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 第25章 アシュリング家の1日

 空が白んできて、朝を告げる鶏の声や小鳥の声、人々の生活音が静寂の中に混じりだす。緊張という言葉からはほど遠い、良い意味で弛緩した空気が街全体を包み込む中――
 音井 正行西宮 幽綺子(にしみや・ゆきこ)は、博季・アシュリング(ひろき・あしゅりんぐ)リンネ・アシュリング(りんね・あしゅりんぐ)の家に侵入していた。幽綺子が合鍵を預かっている為、実にスムーズに事は運ぶ。
(お義兄様、相変わらずプログラミングの腕前は天才的ねぇ……)
 博季の義兄である正行とその父は、ロボット工学の権威だ。今回、正行はその知識のごく一部を使ってあっさりと覗き用プログラムを作っていた。覗きたいところにカメラと盗聴器を設置すれば、後はどこからでもパソコンで様子が確認できる。
(よし、これでオッケーね)
 手分けして各機器をこっそりと取り付け、2人は寝室で眠る博季とリンネを直接、そっと覗いた。見事に寄り添いあって眠っている。一瞬顔に落書きをしたくなったがそれはぎりぎり思い留まり、正行と幽綺子は外に出た。
「あの子が博季のお嫁さんかあ。奥手だと思ってたけど、なかなかやるね」
 庭にある植え込みの裏に陣取り、パソコンを開きながら正行は言う。博季は、「結婚した」という報告をしてきた顔を見せに来ていなかった。前々から、どんな子か気になっていたのだ。それに、いつも畏まっていた博季がどんな生活をしているのかも。
「奥手……?」
 正行の言葉に、幽綺子は小さく首を傾げて「ああ」と言う。リンネと出会う前の博季は、確かに奥手だった気がする。恋愛の経験も知識も殆どなかった。何だか少し、懐かしい。
「それにしても綺麗なお庭よねぇ。あの2人らしいわ」
 庭をゆっくりと眺める。下宿に居た頃も、博季は庭の手入れが好きだった。
「本当、仲良しで羨ましいわ」
 それから、幽綺子は双眼鏡を構えてみる。肉眼では小さくしか見えない場所も、間近にあるように感じた。

 そして朝6時、博季は起床した。同じベッドの中では、リンネがまだすやすやと寝息を立てている。その寝顔を見て自然と笑みを浮かべ、彼女を起こさないようにこっそりとベッドから出て着替えると、博季は廊下に出て洗濯機を稼動させた。それから、キッチンでチーズ入りオムレツを作り始める。
 リンネの朝が始まるのは、その30分後。
「リンネさん、おはようございます」
 そう声を掛けて、柔らかな頬に優しくキスをする。すると、リンネは「……うにゃ?」と薄く目を開いた。
「……博季くん」
「朝ごはんが出来たよ。一緒に食べましょう」
 お互いの顔がくっつくほどの距離から、博季は言う。これだけ接近していてそれで終わるわけもなく、2人はそのままキスをした。
 食卓に向かい合い、ケチャップでハートマークを描いたオムレツとトースト、野菜サラダを食べる。ほのぼのとした夫婦の朝食風景だが――

   「あの子、キスを2回もしたわよ」
   「あーんも2回だね。あと、『可愛い』と『好き』を4回ずつ言ってる」
   「……数えたの!?」

 庭ではこんな会話が成されていた。
 その間に食事は終わり、2人は仲睦まじく食器洗いを始める。ちなみに、洗い終わるまでに博季は「好き」を3回言ってキスを2回した。
 食器を洗い終わると、2人は別々に動き出した。リンネは洗濯物を干して、博季は家の掃除を始める。だがそれも束の間。すれ違う度にコミュニケーションしていた2人は、最後には一緒に掃除をしていた。家事の間に、たまに戯れ合っている。
「あ、8時過ぎてるね。水やりしよっか!」
 外に出て、庭の草木に水をあげる。幽綺子達はこちらにも来るのではとひやひやしたが、幸いにも植え込みは対象外だったらしい。博季達はお互いに離れる気配無く水やりを終え、走りこみや魔術の訓練を始めた。しばらく体を動かし、休憩にと紅茶を淹れる。
「うん、やっぱり博季くんの淹れてくれた紅茶はカクベツだね!」
 庭のガーデンテーブルで、2人は紅茶を飲みながら会話に華を咲かせる。運動した後だからかまだ太陽が照っている時間だからか、この季節でもあまり寒くない。
「運動した後のリンネさんもまた可愛いね」
 そんな他愛無い話をするうちに、午前中の時間は過ぎていく。
(今日も平和。幸せだなぁ……。リンネさんと一緒だもん、幸せじゃないわけないよね。この幸せを、護っていこう)
 博季はこの穏やかなひとときに愛しさを感じながらリンネに言葉を紡いでいく。

