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リアクション
【泡沫の光景】
都市が役目を終えて、夜を待つ頃合になり、キュアノスは神殿の最上階へと足を踏み入れた。
本来であれば立ち入りは許可されていない身分なのだが、特に咎られたことも無いので、暇を見つけてはここに来ているのだ。
「カナリア」
呼ばれて振り返ったのは、真っ白い髪に青と緑のオッドアイをした幼い少女だ。人形のように整った顔は表情も乏しく、キュアノスをちらりと見上げただけでにこりともしない。そしてその隣では更に表情のない、そっくりな顔が「お久しぶりでございます」と機械のように感情のない声が言った。カナリアと逆で艶やかな黒い髪をしており、目の色も右が緑に左が青と真逆な彼女は、アトラと言う名前以外、キュアノスも詳しくは知らない。
知らないと言えば、何故二人が揃ってこの鳥籠めいた神殿の頂にいつもいる理由も知らない。判っているのは、彼女たちが媛巫女とはまた違う特別な謡巫女であると言うことぐらいだ。だが幽閉されているという風情でもなく「元気だった?」と尋ねればこくりと頷く仕草の愛らしさの前には些細なことだ。アトラの方は挨拶だけして奥へと引っ込んでしまったが、カナリアはじっとキュアノスを見上げて首を傾げている。
「ちょっと“お友達”の顔を見に来たのよ。退屈してるんじゃないかと思って」
その言葉にも、カナリアは首を傾げているが、そうやって反応を返すようになったのも、友達と言う単語を理解してくれたらしいのも、最近のことだ。段々懐いてくれるのが単純に嬉しい。
「歌って、カナリア。私はお前の歌、好きよ」
ほんの僅かにだけ目元を緩ませる、花が綻んだようなその顔にうっとりと見惚れながら、キュアノスはその小さな見た目からは想像できないような深く遠く紡がれる歌声に聞き入ったのだった。
「……物好きなことでございますね」
その歌声を聴きながら、ぽつりと音を漏らしたのはアトラだ。その隣には、それより前から訊ねてきていたらしいアジエスタの姿がある。聞き覚えのある深い音に耳を澄ませたその顔には不思議そうな色があった。
「カナリアが歌っているのか?」
「客人が参られているようですので」
律儀に答えると、アジエスタは珍しそうに目を瞬かせた。
「珍しいな、あの子に客人なんて」
アジエスタはそう言うが、アトラにしてみれば自分の方を訪れた人間の方が珍しい。カナリアはティユトスとアジエスタにティーズが引き合わせた経緯もあって、それなりに外部に名前を知られているようではあるが、アトラの方はビディリードの厳重な管理がなされている。蒼族であるキュアノスは兎も角、紅族であるアジエスタがここへ訪れることを黙認されているのは、裏があると思えてならず、故にアトラは「……何か御用でございますか?」と首を傾げた。
「私も歌を聞きに来たのさ。君の歌をな」
「物好きなことでございますね……と、言いたい所ですが」
言おうとして、言葉を切る。視線の意味を気付いたらしいアジエスタが、苦笑するようにその目元を歪めた。やはり、先日ふと漏らしたアジエスタの言葉。自由を望むか、と問うた言葉は独り言ではなく、恐らく――取引。
「目的は知っている、と言う顔だな」
「滅相もございません」
似合わず皮肉げな顔をしたアジエスタにアトラは首を振るが、その視線は後ろめたさを隠すようにそっと逸れた。アトラも逆らわずにそっとその視線を神殿の外へと向ける。
「……全ては、ティユトスのためだ」
「存じ上げております。わたくしも、わたくしのため、で御座いますよ」
そんなアトラが見下ろした先では丁度、神殿に仕える巫女たちがその役目を終え、神殿の宿舎に、或いは自宅への帰路につこうとしている所だった。
謡巫女は才覚によってその役目につく。そのため、年齢も地位も千差万別で、パッセルのように貧民街出の者もいれば、ルスキニアのようにいかにも育ちの良さそうな女性もいる。そんな彼女等の周りを動き回っているフェンラスは、対パッセル相手に、何敗目だか判らないナンパの最中だった。
「いい加減纏わりつくと、ビディリード様にチクッてやるですわよ?」
敬語を使ってはいるが、苛立ちのおかげでそこはかとなく地が顔を出しているが、フェンラスは構わずにへらっと笑う。
「やだな、纏わりつくなんて。オレはただお前のこと可愛いね、って言っただけだよ?」
「嘘くさくって匂うっつってんの、ですよ」
