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【真相に至る深層】第三話 過去からの絶望

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【真相に至る深層】第三話 過去からの絶望

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【目覚める蛇と、絶望の宴】




 その頃、神殿は酷い混乱の渦中にあった。

 蒼族が主を失って迷走し、説得に応じようとしないビディリードの配下の騎士達はそのまま、殆ど捨て鉢のようになって神殿を占拠にかかったのだ。その混乱を更に煽るかのように、茜色、藍色両騎士団の防衛を抜けたのか、それとも別の侵入手段があったのか。ついに幾らかの半魚人たちが神殿へと到達を果たしており、敵と味方と、全てが闇の中で入り混じって蠢いている。
 あるものは敵を全て倒すべきだと思い、あるものは絶望に剣を捨て、あるものは最後の希望に縋るように、龍と巫女への慈悲を乞う声を、或いは呪詛を吐き出した。誰もが、自分が何をするべきなのか見失って、不安な心に滑り込んでくる暗い囁き声に抗えなくなりつつあった。
「……! あれは、巫女だ!」
 叫ぶ声がし、騎士の格好をした男達が、ティユトスたち一行へと迫ってきていた。暗がりのせいで判り辛いが、どうやら蒼族ではなく、黄族の親衛隊だ。だがその殺気立った空気は、彼女を守るためのものでは無さそうだ。巫女の命を捧げれば、龍は再度の永い時を、この街の守護者として生きる――そんなどちらにかけられたのかも知れない呪いのような言葉が、平常心を失った彼等の心に囁きかけられているように見えた。
「不味いな……ここで足止め食ってる場合じゃないってのに」
 ここまでも、バルバロッサと共に大分体力を使ってきているのだ。アルカンドが軽い舌打ちと共に剣を構えたが、それを遮ってバルバロッサが前に出た。
「その通り。ここで足を止めてはなりませぬぞ、一同」
 ぱし、とその拳を叩くと、一行の壁になるようにバルバロッサは足を止めた。
「おい!」
 アルカンドは咎めようとしたが、それより早く「貴殿はティユトス様を」と、バルバロッサの厳つい顔がにっと笑うと、誰が止めるよりも早く、その巨漢は敵の方へと飛び込んでいった。
「ティユトス様あああ! 暫しの間お暇を頂きますぞおおおお!!」
 雄雄しい咆哮が響き、鈍い音が続く。元々巫女とは思えない体格の男だったが、振るわれる拳も、相手を蹴散らす激しいぶつかり合いも、戦士そのものだ。だが、幾ら頑丈とは言え、相手は本職の戦士なのだ。ティユトスが顔色を変えて咎めようと手を伸ばしたが、その腕を横から掴む手があった。ようやく駆けつけた、天狼だ。バルバロッサに駆け寄ろうとしたティユトスの腕を引いて押し留めると、駄目だ、と首を振った。
「バルバロッサの志を無碍にするな。こっちだ」
 そうしてその腕を引き、天狼は道すがらに敵対者を排除してきたのだろう、人気の無い通路を通って、天狼
はティユトス達を誘導していく。既に彼女達の行こうとしている場所を、察知しているようで、その足は迷い無く龍の心臓に直結するといわれている、神殿の最高機密……心殿へと向かっていく。
「龍は倒せる。心臓を押さえれば、都市は人のものだ。貴方は解放される」
 その語る口調も、説明も、ビディシエの語った通りの言葉を口にしているだけのようにも聞こえたが、それだけティユトスを解放することだけを思っていたからだろう。
「ですが、お姉さま……」
 ティユトスは何か言いかけたが、天狼は悲しげにその顔を見やった。
「貴方が、何を考えているかは知っている……だが、私は、貴方を失いたくないんだ」
 その言葉は、天狼だけではない。アルカンドや、他の親しい者達全ての言葉だと、ティユトスにもわかっていた。だから、その腕が引く力に逆らえなかった。その手が導いて行く先で、自分が何をしようとしているのか、優しい姉が知らないことも、判っていながら。



