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リアクション
【鏡の国の戦争・千代田基地4】
天使が現れる前に、争うような音は聞こえてこなかった。
白竜が使っていた武器は確か銃だったはずである。殴り合いの音は聞こえなくとも、音の逃げ場の少ない地下で銃声を聞き逃すという事はあまり想像できない。
考えられる要因は二つ、一つは彼らが天使の接近と通過に気付かずに居たというもの。もう一つは、たった一回引き金を引くことすら、させて貰えなかったというものだ。
前者の可能性も低くは無かった。アナザー・アイシャの周囲に居た契約者は一人や二人ではなく、それぞれ持ち前の技能によって周囲を警戒していた。だが、誰よりも早く天使の姿に気付いたのはアナザー・アイシャであり、そこに居る誰もが視界に入って初めて天使の存在を知覚したのだ。
一度認識できれば、その圧倒的な存在感に押しつぶされそうになるが、気付かないままでいたのならば横を素通りされても、たぶん誰にもわからなかったろう。
「なんじゃあ……ありゃ……」
清風 青白磁(せいふう・せいびゃくじ)は掠れた自分の声を聞いてから、自分に手足がまだくっついている事を確認した。ぴくりとも動かないが、まだちゃんとくっついている。
既に天使の姿はここにはなく、逃走したアナザー・アイシャを追っていったのだろうと推測される。追いかけなければいけないのはぼんやりと理解しているが、それを起こすための力は全く残っていなかった。
首もまわらないので、この場所に居るはずの詩穂の姿もセルフィーナの姿も視界に入らない。
何が起こったのかを、青白磁に説明させることはできなかった。後ほど仲間よって救助された二人の記憶を辿っても、気が付いたら全員やられていた、以上の情報を聞き出す事は不可能だった。
青白磁には、自分の掠れた呼吸の音だけがずっと聞こえ続けていた。
「すみっ、ませんっ」
「ご心配なく、それより舌を噛んでしまわないか心配ですので、お口は閉じて頂けますでしょうか」
リーブラ・オルタナティヴ(りーぶら・おるたなてぃぶ)はアナザー・アイシャを抱えながら遺跡の中を走っていた。
「嘘だろ、もうきやがったぞ」
シリウスは振り返った先に、天使の姿を見つける。
動作こそ歩いているように見えるが、着実に距離が狭まっている。できの悪い悪夢のような、ちぐはぐさだ。
「役に立たなすぎだろ、これ」
D.M.Aには何の反応も表示されず、またフリーズもしていない。目で見える距離に天使が近づいているのにだ。それどころか、強さを測定しように、存在を感知していない様子である。
「このままじゃ追いつかれるぞ。どうする?」
アナザー・アイシャを抱えているリーブラに任せて、サビク・オルタナティヴ(さびく・おるたなてぃぶ)と二人で時間を稼ぐという案が一瞬頭を過ぎるが、それは詩穂達が既に試みている。そして、天使はもう目の前に居るという事は、それで時間が稼げる可能性はかなり低い。
「……アイシャ様。一つだけ言わせてください」
サビクはアナザー・アイシャの瞳を見つめた。
弱々しく、確固たる意思を持たないものの目だ。サビクの知る女王には、そんな目をした人は居なかった。だけど、それは産まれ付き与えられるものでもない事を、サビクは知っている。
「『自分自身を無価値と思う者は、本当に無価値な人間になってしまう』 とある地球人の言葉です。どうか、自信を失くさないでください。ボクは信じます。他の誰でもない貴女を」
サビクは剣に手を添えると、足を止め、天使に向き直った。
「あ、おい!」
シリウスは自分が一緒に残るべきか、それとも馬鹿な真似はよせ、と叱咤し引きずるべきなのか、一瞬で答えが出ない。
「行って」
サビクは誰でもないシリウスに向かって、そう伝えた。
「……っ、任せたぞ!」
アナザー・アイシャ様の護衛が、一番優先するべきは、その役割を果たす事だ。怪物を倒す事でも、もちろん天使を相手にする事でもない。
リーブラはアナザー・アイシャを抱えている。戦うのは厳しい、最低でも一人は動ける人間が必要だ。なら、ここで残れる人数は最大でも最少でも一人、一人だけなのだ。
シリウスは覚悟を決めてリーブラを追い抜いた、後ろにはサビクが居るのだから、自分が注意すべきは前方だ。この先の安全が確かめられているわけではないのだから。
「行くぞ、なんとしても逃げ切ってやるからな」
サビクはまだ十分に距離があるところで、天使から視線を切り、真横の天井を支えていた木の柱を叩き切った。
