校長室
年の初めの『……』(カギカッコ)
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●Shape Of My Heart いくら窓が大きく、開放的であろうと。 いくら展望が良かろうと。 ここ空京ロイヤルホテル最上階が、密室状態であることに変わりはない。 床面積はもちろんとんでもなく広いが、参加客もとんでもなく多いわけなので、人酔いしがちな高峰 結和(たかみね・ゆうわ)にとっては、やはり厳しい環境なのだ。 実際、来て何十分か経つ頃にはもう具合が悪くなり、時計の針がそこからさらに進むと、もはや陸に打ち上げられた魚のような状態なのだった。 「……もうダメ。ちょっと、休まないと……」 高級食材の香りは、健康なときならば空腹を刺激するものだろうが、こういうコンディションのときはきつい。結和はふらふらと、壁際の席を目指して歩んだ。 しかし、なんだか席が遠くなってきたような。いや、歩めば歩むほど遠ざかるような……。 「結和ちゃん、大丈夫か!?」 そんな彼女の腕を、さっと占卜大全 風水から珈琲占いまで(せんぼくたいぜん・ふうすいからこーひーうらないまで)が取ってくれた。 「なんか、前に進もうと両手を伸ばしながら後退するっていう不思議な歩き方してたぞ」 「え?」 それを聞いて誤魔化すように、照れ笑いとともに結和は述べた。 「だいじょうぶ、ですー……へへへ、ちょっと、お休みだからって、だれちゃってたかもですね」 「いや、あまり大丈夫じゃないと思うぞ。……ったく、チカはともかくエリーはどこ行ったんだ?」 「あー、さっきまで一緒だったんですが、ヒレのフカスープが出るとかで、いそいそと取りに行きました−」 「それを言うなら『フカのヒレ』だろ。食い意地優先させやがって……エリーも来たがったんならもっと気遣えってな」 占卜の声に苛立たしげな色が混じっていた。それは、人の多さからつい結和を見失ってしまった自分への腹立ちから来るものだった。 座って落ち着いたのか、あるいは、占卜が大急ぎで取って戻ってきたミネラルウォーターが人酔い覚ましになったか、結和はしっかりした口調で否定した。 「あ、えっと、違うんです……今日は私が、行こうってエメリヤンに言ったので。皆も……魔道書さんも誘って行こうって」 「結和ちゃんが……そうか」 「それに、この前のタシガン旅行でもてなしてくれた魔道書さんへのお礼になれば、というか、やっぱり、パラミタじゃなかなかトルコ料理って食べられなかったので。ここならあるかも、って思ったんですけど正解でした」 結和の言う通りだった。驚くほど種類のある今日の料理では、ドネルケバブやキョフテ(トルコ風ハンバーグ)、あるいはラク酒など、現代風それも無国籍風にアレンジが入ってはいるものの、占卜にとっては懐かしい料理・食べ物を見つけることができた。 「魔道書さんって、トルコ語で記された書籍なわけでしょ。……余計なお世話だったかもしれないけれど、喜んでもらいたくて……」 その一言は、占卜の胸を締めつけた。これ以上ないほどに。 「ダメだ……俺、もう抑えられそうにない」 「え、どうかしました?」 占卜は真剣な表情をしていた。覚悟を決めた人しか見せない目をしていた。 「大切なことを言うから、黙って聞いてほしい。逃げたり、茶化したりはやめてくれ。頼む」 「……はい」 そう言うほかなかった。結和は小さく息を吸って、彼の言葉に備えた。 「結和ちゃん、俺はさ……君が好きだよ」 小さなナイフが胸に突き刺さったかのように結和は感じた。 占卜は続ける。 「契約相手としてじゃなくて……逆。好きだから、運命だって思ったから、結和ちゃんと契約したんだ」 そもそもが、『彼』の姿をとったのも彼女が理由だった。 イルミンの禁書房で初めて結和を見かけたとき、添い遂げたいと思ったからこそ、この姿を選んだのだ。 占卜は口を閉ざした。 言うべきことは言った。 判決を待つ被告の心境だ。 実際はとても短いが、彼にとってはひどく長い沈黙が終わった。 「……ご。ごめんな、さい」 結和は下を向いていた。まっすぐ目を見て話したい。話すべきだとわかってはいる。 けれどできなかった。傷ついた彼を見るのが辛かった。 