 だが、それぞれの決意のもとに辿り着いた、龍の心臓へ繋がるべき場所である“心殿”は、ティユトスたちが予想だにしていなかった光景が広がっていた。
 そもそももこの場所は、このポセイドンにあって、黄族の、しかも長に連なる人間しからその存在も場所も知られていないはずの場所だ。居る筈の無い人間の姿と、その場所に響き渡る“縛りの歌”と、室内を満たす異様な気配に、ティユトスは眉を寄せた。響いている歌は、恐らく最上階にいるアトリとカナリアのものだろう。こちらはアジエスタとビディシエが始めた計画によるものだと判ったが、中心で紅族の巫女であるオゥーニが口ずさんでいるのは、龍ではなく邪龍へ向けられたものだ。縛りの歌の節を変え、独自にいびつに歪められたそれは、邪龍の解放を願い謳う、恐ろしいものだ。これではまるで、とティユトスは眉を寄せた。
「オーレリア様、これは何のおつもりですか?」
「見て判ろう? 龍の心臓を縛るのよ。邪龍の邪悪な気は、ポセイダヌスには毒であるからの」
 珍しく強く咎める語調のティユトスに、オーレリアはくつくつと喉を震わせた。見れば、この場に繋がる他の石盤も既に全てが起動し、心殿の中に設置された石盤の類と全て正常に接続を終えているようだ。心殿の中央の空間に向けて、目視できるほどの力が動いている。こうして一度集約された力を、神殿そのものを楔として龍の心臓へと打ち込むのが、この神殿……心殿の本来の機能なのだ。本来ならば、直接歌を届けることで龍を癒し、眠らせるために存在し、利用されている機能だが、神殿の裏の存在理由として龍の心臓へ「縛りの歌」すら届かせることができる機能としても働くのである。
 更には、塔が龍との接続を断っても、それとは別にこの神殿は、龍の心臓そのものとして繋がっているが故に、その力を引き出し、利用することが未だ可能で、それはつまり、都市の結界を連動して起動させることもまた、可能だということでもある。
 だがそれは同時に、半魚人に犯されつつある都市への加護を、一時とは言え完全に失わせてしまうことでもある。塔の停止している今、龍の執着による恩恵を受けてこそ、二つの騎士団は何とか持ち堪えているのだ。
「そのために、都市を犠牲になさるおつもりですか? オーレリア様は、現状をご存じのはず。今龍を縛ってしまえば、都市は半魚人達の手に落ちてしまいます」
「構うものか。龍は手に入る……直ぐに我等が手に戻せよう」
 ティーズに良く似た威厳を見せるティユトスに、オーレリアは僅かに目細めはしたが、その口元は歪んだ笑みが満ちていた。
「龍も本望であろうよ。これで離れずとも済むのであるからの……永劫に苦しむであろうが」
 喉を引きつらせるかのような笑いは、ぞわぞわと聞く者の背筋を冷たくさせた。その変色した瞳といい気配といい、既にオーレリアもその周りにも邪悪な何かに満ち始めているのを感じながら、ティユトスはその傍らの義理の妹へ複雑な視線を向けた。
「ネフェリィ」
 オーレリアは、貴族の頂点の一角ではあるが、黄族ではない。故に、彼女がここにいることや、心殿の起動を実際に行ったのは誰であるのか一目瞭然だ。勿論、ネフェリィ自身も、それを悟られることは百も承知で、隠れることもなく堂々とティユトスの前に立っていた。
「黄族は、お義父様は長い長い間、龍に苦しめられてきたのです。せめてその分だけでも龍には、長く、永く苦しみにのた打ち回ってもらわねば……」
 その声に混じる、養父ティーズへの親愛と思慕に、ティユトスは眉を寄せた。ティユトスもまた、ティーズの苦悩は良く知っている。望まない結婚に、そうして生まれた自分の娘を差し出さなければならない葛藤、それらはずっと父を苦しめてきたのだ。想えばこそ、それが元凶への憎悪へと摩り替わる気持ちに、納得してしまう。同調しかけてしまう。だがそれは、駄目だとティユトスは首を振った。