   「……それにしても、何かにつけて『好き』って言い過ぎじゃないのあの子?」
   「正しくは『好き』3回、『可愛い』4回だね」
   「また数えてたの!?」

 隠れている幽綺子と正行は、こそこそと草葉の陰で会話する。だが、幽綺子の「!?」がいけなかったのか、博季は「……ん?」と植え込みに目を遣った。濃緑色の葉の上から、黒髪とピンク髪が覗いている。
(あれ……義兄さんと幽綺子さん……? もしかして……)
 のぞきである。あの感じは紛れもないのぞきである。
「ん? どうしたの? 博季くん」
「……いえ。そろそろ家の中に入ろうか」
 時計を見ると時刻は11時。博季は昼食作りを始める。
(リンネさん、義兄さんとも仲良くしてくれるかな。義兄さんはああいう人だから、誰でも大丈夫だと思うけど)
 そんな事を考えながら、アサリ、イカ、エビ、マッシュルームを野菜入りのケチャップライスと混ぜてふわふわのオムレツを上に乗せ、真ん中から割った後にキノコのホワイトソースをかける。同時に、オーブンではデザートの焼き上がりを知らせる音が聞こえた。
「リンネさん、お昼ごはんができたよ。外の2人もお誘いして、4人でいただきましょう」
「うん! って……4人?」

 4人分の創作料理、シーフードオムライス(きのこのホワイトソース仕立て)をそれぞれの前に置いて中央に野菜サラダを用意する。
「義兄さん、彼女が僕のお嫁さんのリンネさんだよ」
「リンネ・アシュリングだよっ! よろしくね!」
 リンネは、明るい笑顔で挨拶する。博季の義兄であるという正行に、そして、伊達眼鏡をかけた極真面目そうな雰囲気の彼に特に抵抗は無いようだ。正行は36歳になるが、童顔の為か実際よりも随分と若く見える。
「でも、覗きはダメだよっ! リンネちゃんびっくりしたよ!」
「ごめんなさいね。でも、私達に気付くなんて……博季も成長したわね」
 幽綺子はぷんぷん、と怒り顔を作るリンネに一応謝ってから、冗談めいた口調で言う。正行は博季達に苦笑を浮かべた。
「まあ、最初から、最後に顔ぐらいは見せようと思ってたんだよ。お嫁さんにも挨拶したかったしね」
「で、いつから覗いてたのさ……」
 オムライスを食べながら、博季は上目遣いに正行達を見る。
「昨晩からとか言わないよね……? 昨晩からだとええと非常に不味い……」
「早朝からだよ」
「あ、そうなの? ならよかった……」
「何が良かったの? 博季」
「あ、うん、こっちの話」
 どこかからかうように言う幽綺子に、博季はそう言葉を濁す。寝室も見られていたようだし、夜からだと夫婦として、顔を真っ赤にしていたところだ。
「で、甥の誕生はまだなのか?」
「に、義兄さん!」
「ははは、冗談だよ」
 考えていたことがことだっただけに、博季は結局顔を真っ赤にした。それから食事は進み、デザートの自作チーズケーキを食べてお茶を飲み、博季は正行に改めて笑いかける。
「僕はさ、こんな素敵なお嫁さんを頂いて、本当に幸せだから。心配しなくていいよ、義兄さん。義父さんにも宜しく」
「……そうみたいだね」
 覗いていたのは半日ほどだったが、それは正行にも分かった。昔と変わっていないところも多いが、博季は確かに変わったようだった。穏やかに幸せに、そして前よりも自信を持って生きている。
「……リンネさんは、僕の『憧れ』なんですよ。頑張り屋さんで、いつでも明るくて、人を惹きつけられる人。
 ……愛してます。リンネさん」
「もう〜、ほめすぎだよ、博季くん」
 照れ照れになりながらも、リンネは幸せそうに、そして美味しそうにチーズケーキを頬張った。