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東カナンへ行こう! 4

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東カナンへ行こう! 4
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 昼食後、董 蓮華(ただす・れんげ)エンヘドゥ・ニヌア(えんへどぅ・にぬあ)を誘って携帯型救命ボートを出した。彼女はサーフボードを持ってきていて、エンヘドゥと波乗りをしようと考えていたのだが、残念ながらエンヘドゥにはサーフボードの経験がなかった。
 蓮華としては少し残念だったが、エンヘドゥを前に乗せてボートを漕いでいると、これもいいような気がした。エンヘドゥが水着になるというので、ちょっと心配だったのだ。
(水着姿の姫様は男性には目の毒、女性には……。
 やっぱり目の毒です)
 蓮華が渡した折々の日傘を差し、風に乱れないよう髪を押さえているエンヘドゥをちらちらと盗み見しながら思う。
 ビキニという薄絹1枚まとっただけのエンヘドゥは普段の彼女より数倍露出が高く、それだけに豊満な胸や細いウエストなど、形の良い肢体がくっきりはっきり、あらわとなってしまっている。これで何も感じない男など、ただの木石だ。
 だからやっぱりこの行動は正しいのだ。不埒なやからには、エンヘドゥを視界に入れさせるだけでも駄目。絶対駄目! 何を妄想されるかしれたものじゃない!
 自分のした考えに内心うんうんうなずいていると。
「蓮華、どうかしたんですの?」
 エンヘドゥが不思議そうな表情で話しかけてきた。
 ハッと現実に立ち返り、自分がいつの間にかオールを漕ぐ手を止めてため息をつきつつ胸をさすっていたことに気がつく。
「えっ、あ……なんでもないです」
 エンヘドゥと比較して、それにしても自分の胸は……なんてことをちょっぴり心の隅で考えた、なんて言えない。
「そう?」
「はい。ご心配をおかけしてすみません」
 蓮華はほんのりと染まったほおを隠すように俯き、再びオールを漕ぐ手を動かした。
(大丈夫です。もしエンヘドゥさまに邪な考えを持つ者が現れたとしても、私が必ずお守りします)
 そのための武器を蓮華はパーカーに仕込んであった。エンヘドゥの側から見れば、ただの白いワンピース水着にパーカーをはおっているだけに見えるだろう。しかしその実、パーカーの内側には鞭が仕込まれていた。ホルスターに収まっていて、有事の際にはすばやく取り出し可能だ。
 大分沖に来たところで、蓮華は漕ぐのをやめた。
 あとはゆうらりと風に任せて景色や会話を楽しむだけだ。
「ビーチで感じるのとはまた違う、いい風ですね。連れてきてくださってありがとうございます、蓮華」
 どこかうっとりと見惚れた声でエンヘドゥが言う。その絵画のような横顔になかば見とれつつ、蓮華は訊いた。
「エンヘドゥさま、空京ではどう過ごしていらっしゃるんですか? 今はまってることは何ですか? あと……。
 好きな男性は、いないんですか?」
 問われて、少し考えていたエンヘドゥは、最後の言葉に「あら?」という目を向けてきた。くすっと笑う。
「そうですね。わたくしは昔から草木を育てるのが好きなので、休日は花屋を回ったり、植物園に行ったりしていますわ。ほかにも空京にいますと、やはり地球のことが多く耳に入ってきますでしょう? 地球のファッションが気になるので、ウィンドゥショッピングを楽しんだり……。今度、蓮華も一緒に行きましょう」
「ぜひご一緒させてください」
「楽しみね」
 ふふっと笑うと、エンヘドゥは先を続けた。
「ええと。次は、今はまっていることですね。今はまっているのは、紅茶のブレンドです。いつか自分で育てたハーブを使っておいしい紅茶を淹れて、お姉さまやイナンナさまに飲んでもらいたいと思っていますわ。まだ全然ですけれど。
 それから……ええと……何だったかしら? そうそう、好きな男性について、でしたわね」