首を傾げるフェンラスの素振りにも、パッセルは舌打ちを堪えたような顔だ。事実、こんな調子でこの男が巫女に片っ端から声をかけ、あのティユトスにさえ眉を寄せさせた経歴の持ち主だ。何よりパッセルが気に入らないのは、何故かこの男に自分と似た気配を感じることだ。そしてそれは、フェンラスの方も同じだ。
「お前もさ、そんな似合わない猫かぶりを止めればいいのに」
小さくぽつりと言った声の意外な低さに、パッセルは目を瞬かせ、直ぐに皮肉に口元を歪めた。
「やっぱり、そっちがアンタの本性か。こそこそと探り入れるのは結構だけど、パッセルの邪魔をするなら容赦しないからね」
囁くような声に、フェンラスは食えない顔でにっこりと笑う。パッセルは舌打ちしたが、そんな様子を遠巻きに眺めていたリュシエルは、その青の瞳を切なげに伏せた。
実情はどうあれ、普段は少々難しい所のあるパッセルに、めげずに声をかけるフェンラスの態度は楽しそうにも見え、二人の様子ははたからは仲が良さそうにしか思えない。
「矢張り……フェンラス様のような方には、パッセル様のような方がお似合いなのです」
まるで自分に言い聞かせているような声音は、誰に聞き取られることも無い、と思っていた。何時ものようにその小柄な体を柱に隠して遠ざかろうとしていた、その時だ。
「誰と誰が、お似合いなの?」
ひょいと顔を覗かせたのは、いつの間に近づいたのか当のフェンラスだ。驚いて目をまん丸に見開いたリュシエルが言葉を出せないでいると、フェンラスはちょっと笑った。
「残念ながら、また振られちゃったところだよ」
「そ、そうですか……」
返すリュシエルの声は、ひっくり返らないので精一杯だ。そんな反応に目を細めながら、そういえば、フェンラスは話題を変えた。
「ティユトス様と、あの賑やかなお嬢さんたちは、どこ?」
「まだ神殿におられます……おそらく、また……その」
言い辛そうなリュシエルの反応に、ああまたか、と苦笑してかしかしと頭をかいたフェンラスは、肩を竦めるとひらりとリュシエルに手を振った。
「様子見に行って来るよ。後で時間が空いてたら、お茶でも」
そう言ってフェンラスの向かった先では、二人が「また」と言うほどに見慣れた光景が展開していた。
神殿の最も重要な場所である中央大聖堂。その名に反して装飾などは殆どない代わりに、床一面に描かれた文様が織り成す魔法陣、それぞれが意味を持った石碑が取り囲んだその中央は、巫女達がこのポセイドンを守護する龍、ポセイダヌスへ歌を捧げるためだけに作られた場所だ。そのもっとも中心に座す姫巫女ティユトスに、真っ直ぐに指を突きつけているのはトリアイナ・ポセイドンを名乗る黄族の巫女だ。青いロングの髪を振り回しながら「そこをどきなさいと言ってるの!」と声を上げた。
「わたしこそが、ポセイダヌス様の想い人、「薄倖のトリアイナ」の生まれ変わりなのよ! あなたではなく!」
右目に包帯を巻いた姿でそんなことを口にしたその少女の本名は、マリナ・エナリオス。名乗っているのは当人曰く偽名ではなく魂の名だそうだ。が、伝説にある龍の想い人「薄倖のトリアイナ」の転生はティユトスで間違いがない、と龍自身がそう言った以上間違いないのだが、この少女はどうしてもそれが認められないらしい。
「そりゃあ、姿はトリアイナ様瓜二つだけど、それなら天狼さまもさまもいらっしゃるわ。つまりあなたは、姿かたちとその歌でポセイダヌス様を惑わせているだけ」
そう言って、びしりと突きつけた指先を更にずずいとティユトスに向かって伸ばすと、どう反応したら良いのだろう、と言わんばかりに苦笑を浮かべるティユトスをぎろりと睨みつけた。
「そうはいかないわよ。あの方の心は、必ずわたしが取り戻して見せるわ」
そうして、実はまだその場に留まってまどろみの中にあった龍ポセイダヌスを振り返ると、うっとりと一瞬眺め、続いてティユトスを睨みつけて、とくるくると表情を変えると、すたすたと神殿を後にしたのだった。
「ふふ……相変わらず、元気な方ですね」
小さく笑みを漏らしたのは、遠巻きにそれを見ていたルスキニアだ。おっとりとした物腰に、ティユトスも少し表情を緩めると「そうですね」と頷いた。彼女の言葉の殆どは、彼女自身の空想の世界であることは承知の上だ。その運命の重さを知らずに、と周囲の巫女も最初は咎める者もあったが、邪気のない物言いのせいか、ティユトスも次第に慣れてきたし、ポセイダヌスの方もはっきりとした好意を向けられることへの好奇心なのかどうか、僅かばかり面白がっているような気配があって、今では止める者も無い。