「お父様は、この都市を守りたいのです。それを――」
 無駄にしては駄目だ、と言いかけた言葉はオーレリアの高い笑い声にかき消された。
「く、くくく……ッ、あやつは違う。そうではない……ただ弱かったのよ。役目から逃げることも、立ち向かうことも出来なんだ、ただの臆病者ぞ」
 その声に侮蔑ともっと深いものを感じて、ティユトスが表情を険しくすると、その意を汲んだように、アルカンドが前へ出た。すると此方も、それを阻むようにするりとアトリが前へ出る。
 一触即発のムードの中で、オゥーニの歌はますますその力を増し、ただでさえ暗がりの室内を更に深い闇色に染めていく。隠し様の無いほど、黒く染まりあがった左腕をティユトスに向かって差し出しながら、オーレリアは甘い声色で口を開いた。
「大人しく、逃げて回っておれば良かったであろうにの……そなたという鍵が自ら来てくれるとは」
 ぞくりと底冷えのするような声と共に、空気がじわりとその圧を変える。アルカンドがティユトスを庇いながら、じりり、と後ろへと下がった。その時だ。
「なかなか楽しませていただきました。ですが、もうお役御免ですね」
 場にそぐわないような、涼やかな声が割り込んだ、次の瞬間。
 唐突に、オーレリアから笑みが消えた。
 振り返ったオーレリアが、ありえないものを見た、と言う目で背中を見つめる。続けて、様子の可笑しさに振り返ったアトリが顔色を変えた。歳を経ても変わらない妖艶な肢体を飾る深い褐色の衣装の、大胆に開かれた背中に、灯りを受けて鈍く光る刃が突き立っていた。
「権力闘争だけで収めておけばよいものを。女の嫉妬は行き過ぎるから……始末に終えない」
 続く声は酷く落ち着いた声で、溜息の混じった呆れたようなディアルトのものだ。とてもではいが、今オーレリアを背後から貫いたとは思えないような声は、肩を竦めた後も続いた。
「……ッ、オーレリア様!」
 アトリが慌てて踵を返し、駆け寄ったが遅い。すいっとディアルトは後方へ下がると、殺気を込めて蹴りだされたアトリの足をかわし、引き抜いた剣の血を拭いながら「しかし、少し遅かったですかね」と小さく呟いた。
 どういう意味かは、問うまでもなかった。背中から致命的な一撃を受けていながら、オーレリアの体から噴き出た血はほんの僅かで、今も何の支障も無い様子で立っている。そのくせ、大袈裟に肩を竦めると「痛いではないかえ」と嘆いて見せた。
「最後まで影に動くか、ディアルト……しかし、くくく……嫉妬の何が悪いかの?」
 笑う声と共に傷口から溢れたのは、黒く淀んだ霧のようなものだ。それは空気を侵食するようにオーレリアの体ごと周囲を包み込んでどんどん気温を下げていく。それは、オゥーニの歌と交じり合うようにして輪郭を描き、ついに「それ」は表へと現れた。
「“それは妬み、それは愛情……愛するが故に憎み、憎む故に愛するのではないかの……?”」
「……『嫉妬せし蛇リヴァイアサタン』」
 それは古に「薄倖のトリアイナ」が封じた筈の邪龍の名だ。
「……蝕まれていらっしゃったのですね、オーレリア様は……」
 ティユトスが堅い声で呟くと「ええ、その通り」と涼やかな声が滑り込んだ。
 一同がばっと振り向くと、オゥーニが嫣然と微笑んでいるのが見える。闇に飲まれたオーレリアと違い、その姿はどう見ても普通の巫女のままなのだが、それが逆に、見る者の心をざわつかせた。反応の遅れたティユトスの腕を、オゥーニとオーレリアの手が掴んでまるで抱きすくめるようにして引き寄せた。
「”さあ、後はその魂で縛るのみ……それで、あ奴は結ばれぬ苦しみを永劫に味わうことになる……”」
 最も愛しい魂のすぐ傍で、けれど決して触れられぬままに、永遠に縛られる。それがどれほど絶望的なことか。そう、謳うように言い、口付けでもしようかと言うほど、2人の顔が近付いた、その時だ。
「オゥーニ……姉さま……?」
