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なし

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そんな、一日。

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そんな、一日。

リアクション



7


 朝から部屋にこもりきりだった師王 アスカ(しおう・あすか)が、昼を目前にしてようやく顔を出してきた。
「気分が良さそうだな」
 にこにこと浮かべた彼女の笑みは、ルーツ・アトマイス(るーつ・あとまいす)の気分まで明るくさせるようなものだったから聞いてみれば。
「はい、これ〜」
 一通の封筒を差し出された。
「手紙?」
 表にも裏にも何も書いていない。それどころか封もない。
「アスカから、我に?」
「うふふ、内緒〜。部屋に戻ってから読んでね〜」
 それだけ言うと、アスカは昼食用に作っておいたサンドイッチと紅茶を持ってリビングを去っていった。
「なんだろう」
 あまりにもわからなくて、口に出して呟く。誰も問いには答えない。自分の声だけがリビングに反響した。
 文句?
 感謝?
 前者は覚えがないし、後者は母の日でもあるまいし。
 わけがわからなかったので、読んでしまおうと思った。律儀に約束を守り、部屋に戻って。
 封筒の中には白い紙が一枚。
 便箋ですらないそれには、何も書いていなかった。
「??」
 嫌がらせ? と首をひねる。まじまじと見るが、やはり何も。
「……筆跡?」
 よく観察してみると、何か書いた跡は見えた。
(もしかして)
 閃いて、紙を窓際に持っていく。太陽の光に透かす。
 そこに書いてあったのは――。


