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あの日あの時、あの場面で

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あの日あの時、あの場面で
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浸食する狂気



 それは、海中都市ポセイドンでの事件を経て、エリュシオン帝国はペルム地方よりシャンバラに帰還して暫く。再び帝国へと赴くことになるまでの、その合間の出来事だった。

 ペルムの治療院の診断から引き続き、軍医にも警告を受けてそのまま休暇に突入したのだが、何もやる気が起きないまま、水原 ゆかり(みずはら・ゆかり)はごろりとベッドの上で寝返りを打った。
 今が何時であるのか、もう何日こうしているのか判らない。窓からの明かりで朝になったのが判る。空気が冷たくなって夜が来たのが判る。その程度だ。
 普段ならパートナーのマリエッタ・シュヴァール(まりえった・しゅばーる)とショッピングに出かけたり、でなければ読書であったりと、休暇らしい休暇を楽しんでいたはずだ。なのに、それらが何一つ頭に浮かんでこない。魅力を感じられない。ただひたすら、胸の中に広がる空虚感と、それを押し広げようとするかのような苦痛に、じわじわと蝕まれているだけだ。
(……気持ち悪い)
 身体の内側からじとりと触れて、その爪をゆっくりと立てて来るような、痛みを伴った熱と感覚。かきむしってやりたくなるような不快感がくすぶって離れず、眠りに落ちようとすればそれがより深く感じられて満足に睡眠も取れていなかった。
 今自分はさぞ酷い顔をしているだろうが、鏡を覗き込む気にはなれなかった。そこに、自分ではない誰かの顔が見えるのを恐れたからだ。
(…………あの、女)
 それは、海中都市ポセイドンで一万年も前に死したはずの女の魂。
 封じられ、閉じこめられている内に狂気のみの存在へと成り果てた女。
 何の因果によってか、その魂が自分のそれに触れた瞬間から、この悪夢に似た感覚は続いている。
(この憎しみは私のものじゃない……この狂気は私のものじゃない……)
 必死にそれを追い出そうとしても、死ぬ寸前のその時まで憎悪に身を浸した女のそれは、容易に離れてはくれなかった。それどころか、ゆかりの中の生真面目な部分がなにがしか彼女の終着を煽るのか、その思念はどこまでも深く深くに潜り込み、心を染め尽くそうとするように、或いはずたずたに切り裂いてしまおうとするように。その昏い思念を吹き荒れさせた。
(狂気……そんなもの、まだ生易しい……)
 心中で呟き、ゆかりはぎゅうっと自分の体を抱きしめた。そうしていても、芯から凍りつくような殺気や、煮えたぎるような憎悪、何もかもを壊そうと暴れ出す嵐のような激情、引き摺り下ろそうとするような淀んだ情念が絡み付いてくる。
 錯覚だ。ゆかりはそう言い聞かせて、首を振った。
 あの女は死んでいる。そして、遺跡が海中へと沈んでいった時に、縛られていた全ての魂は開放されて、あるべき場所へと消えていったのだ。
 今ここに触れている筈が無い。
 それは判っている。
 けれど、あの強烈な魂はその執念でもって、この意識に焼きついて離れない。残滓か、あるいは余りにそれが強烈過ぎて、自身こそがそれを巣食わせてしまったのかは判らない。
 ただ、まるで自分自身をも含めた全てのものを憎しみ抜くと、頑なに誓って、その通りに凝らせたその狂気は黒い沼のように足元から這い上がり、肌の下から上から犯すように這いずって、心を引きずり落そうと蠢く。
 そうして、怯えるように足元を眺めれば、見えるのは極限の憎悪と狂気に淫した「あの女」の顔。迫ってくるのは「あの女」の哄笑――……
(やめて……やめて! 聞きたくない、聞きたくない、聞きたくない……!)
 身震いと共に、ゆかりが体を捻る。ちかちかと脳裏に焼きつく顔を振り切ろうとした、その時だ。
「……カーリー? 大丈夫……?」
 いつの間にかそっと控えめにドアを開け、寝台の傍にやってきたのはマリエッタだった。
 帰って来るなりベッドに潜り込んで、それ以来時折、トイレに立ったりシャワーを浴びたりする以外の殆どをベッドで過ごし、まるで何かに怯えるようにして布団に包まってから何日も経ったのだ。流石に心配になって様子を見ようとして傍に寄ったのだが、それが認識できたのかも怪しいほどの速さで、ゆかりの腕は伸び、戸惑っているマリエッタをそのまま寝台へ引きずり込んだ。
「カーリ……ッ、や……!」
 驚きに声が裏返り、咄嗟に反応が遅れた体は気がつけば寝台に転がされ、身動きを奪うようにゆかりの体がのしかかる。暴れようにも腕を掴んだゆかりの力は恐ろしく強く、ビッという音と共にボタンが引きちぎれてシャツが暴かれた。名前を呼ぼうとした声は唇に塞がれ、そのまま息も声も奪われる。
(何? 一体どうしたの!?)
 ゆかりと寝ること自体は初めてではなかったが、こんな求められ方をしたことはかつて無い。こんな風に無遠慮に、自分の意思を完全に無視するようなやり方は。
 混乱するマリエッタに、ゆかりの手は止まらなかった。素肌の上を辿り、衣服を全て剥ぎ取って足を割らせる。舌で、指で、時には歯で。噛み付き、割り開いて蹂躙する。白い肌の上を爪先が引っ掻くように辿って、赤い色を付ける瞬間、ぞくぞくとしたものが背中を這って行った。
(……これは、何)
 喉元に噛み付き、か細い声が悲鳴のように漏れのを味わう。最初は拒絶するように止めてと叫んだ声は、今は違う熱をもって耳を擦り、押し返そうとする腕にももう力は無い。汗が滲み、混じり、咥えられた獣が諦めて食われようとするように涙を流す様。それがもよおす、黒い歓喜は何なのだろう。
(『ああ、貴女はこうして私に穢し堕とされるべきだった』)
 脳裏をがんがんと叩くその声は、そう言って笑う。
 剣を突き立てても、胸元を抉ってもまだ足りなかった。
 命を奪うだけでは甘い。もっともっと深く、もっともっと絶望的に。内側を舐ぶり、その内側を灼くような情念で満たして、その奥に眠る情欲を引きずり出して、泣き喚きながら惨めに許しを請うほどに、踏み躙ってやらなければ。あの夕焼け色の髪を掴んで上げさせた顔が、淫蕩と絶望に歪むさまを想像するだけで――……
(違う……ッ)
 ゆかりは心で叫びを上げた。
 抱いている相手は「あの女」の憎む「彼女」ではない。今抱いているのは自分の大切なパートナーであって、伸ばしている手も「あの女」のものではなくて自分の腕だ。そう訴る声が潰れて出なくても、吹き上がるような黒い憎悪の炎が体の中で渦を巻き、それを組み敷くマリエッタの中にまで植えつけようとするかのようにして暴れていても、自分は自分だ。
(明け渡したりなんかしない、呑まれたりなんかしない―――……ッ!)