 呆然と声を漏らしたのは、駆け込んできたアジエスタだ。目の前に広がった想定外の光景に、同行するノヴィムもファルエストも思わず息を呑む中、オーレリアの左手を愛しげに取ったオゥーニは、指輪の上にそっと口付けた。いまや黒く燐光を湛えたその指輪が、邪龍とオーレリアを繋ぐ媒介であることは明らかだ。邪悪な笑みを浮かべるオーレリアの隣で、オゥーニの表情はいっそ優しげとすら言えるほど柔らかで、アジエスタは無意識にじり、とその足が下がる。
 あれは本当に、自分を愛してくれていた、姉代わりの巫女だろうか。あんな風に笑い、あんな風に他人に触れるような人だったろうか。混乱を深めるアジエスタに、オゥーニは目を細めた。
「見物でしたよ、徐々に狂いだしていくオーレリア様は」
 最初のきっかけは恐らくほんの些細なことだったのだろう。積み重なったそれは、ティーズとの決裂の時に決定打となり、生まれた心の隙間に邪龍が囁いたのだ。指輪を媒介にしたのは、邪龍がそう仕組んだのか、それとも彼女自身の望みだったのかは、今となっては判らない。じわじわと心と体を侵食していった邪龍はついに、彼女の体を食い破るようにしてまでに至ったのだ。それを傍らで見てきたオゥーニは、自らもその邪龍の瘴気に侵食されつつあることもわかっていながら、あえてずっとその近くで、それを受け続けた。どこからがその影響なのか、自分の意思なのかは判らない。だがこうして、こういう形で、アジエスタの前へ立つのを選んだのは、彼女自身だ。
「さあ、オーレリア様。いえ、リヴァイアサタン。時は来ました……この身を供物に受け取りなさいませ……!」
 それは、誰に止める間もなかった。オゥーニの恍惚とした声と共に、ぶわりと吹き出した黒い瘴気の塊のような闇……邪龍の邪気が蛇のようにとぐろを巻くと、その巨大な口を開いて、オゥーニと、その腕にしっかりと掴まれたティユトスの体へと襲い掛かったのだ。
「ティユトス……!!、お姉さま!!」
「―――ッ!!」
 アジエスタが叫び、天狼が飛び込んだが、遅かった。質量を持った闇は、ティユトスの前へ出た天狼に喰らいつくと、その牙でごきりと胸元をへし折ると、そのまますり抜けるようにしてティユトスの身体へと覆いかぶさる。
「……ッ!!」
 ティユトスの唇が、天狼の名を呼んだが、音は出なかった。ティユトスを助けるために、その命を犠牲にさせないためにと戦った筈が、自らの手で彼女を死地へと運び込んでしまったのだと、悟った時には既に全てが遅かった。引き千切られた体の痛みに、叫びを上げる暇も無く、塗りつぶされる意識の中で、ティユトスがその闇の中に飲み込まれていく姿を捉えた。
(ティユトス……ティユトス……!)
 無念に歯噛みし、後悔が胸を焦がす。妹を助けたいと願う執念が、残された力で自らの槍を握ったが、それが天狼と呼ばれた戦士の最期だった。
「……ッ、くそ……ティユトス……!!」
 がしゃりと鎧の音を立てて、天狼が地面に落ちるのより早く、アジエスタと共に、アルカンドも飛び出した。邪龍を纏わせるオーレリアへ向かっていったが、彼女等を取り巻く闇の瘴気の強さに2人の剣は通らず、絶命の名を持つアジエスタも、実体の無い相手ゆえにか、その弱点となるべき場所を見つけられないでいるようだった。今はまだ、ティユトスの身体は、ポセイダヌスの加護があるために、完全に取り込まれてはいないが、それも、時間の問題だ。現状を知らないアトラたちの歌は、今も龍の心臓を縛り続けているのだ。一度起動し始めた石盤を急停止する力はネフェリィにもない。
「このままじゃ……あいつが取り込まれちまう……!」
 焦燥と共に、アルカンドが叫んだ、その時だ。ひゅう、と空を切る音がしたかと思うと、パキンっと小さな音が鳴り響いた。続いて、カチャンと軽い音が床に響くのに、皆が一瞬何の音かと目線をやると、まるで零れるようにオーレリアの指から落ちたのは、指輪の破片だった。 蒼族の騒乱に紛れ、アジエスタ達を追ってきた、オーレリアの騎士ラルゥの切っ先が、正確に指輪のみを砕いたのだ。