 時間は少し、遡り。
 その日の朝のこと。


 ドンドン、と乱暴にドアを叩く音で目が覚めた。
「…………」
 ホープ・アトマイス(ほーぷ・あとまいす)は、枕元にある時計を掴む。デジタルの数字は、七時五十七分を示していた。
 こんな時間になんだよ、と枕に顔を埋めて無視の体制に入る。途端、室内の様子が見えているかのようにドアを叩く音は激しくなった。
「おーい、起きろ〜! 起きてモデルになれぇ〜!」
 ドア越しに聞こえるくぐもった声は、案の定アスカのものだった。起きてるよ、と枕の中でぼやく。
「ていうか起きてるわね〜起きてるでしょ〜。出てきなさーい。じゃないと不法侵入するわよ〜? それでそのあと洗濯機の中に投げ込んで、服と一緒に回しちゃうから〜」
 段々と過激になる発言に、しぶしぶながら身を起こす。
「全身から洗濯洗剤のいい匂いを振りまく前にドアを――」
 未だ続く脅しを遮るように、ドアを開けた。
「どんな嫌がらせだ」
 ひとまず抗議を口にするが、対したアスカはにこりと微笑み、
「はい、おはよう」
 何事もなかったかのように、お決まりの朝の挨拶を告げた。無視か。寝起き早々、頭が痛いとこめかみを押さえる。
「じゃ、向こう行きましょうか〜」
 しかも決定権はないと来た。強くなる頭痛にため息を吐くと、「朝からやぁね〜、幸せが逃げるわよ?」なんて、あっけらかんと言われた。あからさまにもう一度ため息を吐いておく。しかしアスカはささやかな嫌味になど気付かず、さっさとデッサンのための準備を始めていた。どうやら今日は色鉛筆を使うらしく、そのためかいつもよりご機嫌な様子だった。
「はい、そこ座って〜」
 指されたソファに大人しく座る。しばらくして身じろぎすると、即座に「動かないで」と制された。
「初めてで、慎重に観察してるんだから〜」
「兄さんを描くときとあんまり変わらないだろ。同じ顔なんだし」
「全然違うわよ〜。表情も、雰囲気も」
「ふーん」
「あっ、興味なさそう」
「ないからな。話し相手も兼ねてんなら兄さん相手にした方がいいぞ」
 ターゲットが変わらないものかと言ってみる。アスカの返事は早かった。
「ルーツは駄目〜」
 やんわり、しかしきっぱりと。
「だってあの子、お昼ご飯が〜家の掃除が〜洗濯物取り込まないと冷えちゃう〜って集中力がないったら! ホープの数倍きょろきょろおろおろするんだもの〜。観察できないったらないわ〜」
「兄さん……」
 ルーツの主婦力なんて、知りたくなかった。嘆きしか出てこない。
 考えるのはよそう。無になろう。
 そう決めてからどれくらい経ったか。ふと目を向けた色鉛筆の、白だけが綺麗な形であることに気付いた。
「白、使わないのか?」
「絵の具と違ってね〜、持て余しちゃうのよ〜」
 ホープの問いに、アスカは練習不足ね〜、と呟く。
 白い鉛筆には、思い出があった。
「俺の色鉛筆は、白が真っ先になくなったな」
「へえ〜、どうして?」
「俺も兄さんも、外で遊ぶことを制限されてたからさ」
 あの当時、遊ぶとなるとどうしても室内でのそれとなった。
 何度も繰り返した遊びは飽き、新しいものを求めるようになる。
「でも出来ることには限りがあるからさ、ふたりで考えて。
 紙に、自分の伝えたいことを白鉛筆で書いて相手に渡す遊びしてたんだ」
 白い紙に白い文字。到底読み解けるわけがないと思っていたが、なんてことはない。
「あれってさ、太陽なりなんなり、光にかざして見ると読めるんだよね」
 一見何も書いていないように見える紙は、渡すのも受け取るのも気が楽で。
 少しでも伝え辛いことがあると、世話になった。
「ケンカしたときに使ったこともあったなあ……」
 懐かしい、と言って話を終わらせると、いつの間にかアスカはこちらを真剣に見ていた。さっきまでは、スケッチブックに意識が向きがちだったのに。
 食いつかれたな、と思った矢先、「それやりましょう」と嬉々とした声。
「モデル終わりで?」
「ううん、もちろん終わってから。終わってから、その遊びをするの」
「はあ」
「お題はそうね〜、『今思いっきり言いたいこと』で。終わったら二度寝していいわよ〜、もう絶対邪魔しないから」
「はあ……」
 言いたいことね、と考える。
 今一番言いたいことは、なんだろう。
「…………」
 不意に思い出されたのは、エイプリルフールの日のことだった。
 自分の正体が、ばれそうになった。けれど、ばれなかった。そのことを確かに安堵している。だけど。
(いくらなんでも鈍すぎるだろ、あれ)
 本当に、それこそ泣きたいくらいに。
(……畜生、だったら)
「終わったわよ〜。よーし、遊びましょ〜?」
 紙を渡されるや否や、白鉛筆を手に掴む。
 ざっざっと書いて、無言でアスカに渡した。
「あっ、本当だ〜。光に透かすと見えるのね〜……ってこれ」
「何も言うなよ」
「なかなか……」
「言うなって。おまえは?」
「私〜? 私からはこれ〜。はいどうぞ〜」
 アスカから渡された紙には、『モデルになってくれてありがとう』とあった。はいはい、とおざなりに頷いて紙を持ち、椅子から立ち上がる。
「寝てもいいんだろ?」
「うん。ありがとね〜」
 部屋を出て、自室に戻り。
 あの遊びをもう一度やったせいだろうか、複雑な気持ちを抱えながら横たわった。


 ルーツに手紙を渡し、自室に戻ったアスカはひとり、小さな笑みを浮かべていた。
 酷い筆跡の癖。
 隠す余裕もなく綴られたホープの気持ち。
「『兄さんはそのままでいて』、か」
 あれを読んで、ルーツはどう出るのだろうか。
 ホープの気持ちは、伝わっているのだろうか。
 自身が関与し得ないことを思いながら、アスカは先ほど描いた絵を眺める。
 思い出話を語っている彼の、笑顔の絵を。