 だがそんな抵抗もどこまで通じたものか。
 どこまでが自分で、どこからが「あの女」だったのかも判らないままに、その声が枯れて互いの汗が入り混じった匂いに部屋が満たされてしまうまで、白い柔肌の上にいくつもの赤が散らばるまで、ゆかりによる蹂躙は終わる事は無かった。
 互いの熱は何度も弾け、時間の感覚は更に遠くなっていた。頭の中が何度も白く弾けて、上げている声が獣じみていくのを感じながら、それでも食いちぎるようにして、ひたすらにその体を漁り尽くしてどれだけ経ったのか。
 ようやく体力の方が先に限界を向かえて、ギシリと重たげな音と共にゆかりが覆いかぶさってきたのを、マリエッタはほとんど呆然と見上げた。
 昼か夜かも判らない程、朦朧とする意識の中で、ぽつ、と冷たいものが頬に落ちた。もやつく視界の中で見えたのは、ゆかりの眦から溢れて行く涙の粒だ。
「…………カーリー」
 それはきちんと音になったか怪しかった。けれど、ぴくりと震える肩に、ああこれは自分のパートナーなのだとマリエッタは力を抜いた。まるで他人に抱かれているかのような違和感がようやく晴れ、あれが叫びなのだと悟った。叩きつけるような情念、抉るような行為。それらは、必死で救いを求める子供が、救いを求めて爪を立てたのではないか。

(……大丈夫よ、カーリー……)

 重たく鈍いものが体中を襲う中、マリエッタは心中でそう呟くと、ぽろぽろととめどなく涙を流すゆかりの体を、彼女が眠りに落ちてしまうまで優しく抱きしめたのだった。