「オーレリア様は、返してもらうぞ……!」
 ラルゥがそう口にするのと同時、侵食の要を失った邪龍の瘴気は、一気にオーレリアの体から噴き出すと、一瞬苦しげに身悶えた後、ぐるりとラルゥを向き直った。
「”……もう遅い……我は、復活し、ポセイダヌスは我が縛りの渦中へと堕ちた……”」
 邪龍の声は笑うが、ラルゥは負けじと口元を引き上げ「どうかな」と挑発的に言った。
「ならば何故、その身体は不完全なのだ? ……君はまだ、媒介なしで顕在できる状態ではないのだろう」
 それが図星だったのか、それとも単に苛立ちか、あるいはその魂を喰らおうと思ったのか。いずれにしろ、邪龍はその口を開いて、ラルゥへと襲い掛かる。が、それこそラルゥの狙いだった。
「君は、私と一緒に、ナラカヘ行くのだよ……!」
 その口が、牙が、ラルゥの身体へと喰い込むと同時、引き剥がすまいとばかりに抱き込むと、ラルゥは自分の砕いた指輪の一部を飲み込んだ。先程まで媒介であった影響だろうか、瘴気がそれに引き摺られるようにして、ラルゥの中へと染み込んで行く。
「”貴様……っ”」
 邪龍の声が僅かに歪む。だが、当然ラルゥの身体で全てを受けいられる筈がない。押しつぶされるようにして意識が遠ざかっていく中で、ラルゥの脳裏には数日前のオーレリアの姿が過ぎっていた。

 それは、紅の塔の、オーレリアの部屋だった。
 椅子に腰掛けたオーレリアの横顔は、久しく見られなかった落ち着いたもので、最初にその剣を捧げた時の事を思い出させた。今も、昔も、たとえオーレリアの心が変わってしまったとしても、その時の誓いは変わることは無い。その思いに、気付けばラルゥはその日と同じように、跪いてオーレリアの手を取っていた。
「オーレリア様、いつまでもラルゥはおそばに居ります。何が起ころうと必ずあなたを守ります。必ず……」
「左様か」
 オーレリアの返答はそっけないようだったが、その目線の穏やかさは、彼女から向けられる最大の信頼だと知っている。果たして、目元を緩めるようにして細めたオーレリアはふふ、と喉を鳴らした。
「そなたがいるならば……妾は妾で、いられようよな。妾の太陽よ」」
 囁く声は甘く、優しい。胸を満たす思いに、ラルゥはオーレリアの膝に顔を埋めた。
 オーレリアの指先が、ラルゥの黄金の巻き毛を撫でる。その心地は、今になっても甘くラルゥの心を満たす。
「…………オーレリア、さま」
 あの日の、あの指先を求めるように、ラルゥはその手をオーレリアに伸ばし、しかし結局は――届かずに、邪龍の瘴気の幾らかを道連れにするようにして、ぱたりと床へと落ちたのだった。

 そして。
「…………ラルゥ」
「……! オーレリア様!」
 邪龍が自身の削られた苦痛に悶えている中に、ぽつり、と漏れた声に、アトリがぱっと絶望に濡れかかっていた顔を上げた。呟いたオーレリアの声は、聞き慣れた声をし、瞬いたその目は「毒の貴婦人」たる彼女の目を取り戻している。それを感じ取ったのだろう、アトリはすぐさま跪き、ディアルトもそれに倣った。
「蒼の塔は、既にビディシエが動いておるだろう……アトリ、紅の塔を再起動せよ。ディアルト、共に行き、道を拓け」
「はい……!」
 アトリは涙ぐまんばかりの勢いで応じた。
 オーレリアがおかしくなっていってからも、信じていた。自分の仕えるこの主が、必ず邪龍すら押さえ込んで正しく命令を下してくれることを、ずっと信じていたのだ。そして今、信じたとおりの主がここに戻ってきたのだ。
 本当は、その背に受けた傷が消えたわけではないことも判っていたし、邪龍に蝕まれていた体が無事である筈が無いことも、理解していた。けれど、アトリはその命令のままに踵を返し、ディアルトと共に駆け出したのだった。
「だが……既に、封印の礎は完成してしもうておるようだの」
 その背中を見やりながら、オーレリアは苦い呟きをもらした。
