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 第32章 チェックメイトは誰の手に

 家の中に呼び鈴が響いたのは、夕方になってからだった。
「マスター、ようこそいらっしゃいました」
 沢渡 隆寛(さわたり・りゅうかん)は、買い物袋をいっぱい持った沢渡 真言(さわたり・まこと)と、真言の母、沢渡 史織を迎え入れる。ここは、マーリン・アンブロジウス(まーりん・あんぶろじうす)の助力も受けて購入した隆寛個人の一軒家である。今日、史織が空京に来ることは事前に聞いていた。2泊3日の予定で、初日は空京のデパートやショッピングモールを始め、様々な施設を巡る、と。遅くなるから、夜は泊めてほしいと頼まれていたのだ。
『1人でなんて珍しいですけど、せっかく会いにきてくれたんだからしっかりと観光してもらいたいですよね。色々と話もしたいですし』
 今回の件を報せる際、真言は隆寛にそう言っていた。この様子だと、楽しい1日を過ごせたようだ。
「…………」
 一方、マーリンは2階の階段上から玄関先の3人を見下ろしていた。呼び鈴を聞いて、誰が来たのかと見に来たのだが。
(史織が来てるのか……)
 彼は史織が苦手だった。セミロングの髪にゆるいパーマをかけた彼女は、髪型以外は真言の未来予想図的に、娘によく似ている。だから、容姿に限定すれば好みとも言えるのだが如何せん、元気はつらつなその性格が苦手だった。直接会って話したことはないが、マーリンは真言と契約する前から幽体として彼女の傍にいた。その為、史織の馴れ初めも一方的によく知っている。
 元々お嬢様だった史織は知識欲が激しく、海外で飛び級卒業したほどだ。だが、そんな才能は両親や兄弟姉妹に快く思われず、彼等からは異端児扱いされていた。どこかに嫁がせる為に、と両親は躍起になっていて、史織が真言の父親と出逢ったのはその折の事だった。彼女は彼の家に家出同然に押し掛け、そして、今に至っている。
 ――もっとも、マーリンはこれを誰かに言ったことはない。
「では、お部屋にご案内いたします。2階へどうぞ」
 3人がこちらに足を向けるのを見て、マーリンは早足で自室へ引き上げる。
 ――あまり会わないように、部屋に引きこもっていよう。
 といっても、夕食の時間には顔を出してしまうのだが。

 隆寛は、真言の母と今年の初め頃に義姉弟になった。彼の名前の一部は真言の父親から取っているのだが、里帰りに同行した時に『じゃああなた、義弟ってことでいいんじゃない?』と史織に言われたのだ。英霊という立場上年齢はともかく、外見的に隆寛の方が年下だから、と弟と決まった。
 何か軽いノリの中での決定だった気もするが、史織は一応義姉にあたる。丁重にもてなそうと思うが、どういう形でその気持ちを表せばいいのか。隆寛は考え、真言が作るという料理の手伝いをすることにした。
「今回はね、ユーリちゃんと、ユーリちゃん以外の真言のパートナー達を見に来たの。真言は、この間里帰りしてくれたしね」
 同じ屋根の下に居る4人がひとつの部屋に集まって食事をする。ユーリちゃん――ユーリエンテと隆寛以外のパートナーに、史織は今日まで会ったことがなかった。現在進行形で今、彼女の中でマーリンが追加されたが。
「明日はザンスカールに行くのよね。皆に会うの、楽しみだわ」
 学校の中も案内してもらえる、と史織は嬉しそうだった。2日目の夜はそのまま寮に泊まり、3日目に地球に帰る予定になっている。
「母さん、久しぶりにチェスをやりませんか?」
 皿が空くと共にマーリンは席を外して2階へ上がり、食後のお茶を飲みながら、真言は史織に提案した。
「いいわね、やりましょう」
 その話を聞き、隆寛がチェス盤と駒を用意する。真言と史織はそれを挟み、対局を開始した。
(母には勝った事が無いんですよね……父なら、たまにわざと負けてくれるんですが)
 真言はそう思いつつ、慎重に駒を動かしていく。ゲームの流れを予測して次の一手を考える彼女の表情を、史織は娘を見守る時の母親らしい、温かい眼差しで見つめていた。そして、しみじみとした口調で言う。
「すっかり大人びちゃって……そうよねぇ、もう18だものね」
「そんな、まだ18ですよ。大人だなんて……」
 くすぐったい気持ちで照れ笑いを浮かべ、真言はナイトを動かす。史織は特に迷うこともなく自分の番を終え、またすぐに真言のターンになった。
「……お母さん、16の時に真言産んだんだけどなー」
「え……」
 盤に目を落としながらさりげなく言い、史織はちらちらと真言の顔を伺った。びっくりしたというか困惑したというか動揺したというか、とにかく心が乱れたらしい。ぽん、と真言は悪手を打ち、史織はそこですかさずチェックメイトした。
「あー……」
「今回も、真言の負けね」

