単すぎる定義かもしれないな。私の考えを話そう。
 宮廷魔術師や占星術師などの例を見るまでもなく、魔術師とは本来、世界の理を理解し、その過程で得た智慧と力で人々の助けとなる知的職業だ。
 ゆえに魔術師の役割とは本来、一歩引いた立場で、自分も含めて物事を客観的に見て周りに知恵を貸すことと言っていい」
 しかし、と告げてアルツールはやや肩を落とした。
「最近は魔術という必殺技を憶えられる職業程度にしか考えてくれないせいか、そうした事は忘れられがちでね……。
 想いやら何やらを否定する気は無いが、それでももう少し、生徒達がそういった事を心に留め置いてくれたなら、南君が危うく死にそうな目に遭うこともなかったはずなのだが。
 南君にしても、たとえば、君にかけられた暗示は生身の体ゆえに簡単に齟齬が生じる内容だった」
 さすが現職の教師だけあって、筋の通った説明である。またその語り口も、決して押しつけがましいものではないが、聞く者をして納得せしめる説得力を有していた。
「そこで、だ」
 と、南の目を真っ直ぐにみて彼は述べた。
「心の傷の回復などは一朝一夕にできるわけもない。だが、君は頭では自分が小山内南だと理解しているのだろう? なら、ベッドの上で時間がある今のうちに沢山勉強して知恵と知識を身につけ、クランジΣ(シグマ)の精神を徹底的にねじ伏せられるくらいの論理的思考を養ってみてはどうかな。
 ちなみに、先生たちもそう頻繁に来られる訳でもないから知り合いの司馬先生にも、君の相手をしてもらえるよう頼んである。勉強に集中している間は、ネガティブな事を考えずに済むから気も紛れるだろう。学校の勉強も、君が望めば可能な限りできるよう取り計らおう。この時間を有効利用して、今は勉学に励むのも良いと思うぞ?」
 うんうんと頷いて司馬仲達が言葉を引き継いだ。
「そういうワケなので、ワシが教えるのも魔術関係じゃなくて、論理的に物事を考えるための勉強とかだがね。論理を学ぶ上では詭弁や詐術の勉強も必要になる。なかなか面白いと思う。
 ……と、言っても、本人にその気が無いのに難しい書物とか読み漁っても捗らないし、ワシもその筋の専門の学者ってわけでもないのでな」
 ずしんとテーブルに黒い手提げ鞄を出してくる。いや、それは鞄ではなく麻雀牌のセットであった。
「そ・こ・で、暫くはこの麻雀とかのゲームを楽しくおしゃべりでもしながら遊んで、論理的な思考を養おうってわけだ……フッフッフ。正統の打ち筋ちあり、三味線(※)あり、詐術すなわちイカサマあり、大変楽しい学習になるだろう」
 ざわ…ざわ…、と変な効果音がしているが気にしなくていい。
「麻雀の上に『脱衣』とか言葉をつけたら……かち割りますよ?」
 にっこりと笑顔を浮かべつつそんな発言で司馬を黙らせ、エヴァは述べた。
「まあそれが教育的にどうかという気はするし、アルツール先生の言うように論理力をつけることに限らなくてもいいとは思うけど、何か集中できることを見つけなさい。これが私のアドバイス。
 辛いときに何もしていないと、どうしても余計なことを考えてネガティブな方へ頭が向いてしまうから」
 昆布巻きを小皿に取って、エヴァはかく言うのであった。
「あとは……そうね、周りに『わがまま』を言ってみなさい。私たちは貴女の親でもなんでもないけれど、少なくとも生徒を思う教員ではあるつもりよ。この際、自分は入院しているんだから許される、くらいに開き直ってみてもいいんじゃないかしら」
「そうは言われても……?」
「でも自分を変えたいのなら、まずはこういったことから始めたらどう?」
 南の顔が薄く桃色になった。
「で、でしたら……」
 彼女は恐る恐る言ったのである。
麻雀のルール、教えて下さい
「あ……! これは司馬仲達、一生の不覚であった!」
「大げさであろう。ならせっかくだからここで教えようではないか?」
 レメゲトンが半月型の目をして指摘する。司馬仲達の発言には、ついツッコみたくなってしまうものらしい。
「しかし案外、麻雀はルールが難しいものでな、一朝一夕には……」
「まあ、チキンランから生還したばかりのルール知らない少年がいきなり代打ちして勝ってしまったりすることもあるというから、なんとかなるのでは?」
「いや、それは……特殊な例なので……」
 ざわ…ざわ…。
 かくて新年早々ではあるが、麻雀講義が行われることになったのだった。
 アルツールとエヴァ、レメゲトンが参加。南にルール説明しつつ指導するのは仲達の役である。
 手を動かしながらだと話しやすい。レメトゲンは牌を切りながら、正面の席の南に言った。
「我の忠言だが……まあ聞け。
 心を強く持つ、とか考えるのではないぞ? それは無駄もいいところだ。貴公の様な若輩がいくら力んだところで、そう簡単に強くなれるわけもない。心の強さというのはな、培った経験や知識などちゃんと裏打ちされたものがあってこそ成立するのだ。
 妙な思い込みで心を強く持ったつもりになってもな、行き着く先は貴公を討とうとした輩と大してかわらん。今は悩むよりも、知恵と知識の研鑽にでも勤しむがいい」
 南は少し、ほっとしたようだった。強くあれ、と言われるよりも、今は「強くなくてもいい」と言われるほうが楽な心境なのだろう。
「そう思っておきます」
 殊勝な答が返ってきたのを見て、レメゲトンはややイタズラっぽく言い加えた。
「ああ、当てがあるなら別に色恋とかに勤しんでも構わんのだぞ?
 要は『それはそれ、これはこれ』と悩みや苦しみとか面倒事を脇におくことができるかどうかよ。そう、その果てこそが今のこの我! まだ二巡目だが来た来た!」
 カッ、と、リーチ棒を繰り出してレメトゲンは呵々大笑した。
「人生楽しくて実に良いぞ!」
 びく、とエヴァは身をすくめ、仲達は苦り切った表情となり、そしてアルツールは、まるで顔色を変えず平然としていた。
 この勝負、どんな結果になったかはご想像にお任せする。

三味線――言葉によるブラフ。紛らわしい発言をして相手を惑わすこと。麻雀関係の俗語。