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東カナンへ行こう! 4

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東カナンへ行こう! 4
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リアクション

 きめ細かな白砂が敷き詰められているビーチで、ティエン・シア(てぃえん・しあ)はビーチパラソルを両手剣のように握って立っていた。
「お兄ちゃん。これ、ここを押し上げればいいのー?」
 一緒に来ている高柳 陣(たかやなぎ・じん)の方を振り向く。陣はビニールシートを張り、飛ばされないように四隅に重石を乗せるなどをしている。
「ああそうだ」
 ティエンが何のことを言っているのか承知しているように、振り返ることもせず答えた。
「気をつけて開けよ」
「うん」
 言われたとおり気をつけて押し開いたが、やっぱりバランスをとるのが難しくて、体を持っていかれそうになってよろけてしまう。すぐに陣がポールを握って支え、転ぶことはなかった。
「大丈夫か?」
「ありがとう、お兄ちゃん」
「これは俺が立てるから、おまえは泳いでろ」
「うん」
 そう答えたものの1人で泳ぐ気にならず、ベースにパラソルを立てる陣を見守っておとなしく待っていたティエンの耳に、砂を踏む足音が入った。
 そちらを向くと、東カナン領主バァル・ハダド(ばぁる・はだど)とその妻アナト=ユテ・ハダドが連れ立って歩いてくるのが見える。
 2人の姿を目にした瞬間、パッとティエンの表情が輝いた。
「バァルお兄ちゃん! アナトお姉ちゃんっ!!」
 ダッシュで駆け寄り、バァルにぶつかる勢いでしがみつく。してしまったあとで、これは東カナンではしてはいけないことだったんじゃないかとハッと気がついた。
「あっ、あの、バァルお兄ちゃんっ」
 あわてて顔を上向かせると、バァルがうれしそうな笑顔で見下ろしている。抱き止めた腕もまだティエンの体に触れたままだ。そのことにホッとしているティエンの頭をバァルがなでた。
「久しぶりだ、ティエン。先日、城に訪ねて来てくれていたと聞いた。すれ違ってしまったな。留守にしていて悪かった」
「ううん。お仕事だもん、しかたないよ。それに、僕たちが勝手にお邪魔したんだし」
「そうか」
「こんにちは、ティエン。この前着ていた服もかわいらしかったけど、その白の水着もとても似合ってるわ」
 アナトに褒められて、うれしそうにほほを染めたティエンは胸元のリボンに指を持っていく。ティエンは今、ティアードのフリルビキニを着ていた。ストラップは大きめのホルターネック。結び目がリボンになっているところがさらに後ろ姿でもかわいらしさを強調している。清楚で、それでいて純真さを感じさせる、ティエンにぴったりの水着だ。
「こんなにかわいい女の子を男の子と間違える人がいるなんて、信じられないわね」
 そう言って、アナトはからかうような笑みをティエンからバァルへと移す。バァルが一時期ティエンのことを男の子と思い込んで扱っていたことを、アナトも聞いたのだろう。
 視線を合わせ、やわらかな笑みで苦笑するバァルとほほ笑むアナト。2人の間にあるしっとりとした雰囲気がとても自然で、調和していて……。ああ、なんてお似合いの2人なんだろう、とティエンはうれしく思う。そして、そう思えたことが自分でもうれしくて、今度はアナトに抱きついた。
「ありがとう、アナトお姉ちゃん!