つっかえつっかえ、それこそ、先ほどの結和の歩みではないが、行きつ戻りつしながらも、結和は占卜に胸の内を明かした。 自分には、好きな人がいるということ。きっと誰より、大切な人が。 見かけるだけで、お話しするだけで、隣にいるだけで、関わることひとつひとつ、すべてが幸せだと思えるような……そんな人は、その人だけということ。 要点だけならこれだけだ。 けれど自分の魂を切り裂かれるように、辛い、辛い告白となった。 「ごめんなさい……。でも、魔道書さん……占卜大全さん、あなたは、私にとっては、大切なお友達で、大事な、パートナー、なんです」 この言葉で締めくくったとき、両眼から涙があふれ始めた。自分が苦しむのはいい。けれどいま、自分が、かけがえのないパートナーを傷つけていると知っているだけに耐えられなかった。 占卜は改めて確認していた――そんな結和だから、自分は彼女が好きなのだと。 卑屈になるな、結和ちゃんを困らせるな、そう己に言いきかせ、彼はそっと言葉を紡いだ。 「うん。断られちゃったな。仕方ないさ。一方的に気持ちを押しつけるわけにはいかないから。 それでも大切なたった一人は、やっぱり結和ちゃんだ。 でも想いを口にするのはこれで最後にしよう……もう結和ちゃんの重荷になるようなことは言わない」 飲み物を取ってくる、と、なるだけ明るい口調で告げて、占卜は席を立った。 胸に風穴が開いたような気分だ。けれど、最悪な気分じゃない。後悔はしていない。 正面から来る誰かにぶつかりそうになって、泡を食って占卜は足を止めた。 「………………」 それは、エメリヤン・ロッソー(えめりやん・ろっそー)だった。両手で、大きなスープ皿を抱えている。 そして、アヴドーチカ・ハイドランジア(あう゛どーちか・はいどらんじあ)もその隣にいた。 ポン、とアヴドーチカは手でエメリヤンの肘に触れた。 「お前さんは、彼女のところに行ってやりな」 エメリヤンは飛ぶようにして結和のところへ向かった。最初、エメリヤンは占卜(エメリヤン流に言うと『占ト(と)』)が彼女になにかイタズラでもして困らせたのかと思った。しかし彼女が泣き出すに至って、どうしたものかとオロオロしていたのである。かすかに洩れた言葉しか聞いていない。けれど、事情は大体察した。 「…………(結和……姉さん。僕がついてるよ。元気を出すんだ)」 そのまま抱きかかえるようにして、エメリヤンは結和をなぐさめている。言葉は使わぬまでも、動きとスキンシップ、それに顔全体で『心配』と言っていた。 さてその一方で、エメリヤンは悪びれた様子もなく占卜に告げた。 「悪い。うっかり目撃して、こっそり見守ってた」 「ああそりゃ結構……楽しかったか、チカ?」 苦り切った表情で占卜はにらむも、アヴドーチカは軽く受け流すように首を振った。 「別に。ただ、厄介だと思っただけでね。また病人を見てしまって」 「病人ってなどういうことだ」 「恋の病というやつだよ……難儀なもんだ」 「……んだよ訳知り顔しやがって。これが病気として、テメェなら、治せるとでも言うのかよ」 すると、驚いたような顔をしてアヴドーチカは言うのだった。 「当たり前だろう、馬鹿だねぇ。この私の治療法に、治せないものなんてないさ。お前さんのそれだって例外じゃない」 だけど、と、指先を占卜の左胸につきつけ彼女は続ける。 「それを望むのかというとそうじゃないだろう?」 「ああ」 占卜は目を逸らした。悔しいが、アヴドーチカの言う通りだ。 ふっとアヴドーチカは優しい目をした。占卜が目を逸らしたままだったのは幸いなのか、不幸なのか。 なぜならこのような目を、アヴドーチカが彼に見せるのは初めてだったからだ。 「……どうしても、辛さに耐えられなくなったのなら、その時は言えばいいさ。私が忘れさせてあげる」 「できれば世話になりたかねぇモンだ」 精一杯の強がりでそれだけ告げ、ふたたび占卜は彼女を見た。 普段通りの、あの尊大で飄然として、我関せずと言いたげな顔をしたアヴドーチカがそこにいた。 「さて、湿気払いにスープでも飲むか? 極上のヒレのフカスープが入ったばかりだ」 「……チカ、それ面白いと思って言ってるのか? それともマジボケなのか?」 憎まれ口叩きつつ、占卜は彼女に引っ張られるようにして中華のコーナーへ向かうのだった。