 そこで思わせぶりにいったん言葉を切って、エンヘドゥは蓮華の方を向いて姿勢を正した。
「そう言う蓮華こそ、どうなんですの? お慕いしている殿方が、いらっしゃるのではありません?」
「私、ですか?」
 蓮華は口ごもった。逡巡するような間を開けて、ひと言ひと言、言葉を選びつつ、ゆっくりと話し始める。
「私は……立場が違いすぎます」
「立場、ですか?」
「ええ。だって私が好きなのは、お慕いしているのは……」
 金鋭峰団長なのだから。
 その名前を、蓮華は声に出さずつぶやいた。
「あの。2人の故郷である中国は、こういう家柄の違いは凄く重視されるんです。だから、軍にとっても、政治的にも、あの方にはもっと望ましい方が、きっと……いらっしゃると……。
 ですから、最初から、これが叶う恋だとは思っていないんです。ただ、せめてお役に立ちたいと、思っていて……」
 途中から涙があふれ始めて。胸がぎゅうっと苦しくなって。蓮華はそれ以上言葉を続けられず、胸を押さえて前傾すると無言で涙をこぼした。
 ぼたぼたとボートの底に涙の滴がこぼれる。
(駄目よ蓮華。こんな姿を見せられて、エンヘドゥ様こそ困ってしまうじゃないの)
 そう思っても、涙は次から次へとあふれ出て。止まらない。
 体を前後にゆすって、声を殺して泣く蓮華を見つめていたエンヘドゥは、すっと視線を横に流した。
「そう。蓮華の想う殿方は、身分のある殿方ですのね」
 カナンにも階級制度がある。地球の中国という地がどういうものかは知らないが、そこの生まれである蓮華が『家柄の違いが重視される』というのであれば、そうなのだろう。
 身分差というのは簡単に無視できるほど生易しいものではない。それは家族、一族、歴史にも深く根ざしており、変革を求めるにしても、一朝一夕にどうにかなるものではないのだ。カナンで生まれ育ち、それを身を持って知るエンヘドゥだからこそ、うかつなことは口にできなかった。
 もちろん、この場限りの慰めを口にすることもできるだろう。「大丈夫よ」とか「それだけ想っているのですもの、あなた想いはきっと通じるわ」とか。けれど、それはしたくなかった。そんなのは、ただの安易なごまかしだ。
 蓮華は、そんな粗末に扱っていい人ではない。
 エンヘドゥは無言で遠くの湖面を見つめ続けた。ただひたすらに、蓮華の心が再び穏やかさを取り戻し、いつの日か、こうして泣かずにすむ日が訪れますように、と祈りながら……。






 神官 ニンフ(しんかん・にんふ)を供にビーチを歩いていたイナンナ・ワルプルギス(いなんな・わるぷるぎす)は、ふと前方に見知った者の姿を見つけて足を止めた。
「カルロス、あなたも来ていたのですか」
 名を呼ばれ、振り返る。
 カルロス・レイジ(かるろす・れいじ)は愛しい女性の姿を間近で見ることができた喜びに、目を輝かせる。――もっとも、目は色付きのサングラスにおおわれていて、微妙な変化を他人に悟らせることはなかったが。
 サングラスに隠された視線で、カルロスはイナンナの全身をくまなく見た。今日の彼女はオレンジを基調とした夏らしい花柄のホルターネックビキニをまとっていた。形のいい胸元からはビーズのついた紐が垂れている。そして右の腰に大きめのゆったりとした布リボンのついたパレオ。薄絹の重ねは羽根のように軽そうだ。花飾りをあしらったサンダルまでがひとそろいになっている。
 華やかであり、かつエレガントな装いのイナンナを目にして、カルロスは満足げにのどの奥で小さくうなる。
「カルロス?」
「おひさしぶりです、わが女神」
 その呼称は多少大げさだったが、今の彼はシャンバラ教導団の兵士でありながらイナンナがじかに許した北カナン神官見習いでもあった。その少々特殊な身分ゆえ、彼女を「わが女神」と呼んでもおかしくはない。おかしくはないが――イナンナは少し笑って、相変わらずと言うように小さく首を振って見せた。
「ははっ。
 ところでイナンナさま、その格好でおられるということは、泳いだりしてここでのレジャーを満喫する気でいらっしゃるんですよね?」