 ね? バァルお兄ちゃん、アナトお姉ちゃん、一緒に泳ご?」
「私はいいわ。水着を持ってきてないの。あなたたちだけで泳いでいらっしゃい」
 それを聞いて、ティエンはがっかりした表情を浮かべたが、すぐに
「わたしと行こう」
 とバァルが手をとると笑顔になった。
「うんっ!」
 バァルとティエンが手をつないで湖へ入って行くのを見送ったアナトは、陣が手招きしていることに気がつく。
「こちらへどうぞ」
「ありがとう。お邪魔させていただくわね」
 パラソルの下へ入ったアナトは、思っていたより太陽の日差しが負担となっていたことに気付いて、ふうと息を吐く。ゆるく編んだ背中の三つ編みとうなじの間に隙間をつくり、風を通している彼女に、陣はクーラーボックスのなかから冷えたジュースを取り出し、グラスにそそぐと手渡した。
「ありがとう」
「いや」
 アナトが口をつけ、ひと息つくのを待ってから、おもむろに陣は話し始めた。
「その……この間のことなんだが」
「この間?」
「始祖の書の件、アナトさんには迷惑をかけた」
「ああ……そんなこと…」
「おじさんを呼び出すために利用したみたいな形になっちまって。すまなかった。ただ、ティエンと義仲はアナトさんに会えたことを素直に喜んでいた。それは信じてくれ。
 ティエンは、バァルに幸せになってもらうための努力はできても、東カナン領主を支えることはできないと言っていた。でもアナトさんになら両方できる。そう言って、あんたたちが結婚したとき、心底喜んでた。あんたのことも、本当に慕ってるんだ。できたら、これからも姉貴のように接してやってほしい。きっとあいつも、それを望んでる」
 いきいきとした笑顔ではしゃぐティエンから目を放し、となりを向くと、アナトは俯いて、じっとひざの上のグラスを握った手を見つめて考え込んでいるように見えた。
「俺も……。
 いや、チャタルっていったか。あの菓子、うまかった」
 そこまで口にして、ふと何かが砂に落ちるくぐもった音を耳にした。見れば、アナトのグラスがひざ向こうへ転がり落ちている。それと同時に、アナトの横顔が紙のように白いことにも気づいた。体がわずかながら前後に揺れている。
「アナトさん?」
 額に吹き出した汗。これはと伸ばした手の先で、ぐらりとアナトの体が大きく傾いだ。危うく倒れ込む前に掴みとめる。
「アナトさん!」
 がくんと体が揺れた衝撃で、アナトは目を覚ました。どうやら気を失っていたらしい。陣のあせった顔に本人もそれと気づいて「ああ」と力なく声をこぼすと半面を覆う。
「ごめんなさい。今一瞬ふっと気が遠くなって」
「どこか悪いのか? まさか病気――」
「いえ。そうじゃないの。病気じゃなくて……」
 小さな声で早口につぶやく。ほんのりと色味を差したほお。
 聞いた最初のうちは意味が分からず、ごまかしではないかと疑った陣だったが、アナトのかすかに恥じらっているような横顔を見つめるうち、やがてあることに思いあたった。
「ああ、くそっ。……まいったな」
 どう反応していいやら。少しばかりパニックを起こしつつ、アナトの横で背を正した。なんだかいたたまれず、急にアナトを意識して、緊張感が増していた。
 考えてみれば2人が結婚して1年半。どちらも家族がほしいと考えていたことを思えば、むしろこれは遅すぎるくらいだ。
 しかしこの状況でそれを知るか? 俺。
(くそっ、せめてユピリアのやつがいてくれてりゃあ……)
「えーと……。その。とりあえず、オメデトウ」
 そうか、だから水着で来てないのか、とぼんやり思いつつ、とにかく頭に浮かんだことを口にする。アナトもまた緊張し、気持ちが落ち着かないのか、足をおおったスカートのすそを見つめて、クシャクシャもてあそびながら答える。
「まだ、分からないの。そうじゃないか、って思ってるだけで……。
 あの……バァルさまたちには、内緒にしてくれる?」
「ああ。そりゃあ――」