 そうして就寝の支度も終えて、そろそろ部屋を暗くしようかという時間。
 真言は、史織の訪問を受けた。枕を持っている。
「ねえ真言、今日は寒いし一緒に寝ない?」
「一緒に……ですか?」
 きょとんとしている間に、史織は真言の部屋に入っていった。ベッドに座り、子供みたいにはしゃいだ様子で「ほらほら」と言う。
「もう、仕方がないですねぇ……」
 苦笑して、真言はベッドに近付いて布団に入る。史織は彼女の隣尾に横になった。2人で向かい合って、くすくすと笑う。
「……お母さんと一緒に寝るの、久しぶりだなぁ」
 仕方がないとは言いつつもまんざらイヤでもなく、真言はいつもよりも安心して眠れるような気がした。だからだろうか。夢の中に入るのにも、今日は時間が掛からなかった。
 すうすうと、真言は寝息を立てている。
 ――先程、史織が真言に思わせぶりな事を言ったのは必ずしもゲーム中の冗談、というわけでもなくて。お嬢様から“母親”になった史織は、普通の家庭というものに憧れた。真言には普通の女の子として育ってほしかったのだが、娘は父親の性格を受け継いで鈍感な子に育ってしまい、それを常々嘆いていたのだ。
 真言とマーリンが親友以上恋人未満な状態であることは、以前、真言の里帰り時に隆寛から聞いている。でも、あれからそれなりに月日が経ったはずなのだが――
 廊下の方からドアが開く音がする。聞こえた方角からして、マーリンの部屋だろう。
(……よし。今がチャンスね)

 自室に篭っていたマーリンは、やっと自由に動けるとばかりに、隆寛と2人でダイニングで寛いでいた。そこで史織が入ってきて内心で「げ」と呟く。避けていたのに、まさかこの時間になって遭遇するとは。
「マーリン君、私とチェスで勝負しない?」
 テーブルの上には、チェス盤と駒が置きっ放しになっていた。勝敗が決したそのままの状態になっていて、どんな勝負が成されたのかがおぼろげに分かる。
「今出てきたばかりだし、まだ寝ないでしょ?」
「……一局だけなら」
 唯一の断る理由を封じられ、しぶしぶマーリンは了承する。史織は向かいに座ると、黒い駒を初期位置に戻し始めた。
「そうね、私が勝ったら真言のこと、よろしくね」
「……は?」
 白い駒を並べていたマーリンの手が止まる。
「あんたが勝ったら……って。彼女が何を一番大事にしているか知っているクセに」
 自然と不貞腐れた顔になるが、史織はどこ吹く風で平然としている。先に進めるなら進んでる、とわだかまる想いで駒を並べていると、話を聞いていた隆寛が興味を持ったのか近寄ってくる。
「では、私が証人として見ていましょうか」
 涼しい顔でそう宣言され、マーリンはぐっ、と息を詰まらせた。どうしてこうなったのか、何だか逃げ場が無い。やけになって、彼はポーンを前に進めた。
「そういう事をいうなら、俺が勝ったら今年はもう里帰りは無しな!」
「……分かったわ。もう今年は1ヶ月くらいしかないけど」
「…………」
 しまった、と思うが時既に遅し。特に勝っても実のない勝負は始まって――
 チェックメイトを取られたのはしばし後のことだった。