「ええ、それはまあ……」
「でしたらぜひ俺にその間のイナンナさまの護衛をお申しつけください。俺が完璧にあなたをお守りします」
 イナンナはじっとカルロスを見上げた。
「あなたの神官見習いとして」
 後ろに控えていたニンフが何か発言しようと口を開きかけたが、それと気づいたイナンナが手をあげて止める。
「あなたは先に皆の元へ戻っていなさい」
 ニンフを下がらせたあと、イナンナはあらためてカルロスへ向き直った。
「ではよろしく頼みますよ、カルロス」
「はい! わが女神!」
 思わず敬礼をしてカルロスはイナンナに礼儀を尽くす。その姿を見て、やっぱりイナンナはくすりと笑ったのだった。


 カルロスは2人で過ごす間じゅう、イナンナを完璧にエスコートした。
 カナンの国家神である彼女には常に崇敬の念を持って対し、その発言や行動には敬意を払い、だれから見てもイナンナが公明正大であるように気を使った。
 ここに生息するエメラルドグリーンのイルカが人懐っこいことを、ほかの者たちのたわむれる姿ですでに知っていたカルロスは、呼び寄せてイナンナに紹介する。イルカもイナンナがただの人にあらず、このカナンの国家神であることを本能的に悟っているのか、イルカたちはイナンナの前では借りてきた猫のようにおとなしく、順番を待って触れられるのを待つ。そして彼らが披露する美しいジャンプに見惚れるイナンナに
「乗ってみてはいかがですか?」
 と提案し、イルカに乗って自然と笑い声をあげるイナンナの姿を満喫した。
「イナンナさま、何か好きな食べ物ってありますかね?」
 ビーチに上がってひと休み。買ってきたトロピカルジュースを手渡しながら訊く。
「趣味や休日の過ごし方とか。あと、最近のマイブームって何ですか?」
「マイブーム?」
「はまっていることです」
 ああ、とうなずき、ジュースをひと口飲むと答えた。
「そうですね……。いろいろありますが、デーツ(ナツメヤシの果実)が好きですね。本を読むことが好きです。あなたたちの言う休日というものはほとんどありませんが、視察へ出向く移動中に読むための本は常に欠かしません。静かな場所で1日本を読むことができたらすばらしいと思います。
 最近は地球の本をシャンバラから取り寄せて読んでいます。地球の本は面白く、とても刺激的で探究心を満たしてくれます」
「本、か……」
 地球の本なら手に入れられそうだ。今度機会があったらプレゼントしてみよう、と思う。
 そして大分西へ傾いた太陽と、それに照らされた美しい湖面を2人で眺めながら、カルロスはイナンナと再会して以来ずっと考えていたことを、思い切って口にした。
「イナンナさま」
 ホーリーシンボルを取り出してイナンナの足元の砂に置くとひざまずき、恭しく頭を垂れる。
「俺が見習いとなって、1年近く経ちました。俺の気持ちはあのときから、寸分と変わっていません。どうか、今日から正式な神官と認めてはいただけないでしょうか!」
 一気にそれだけを口にして、イナンナの判断を待つ。
 イナンナは熟考するように長く沈黙したあと、淡々と答えた。
「わたくしの考えも変わりません。あなたはシャンバラに根を下ろしたシャンバラの兵士です。カナンの神官となり、カナンのために尽くしたいと考えることはうれしく思いますが、やはりカナンの者と同等に扱うことはできません」
 その言葉を聞いて、あわててカルロスが顔をあげたとき。
「ですが」イナンナは先を続けた。「あなたに『名誉神官』の位を授けましょう。これはあくまでわたくしが個人的に与える名誉称号であり、カナンにおける神官としての権限はありませんが」
「あ、ありがとうございます……!」
 カルロスは感謝の意を込めてもう1度頭を下げると立ち上がった。
「へへっ。もちろん公私混同いたしません。神官のときは神官のとき、それ以外のときはそれ以外のときと、キッチリ分けますんで、また誘ってもいいですかね?」
 先までの殊勝な態度はどこへいったのか。
 笑うカルロスを見上げて、イナンナは困った人と言いたげにため息をついたのだった。