この通路は防空壕として整備された地点のさらに奥、遺跡の一部だ。その遺跡は、イコンを導入するために散々人の手が加えられており、しかも時間的余裕が無かった突貫工事は地下の遺跡に多くの問題も発生させていた。
遺跡の一部を潰したりしていたのは、全てが崩落しないようにという処置だったが、壊れてしまっては困る部分は補強の手が入れられているし、今切り倒した支えもその一つだ。
勿論、支えを失うだけではちょっと足りないだろうと考え、そのまま通路の壁にも衝撃を与えておく。
「運はボクに味方してくれたみたいだね」
振動とごりごりと響く嫌な音が通路を満たしていく。
足りなければ下がりながら他の支柱も壊していく考えだったが、最初の一つ目で致命的な打撃を与える事ができたようだった。
戦って何とかしよう、という考えは最初っから無いのだ。どうやって三人が逃げる時間を稼げるか、手持ちの方法で考えた結果だ。
幸運はどこからどこまでだったのか、最初に崩れたのは彼女よりも後ろの通路であった。サビクも仲間と合流する道を塞がれた形になる。
振動が収まり、完全に通路が塞がれたところで、やっと天使は足を止めた。
「……」
天使の整った顔には、何の表情も浮かばない。
意思を感じない空虚な瞳は、アナザー・アイシャのそれとはまた違ったものだ。
サビクの次はもう決まっている。
向かってくるのであれば立ち向かい、背を向け次の道を探すのであればその背中を切る。そのどちらが来てもいいように、サビクは身構えた。
ある時を境に、甲斐 英虎(かい・ひでとら)と甲斐 ユキノ(かい・ゆきの)の元に、白竜達の指示や情報が届かなくなった。忙しさに忙殺されているのではないのは、こちらから呼びかけても反応が無いからして明らかだ。
もしも指揮所に何かあったのならば、そこはもうアナザー・アイシャと目の鼻の先だ。確かめに行くかどうかを決めかねて居る時に、すぐ近くで振動とごりごりと響く嫌な音を聞いた。通路のどこかが崩落していると気付いた二人は、急いでその場所に向かった。
崩落の影響で電線が切れたらしく、真っ暗になった通路を進んでいった先で、二人は天使と遭遇した。
「リファ……ニー……さん?」
英虎の足が止まる。
天使の姿は、彼の知るリファニー・ウィンポリアそのままだった。
驚きは、そこまでなかった。なんとなく、そんな気は前々からしていたのだ。アナザーに残ったのも、天使の事が気がかりだったのも理由の一つだ。
そして、ついに彼女を目の前にして、一体自分は何を言えばいいのだろうか。次の言葉が、出てこない。
「英虎!」
ユキノは、英虎よりも周りが見えていた。
リファニーの奥、落盤で塞がった通路に誰かが倒れている。暗く人物が誰かはわからないが、倒れた人に背を向けてこちらに歩いていく天使が、友好的な相手ではないのは確かだ。
声をかけても、英虎は固まったままだ。
戦うも逃げるも、彼の中の選択肢には無いのだ。それは、ユキノ自身もよくわかっている。だがこのままでは、危険だ。
「とりゃー」
全く感情の篭っていないやる気の無い掛け声と共に、リファニーの横にあった壁が破壊され、新たな天使が姿を現した。新しい天使は、飛び出してきた勢いと姿勢のまま、平行移動のとび蹴りをリファニーにぶつける。
この時、新しい天使の蹴りはリファニーの体に触れてはいなかったが、リファニーは蹴り飛ばされて反対側の壁に叩きつけられた。
「ふー、間に合った。今日だけで地球六周もさせるなんて、ちょっとだけ疲れたよ」
新しい天使は、窮屈そうに翼をパタパタ動かしながら、少しだけ浮いてリファニーを見下ろしていた。
「本音を話すと、君と追いかけっこをするのもそろそろ飽きてるというか、退屈なんだ。たまにはさ、こっちが有利な状況で遊ばない?」
新しい天使はちらっとだけ二人を見る。
加勢しろ、という事なのだろうか。
意図を測りかねているうちに、状況が進展する。リファニーは天井を見上げると、そのまま真っ直ぐ上に向かって飛んだ。岩と土は彼女の障害になるようなものではなく、少しの間地面の揺れと轟音がしていたが、それも間もなく止んで、遺跡の中はしんと静まり返った。
「あー、助かった。こないだの損傷分まだ修復終わってなかったから、今の状況だと五分五分にもならなかったんだ。リスクはとらないのか、それとも」
天使は二人に向き直る。
「何か他の理由があったのかもね。推測しかできない向こうの事情については、これぐらいにして―――久しぶりだね、シャンバラと地球の、うーん、ここではオリジンの民よ、なんて言った方がいいかな?」
大世界樹、マンダーラは言葉に少し遅れて、わざとらしい作り物の笑みを浮かべた。