校長室
年の初めの『……』(カギカッコ)
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●ポートシャングリラの夢 ここは空京屈指の巨大ショッピングモール、その名も『ポートシャングリラ』である。 ファッション、家電、食料品も玩具も、その他趣味のものであろうが日用品であろうが、恐ろしほどの店舗と品数を揃えたこの場所には、平日であろうと多くの人が集まり、土日ともなるとその数が倍増する。 それが元旦初売り、そしてバーゲン開催ともなればどうなるか。 ……大変なことになる。ええ、とっても。 よくもこれだけ、と感心するほどの人出だ。場所が広大ゆえ密度はそれなりだが、どの店に行っても存分に人がいる。あらゆるものが飛ぶように売れ、とりわけ福袋の売れ行きは爆発的だ。行き交う人はいずれも荷物が多い。一体今日一日でこの場所は、どれだけの売り上げがあるのだろうか。 「さすが初売り……ですわね」 冬山 小夜子(ふゆやま・さよこ)がこの地を訪れるのは初めてではない。昨年の年末年始シーズンは、VIP待遇で楽しんだものだ。愉しんだのは買い物だけではなかった。 (「あの時はいろいろあったなぁ」) 思い出すだけで、甘い吐息が洩れてしまった。肌が汗ばむようである。 あの夜の熱さを、小夜子の頭ではなく躰が思い出している。恥ずかしさと、それを上回る悦びに悶えるようであった。頬がじわじわと桜色に変化していく。 されど今日、小夜子は独りだ。それを思うと一抹の寂しさは拭えない。 (「……本当は親しい人と一緒に来たかったのですけどね」) 知人や友人は誰も都合がつかなかった。せめて、彼らのため何か買って帰るとしようか。 (「これだけ沢山の人がいるんですもの。誰か知っている方でも……」) 「っと、あの顔……」 まさか小夜子の願いが通じたか。 颯爽と歩く少女の姿が目に入った。 真っ直ぐ切り揃えられた緋色の前髪、魅力的な大きな瞳、格闘家らしからぬ細腕と、いかにも格闘家という姿勢の良さが共存している。 「イングリットさん」 それにしても惚れ惚れする姿ではないか。彼女の姿は。 小夜子が声をかけると、イングリット・ネルソン(いんぐりっと・ねるそん)は足を止めた。 「あなたは……冬山さん」 事情があったとはいえ、小夜子とイングリットは拳を交えた間柄だ。しかし格闘家らしくさっぱりしているイングリットは、そうした事情にこだわることなく彼女に呼びかけた。 「お買い物ですか?」 「ええ、買い物です。あの……イングリットさんも?」 「せっかくですから、服でも見ようかと思って。スカートの丈が若干短いワンピースで、良いものがないかと探しているんです」 なるほど、格闘に適した服ということだろう。 「あのときは、お世話になりました」 猫のように身を寄せ、小夜子はイングリットに述べた。 香水だろうか? イングリットはいい香りがした。甘い、恍惚となってしまいような香り。 「こちらこそ……ご迷惑をかけたかと思います」 「いえ、いいんです。過去の話がしたかったのではなくて、今日はもしよければ、ご一緒できないかと」 「買い物に?」 「そうです」 いつの間にか小夜子は、さらにイングリットとの距離を縮めている。彼女の匂いをもっと近くで嗅ぎたかった。 いいですね、とイングリットは言った。 「わたくし、独りで服を買うことが多いものですから、どうしても似たデザインのものばかりになってしまって……他の人のアドバイスもほしかったところです」 「さっ、色々買いに行きましょうか。初売りですし色々あるでしょうから」 意気投合して二人は歩き出す。隣を歩くと、あの甘い香りが一段と強まった。いますぐしなだれかかって彼女を組み伏せ、髪といわず首すじといわず、あるいは鎖骨のあたり、あるいはその下の膨らみ……イングリットのあらゆる場所を調べ、香りの出所を吸い込みたいような気持ちに小夜子はなっている。すごく淫らな気持ちだ。興奮していることに気づかれなければいいが。 意外なことに、カミングアウトしたのはイングリットのほうだった。 「血が昂ぶりますね」 濡れたような目で彼女は言ったのである。 「あなた……小夜子さんといると、あの日の記憶が蘇るようで」 ああ――と小夜子は理解した。仮面をつけたイングリットと小夜子が殴り合った、あの日のことを言っているのだ。とすればこれは、格闘家としての昂ぶりがもたらす甘美な香りということか。イングリットのアドレナリンの匂いなのか。 すると小夜子は、じらすように舌を出し、イングリットの耳朶を噛むようにして囁いた。 「さすがに今日は無理ですが、いずれ、また手合わせ願いたいものですね。そのときが楽しみですわ」 「ええ、本当に」 うっとりしたように小夜子が言う。 小夜子は上気した目で、あらためてイングリットを見た。 