「憧れなのか、本気なのか……でも、失礼かもしれませんが、微笑ましく感じます」
ティユトスが言うと、ルスキニアは遠ざかっていたその小柄な背中の去って行った方を見やって、ほんの少し目を細めた。
「……あんな風にはっきりと愛情を表現できるのは、少し羨ましくもあります」
呟くような小さな声だ。ティユトスには聞こえなかったらしく首を捻るのに、誤魔化すようにルスキニアは首を振ると、ティユトスが神殿の外へと消えていくのを待ってその視線を奥へと戻した。
聖堂の中央に設えられた、ポセイダヌスの仮の体が寛ぐための台座には、均整の取れた体を気だるげに横たえる黒髪の青年が居る。不意にまどろみから醒めたらしいその美しい碧の目が、その足元に跪いたエルドリースに声をかけているのが見えた。人形のように表情のないその青年は、神殿の中で動けない龍の代わりに、手足となって動く従者だ。全ての色を失ったような白い髪と瞳の青年を足元へ侍らし、巫女の歌の与えるまどろみに寛ぐその姿は、絵画を見ているかのようだ。
本来の身体は既に何千年と生きた古い龍だと言うが、顕現する姿はいつもあの黒髪の青年の姿だ。薄倖のトリアイナとであったときの姿を今も維持していると言うが、その美しさにルスキニアはついその目を奪われてしまう。
「龍とは、なんて綺麗な生き物なのかしら……」
呟いたが、叶わぬ思いだとは判っている。か細く溜息を吐き出したルスキニアに、エルドリースはちらりと視線を向けると、無言で近付いて肩を叩いてその背中をポセイダヌスに向けて押した。
『…………歌を所望する。捧げよ』
エルドリースの口から漏れるのは、本人ではなくポセイダヌスの声だ。単純に、再びまどろみに落ちるための子守唄を求めたような気紛れさなのだろうが、ルスキニアは心臓を押さえつけながら頷き、その傍へと足を寄せる。
そんな背中を遠目に見送り、丁度ティユトスと入れ替わるようにして通り縋ったリーシャは、不思議な感覚でエルドリースの方を見やった。
その青年は、はっきり言えば不気味な男だった。人間離れした容姿もそうだが、色素と一緒に感情までごっそり抜け落ちたかのような存在だ。龍の眷属と言っても良いだろうその青年を、イグナーツやビディシエは苦手そうにしていたが、リーシャは実のところ不思議な親近感を覚えていた。
龍に仕え、その身の全てを捧げて尽くす人形。それは、龍と巫女の為にリーシャと言う個を抹消した自分に 良く似ている。
リーシャは知らない。官吏の身で影武者に選ばれた理由も、影武者を必要とする理由も。
そして動けない龍の目となる筈の、目の前のこの青年が、リーシャが影武者であることに気付いていないことも、リーシャはまだ知らないのだった。
同じ頃、イグナーツが足を止めたのは、その少女がじっと妙な熱心さで何かを見ていたからだった。
「どうしたんだい?」
声をかけたが、ネフェリィはイグナーツを一瞥すると、無表情のまま視線を戻した。
少女のそんな態度は何時ものことだ。気にせずネフェリィの視線の先に目をやると、丁度エルドリースとリーシャが並んでいる所で、イグナーツは思わず眉を寄せた。
「龍器か……」
その単語を耳に挟み、ネフェリィが僅かに顔を上げた。知らない単語だ、とその顔に書いてあるのに、イグナーツはほんの少し諮詢してから説明を続けた。
「ティーズ様のご家系には、必ず一人あいった見目の子供が生まれるんだよ。生まれながら龍の影響を強く受けるらしくてね、ああして声を受け、手足となって動くのを役目にする器だ」
その声に苦く悲しい音を拾って、ネフェリィはエルドリースを再び眺めた。ティユトスを、正確にはその魂を望み、それ故にこの都市を守りながら、一方でその約束の為に父ティーズに、黄族に苦しみもまた架して来た龍の、その器。ティーズのことを誰より親身になって心配しているイグナーツにとってみれば、かの青年もまたティーズを苦しめる要因のひとつとして、余り良く思えないのは当然だろうか。あるいは、そんな風に人を器にすることへの憤りを覚えているのかもしれない。だがその優しい憤りは、この心の中に宿る憎しみと、どちらが上だろうか。
そんなことを胸に秘めながら、ネフェリィは相変わらずの無表情で、龍の器たる青年を……そしてそこに繋がる龍、ポセイダヌスのことを眺めていたのだった。
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