 龍の加護によって、ティユトスはまだ完全には命を落としてはいないものの、オゥーニの魂は今も縛りの歌を歌い続け、巫女の魂を龍の中に縛りこもうとしているのだ。増幅されたその歌は既にポセイダヌスの心臓へと到達し、足元から伝わってくる不気味な震動は、ポセイダヌスが邪龍に侵食されかかっている証拠だ。
「このままでは……」
 アルカンドと共に、瘴気の塊とも言うべき邪龍と対峙しながら、アジエスタの顔に焦りが浮かぶ。
 その時だ。
 響いていた縛りの歌に、柔らかな声が混ざりこんだ。リュシエルの歌声だ。
 ポセイダヌスではなく、邪龍へと向けられた歌が、柔らかな音で、しかし強い意思を感じさせる声で紡がれていく。その声の光一つ一つが、邪龍の瘴気を逆に蝕むようにして霧散させ、輪郭を削られたリヴァイアサタンが身悶えるように闇の凝り固まった体をばたつかせた。
「”お……のれ、なんだ、この歌は……!”」
 ポセイダヌスを縛る歌は、龍を縛る歌だ。当然、その存在は違えど、同じ龍に属する邪龍にとっても、自身へ直接向けられたその歌の影響は避けられないらしい。ぶわりと膨れ上がった瘴気が、その歌の出所目掛けて一斉に噴き出されたが、逆流してきた邪悪な気にその体を、魂を蝕まれていくのを感じながらも、リュシエルはその歌を止めようとはしなかった。
(ほんの少しでも、邪龍を抑えられれば、ポセイダヌス様が動くことが出来る筈……っ)
 命を無駄にしているつもりは無い。ただ、自分に出来る精一杯のできることをするのだと、リュシエルは更にその歌へと魂を込めていく。その歌で僅かにでも誰かを救えるように、皆を救えるように。そうしてこそ初めて、自分が彼に――フェンラスに、拾われた意味がある。
(できるなら、最期にあの人の笑顔を見たかった……)
 そんなリュシエルの魂そのものとなった歌へ、更に折り重なったのは、ティユトスを守ろうとするトリアイナの歌声、そして、パッセルの魂だ。
 親友を思う暖かな歌に、ビディリードへ対する裏切りに、マヤールによって命を断たれたパッセルの魂が紡ぐ悲しい歌が、絡んでいく。
(ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい…)
 ビディリードが全てを投げうって叶えようとした悲願を、最後の最後で裏切って、台無しにしてしまったこと。失って初めて気付く、ビディリードへ抱いていた深い愛情。そして、同じようにビディリードを愛したマヤールに、自身を手にかけさせてしまったことや、嫉妬の心を喰われて、己のしたことへの後悔が歌へと溢れて、ポセイダヌスへ侵食しようとする邪龍を縛った。
「”……ぐ、き、さまら……、その歌を……ッ!?”」
 そうして、重なる巫女達の魂の歌に押さえつけられた邪龍は、その戒めを破り去ろうとした瞬間、自身を更に内側から締め付けるものの存在に気がついた。姫巫女ティユトスではない。彼女はまだ、取り込みきれていない。内側からその魂を、縛りの封印に絡み取らせようとしていたのは、オゥーニだ。
(……さあ、私を、殺しなさいアジエスタ。殺して頂戴、アジエスタ……ほかならぬ、貴方の手で)
 歌は狂気を孕み、深い愛情を纏い、ティユトスの魂までも蝕んで邪龍も龍も諸共に縛りつくそうと根を張っていく。自分へ向けさせようとする執着、そして自分に向けられる恐ろしいほどの執念、アジエスタは躊躇いながらも剣を構えた。本来の剣は、ジョルジェの胸に抱かれたままだが、それで止まるようなアジエスタでもない。多重の歌に蝕まれ、部屋中を暴れ回る邪龍の、瘴気の塊である輪郭の揺らぎへと剣を突き込み、強引に振り払う。実体の無い邪龍に痛覚はないだろうが、龍の骨から作られた戦士たちの剣は、確実に邪龍を抉っていく。
 それは同時に、取り込まれたオゥーニをも抉ることであり、一太刀ごとにその耳に悲鳴が聞こえるような錯覚を覚えながらも、アジエスタの剣は止まらなかった。
(姉さま……姉さま……ッ!)