格闘という男っぽいものが、自分の女らしさ、色っぽさを極限まで高めるということに、この子は気づいているのだろうか……? いずれ教えたいものだ。その躰に。 イングリットが持ちあげた服を、レイカ・スオウ(れいか・すおう)も同時につかんでいた。 「あっ、失礼しました」 「いえこちらこそ」 ぱっと二人、手を話してしまったのでワゴン内に服が落ちる。フリル付きの黒いワンピース、丈が短いのはあまりこの季節向きとはいえないが、それだけに印象的でもあった。レイカにはぴったりといえよう、イングリットには、少々大人っぽいデザインかもしれない。 お嬢様として育てられた二人ゆえにこういう場合、譲り合い合戦へと発展するのであった。 「どうぞどうぞ、ご覧になって下さいまし」 「いいえ、そちらこそ……ええと、あの、失礼ですがどこかでお見かけしたような?」 イングリットはそれなりに有名人なので、見たことがある気がしてもおかしくはない。 畏まったようにイングリットは自己紹介した。 「百合園女学院のイングリット・ネルソンと申します。何かでご一緒したことがあるかもしれませんね。あなたは?」 「ええっと、イルミンスール魔法学校のレイカ・スオウです。今日は初めてポートシャングリラに来て……」 「レイカ、この店は女物の服しかなくて目のやり場に困る。そろそろ……」 そこに、精悍な容貌の青年が来た。袴に着物、腰には大小を下げている。一見、無愛想に見えるが、レイカを見つめる目には柔和なものがあった。彼は侍、カガミ・ツヅリ(かがみ・つづり)、レイカのパートナーだ。 「そちらのご婦人は?」 「服のことで知り合った方です。イングリット・ネルソンさん」 「オレはカガミ・ツヅリだ。うちのレイカが迷惑をかけたようで……」 侍は、軽く一礼した。 「迷惑なんかかけてないってば。話してただけなんだって−」 イングリットは二人のやりとりを見て、邪魔してはダメだと思ったらしい。 なぜって、カガミに怒ったふりをするレイカは、嬉しさと気恥ずかしさの入り交じったような顔をしているし、 一方で真面目な表情を崩さぬカガミは、ほんの少し、からかうような表情を見せていたから。 (「こういうのを、ごちそうさま、と言うんでしたっけ? 男女のことは難しいものです……」) イングリットは微笑して、「それではまたいずれ、ごきげんよう」とそこから離れ小夜子を探した。小夜子は試着室に入ったはずだ。 それを見送りカガミはレイカに向き直る。 「それで、服は買わないのか?」 「買うことは買うけど、今すぐこの店で、って感じじゃないかな?」 「そうか、また別の店に行くのか」 「女の子の買い物ってそういうものよ」 難しいな、という顔をして、カガミはレイカについて店を出る。 「実際、本当に買う必要があるものと言ったら生活必需品をいくつかしかくらいしかないけど」 「それなのに服の店を回ったりするのか……つくづく女の買い物というのはよくわからない、な……」 「退屈?」 「いや、レイカが楽しいのなら、オレも楽しい。実際、これまで女の買い物に付き合ったことはなかったから新鮮というのもある」 平然と言う彼であるが、「レイカが楽しいのなら、オレも楽しい」なんて、レイカを幸福にする言葉を無造作に告げてくれている。 (「これって、デートだよね……」) 来て良かったとレイカは思う。生活必需品を買うだけならただ近所のスーパーへ行けばいい、この場所を選んだのは、彼とのデートを過ごしたかったから。そう、買い物よりは、 (「……デートのほうが本命、かな……」) なんて考えたりして体温が上がって、なんだか頬が染まってしまうレイカなのである。 手を繋いで歩きたいくらいだが、カガミが恥ずかしがるだろうからやめておこう。 カガミも、レイカと歩くのはいい気分だった。彼女は恋人、『恋人』という言葉は、いまでもまだ照れくさいけれど、『一緒にいて心和む相手』という意味では最高の相手だ。 ふと、彼の目が呉服店に止まった。男女着物の専門店だ。 (「なにか買って贈ろうと思っていたが、レイカの持っていない柄の和服を見ていくのもいい、な……」) カガミは考える。 (「……もしかしたら白無垢まで置いている店があるかもな」) そして想像した――――いつの日か将来、白無垢を着て立つレイカの姿を。すっくと立って唇に紅を差し、彼が手を取るのを待っている彼女を。 ここで、はっとなってカガミは首を振ったのである。 (「……なにを考えてるんだ、オレは。恋人ではあるが、『まだ』婚約者でも何でもない。そもそも、レイカがそこまで望んでいるかもわからん」) その迷いまで察知したわけではないが、レイカは彼の眼が呉服店に向いているのに気づいた。 「見たいの? 和服の店?」 ああ、とも、違う、とも即答できず、カガミは、 「…………まぁ、見てみたいとは思う」 と、ぎこちない回答を返した。