 これは微妙なケアを要する話題だ。バァルだってそんなこと、他人から知らされたくはないだろう。陣も話したくない。何を話せばいいかなんて、皆目分からないし。
「お兄ちゃーーん!」
 そのとき、湖から上がったティエンがこちらへ駆けてくる姿が見えた。後ろをバァルが歩いてくる。
「俺は何も知らない。ただ、体を大事してくれ」
「……ありがとう」
 ほっとしたつぶやきが聞こえた。


 それから4人でビーチパラソルの下で、アイスティーとオレンジゼリーを食べた。クーラーボックスに氷がぎっしり詰められていたおかげでどちらも心地よく冷えていて、口あたりもいい。バァルがそれを口にすると、ティエンが少し照れて笑った。
「よかったな、ティエン。俺も腹痛起こした甲斐があるってもんだ」
「なにそれ! そんなことないよ!」
「あったさ。ここに来ると決まってから、一体何杯飲まされたと思ってるんだ」
 ムキになったティエンに、本当か嘘か、どちらともとれるしれっとした顔で陣がうそぶく。
「もーっ! バァルお兄ちゃんたち、信じちゃうじゃない! やめてよお兄ちゃんっ」
 こらえきれないといった感じでくすくす笑うアナトの笑声が聞こえてきて、ティエンはさらに顔を赤くすると、こほっと空咳をした。そして話題の転換を図る。
「あのね、お兄ちゃんたち」
 ティエンが真面目な表情なのにすぐ気づいて、陣やバァル、アナトも食べる手を止める。
「僕ね、もうじき蒼空学園を卒業するの。卒業したら、東カナンに住みたい。カナンとシャンバラがもっと仲良くなれるよう、お手伝いをしたいんだ」
 それを聞いて、バァルは陣を見た。陣は無表情でバァルを見返す。
 そのことを陣はすでに聞いて知っていた。それに対する自分の考えも伝えてある。が、ティエンの将来を決めるのはティエンだ。受け入れるかどうかはバァルが決めることで、自分が何を口にすることでもない、というように手を動かし、残りのゼリーを食べる。
 ティエンは一度言葉を切ってうかがうようにバァルを見たが、バァルが何も口にしようとしないのを見て、ますます緊張に肩をこわばらせつつ言葉を継いだ。
「思いつきで口にしてるんじゃないんだ。東カナンは僕が自分で選んだ、僕がいたいって思えた場所なの。
 もしまた千年先に厄災が起きることがあったとしても、そのときも、カナンを守る役に立ちたい」
「それは、わたしが反対したらあきらめる程度の思いなのか?」
「ううん!」反射的、ティエンは首を振っていた。「それが、精霊である僕の決めた未来なんだ!」
「そうか。なら、わたしが口をはさむことではないな。
 ただ、シャンバラの空京大学とカナンの間には留学生交換制度がある。大学は学舎としてとても有意義な場でもある。卒業までまだ時間があるだろう。そのことも選択のひとつとして頭に置いておいてほしい」
 バァルはもともと文学の人で、学問を重んじていた。領主になる前は学者になる夢を抱いていたほどだ。弟が成人すれば領主の座を譲って夢を追うこともできるとひそかに考えてもいた。
 知識がひとを豊かにすると、彼は信じていた。だから大学へ進学してほしいというのは彼らしい提案だった。
「それって……いいってこと……?」
 バァルとアナトを交互に見るティエンに、アナトがほほ笑んで手を広げる。
「東カナンへようこそ。歓迎するわ、ティエン」
「アナトお姉ちゃん!」
 腕のなかへ、ティエンはまっすぐ飛び込んだ。
 小さくカシャッと軽い音がしたことに気づいたバァルが横の陣を見る。陣がいつの間にかデジカメを手にしており、都度に撮影していたほかの画像をスライドして先に撮影した画像の具合を見ていた。満足そうな笑みが小さく浮かんでいることから、望んだ1枚が撮れたのだろう。バァルが見ていることに気づいて、ちょっと気を緩めすぎたかと笑みを消したがもう遅い。ごまかしたり言い訳などはせず、軽く肩をすくめてデジカメを振った。
「おまえやアナトさんのもある。ツァンダへ戻ったら、編集したやつをデータで送るよ」
「ああ」
 そして陣は「あとで夕陽をバックに記念撮影をしよう」と笑った。