 これは、これも、愛情のひとつの形なのだと「今」のアジエスタには判っていた。ジョルジェが全てを捨てたように、自分も全てを捨てようとしているように、オゥーニは全てを犠牲に、憎まれる事を選んだのだ、と。その手が振るう一撃ごとに、自分の喉が絞まり、胸を切り刻まれるような思いを味わいながら、それでも尚邪龍を、オゥーニを抉って、ついに、その手がティユトスを探り当てた。
「ティユトス、今――……、あ……?」
 が。指先が今まさに触れようか、と言うところで、アジエスタは自分の膝に力が入らないことに気がついた。背中が熱い。続いてやってきた激痛。そして、髪の毛が誰かに掴まれて引かれ、地面へと引き倒されて漸く、アジエスタは自分が刺されたのだと言う事に気がついて、目を瞬かせた。
「……どう? 手が届くと思った瞬間に、失う気分は……最高でしょう?」
「な、ぜ……」
 甘く囁くような声。聞きなれていたはずの声が、嫌に冷たく響くのを、アジエスタは信じられない気持ちで聞いていた。見開いたその視線に映ったのは、自分の流した血でその手を染め上げていたのは――親友である筈の、ファルエストだったからだ。
「知らなかったでしょう……アジエスタ。嫌いだった……わたしはずっと、ずっと前から、あなたのことが嫌いだった……」
 吐き出される暗い言葉に、信じられないといった顔でアジエスタが目を見開いた。そして、背中から突き抜けている短剣も、向けられている感情も、全てが真実であると悟ると、頭の奥をずきずきと冷たいものが突き刺し「どうして」と言う言葉だけが何度も震えながら口をついた。
「アジエスタ!」
 その光景に、ノヴィムは声を上げたが、暴れ回る邪龍がその行く手を阻む。邪魔の入らないのをいいことに、ファルエストは抜き放った剣の先を、倒れたアジエスタの肩へとゆっくりと差し入れた。皮膚がぷつりと裂け、押し込まれた肉がぷつぷつと抉られて、赤い血が床を穢して行く。焼ける様な痛みに、ぐうっと呻いたアジエスタの胸元を踏みつけるようにして押さえ込んで、ファルエストは口元を歪めて笑んだ。
「いいえ……違うわ。今は嫌いじゃないわ。今は好きよ? その絶望に歪んだ表情と震える声、わたしを映す瞳に浮かんだその絶望、その全てが愛おしい……」
 恍惚と漏れる声は、毒をもった甘さで、アジエスタの心を犯していった。口元から血を溢れさせ、涙が浮かぶその顔を、愛しげに眺める親友の手が、より深く体を抉ろうとするように、肩口から斬り降ろす動きで鎧を剥ぎ、脇腹から胸元までを、顕になった肌の上に赤い絵でも描くかのように、深くなぞるようにして剣先が走る。
「がぁ、あ……ッ、あ゛……!」
 皮膚を抉る剣が、胸を辿って左肩へ辿り着くと、そのまま骨の隙間を塗って沈んでいく。わざと抉るように剣先を捻って抜き出された切っ先は、掌に、太股に、柔らかな場所に突き立っていく。そのたびに上がるアジエスタの悲鳴に、絶望を浮かべた顔に、ファルエストの歓喜は増すばかりだ。
「もっと、もっと震えて、もっと歪んで、もっとわたしを見て! 今あなたを殺しているのは、あなたの親友だったわたし! もっとわたしに殺されるという絶望を楽しみなさいよ!!!」
 叫び、もう一撃とばかり、ファルエストが剣を振り上げた、次の瞬間。
「そこまでよ……っ」
 一声。すんでのところで飛び込んだ、アンリリューズの一撃が、ファルエストの背を撫でた。狂気に満ちた恐ろしい顔が、邪魔をする人間を即座に排除しようと振り被り、だが次の瞬間には、その僅かな隙で懐まで潜り込んだノヴィムの剣が、深々とファルエストの心臓を貫いていた。
「……ッ、あと、少……で」
 忌々しげに眉を寄せるファルエストに、ノヴィムは躊躇い無く剣を捻らせえて心臓を抉り抜くと、その血がアジエスタにかかるのも嫌だと言わんばかりに、既に骸となった体を突き飛ばし、アジエスタの体にそっと触れる。呼吸は乱れ、切れがちではあるが、意識はまだある。傷口を押さえ、応急処置を施したが、背中から突き抜ている短剣だけは、どうしようもなかった。
「……どう、なの」
「駄目じゃ……アジエスタ……っ」
 アンリリューズの問いに首を振り、孫娘の惨状に、ノヴィムが苦く声を漏らしたが、嘆くべき事態はそれだけではなかった。
「まずいの……」
 怪我のためだろう、膝を折ったオーレリアが、ぽつり、と漏らした。
「“く……くく、く……無駄な足掻きだ。嫉むものよ。自ら、破滅を呼ぶものよ……これで全ては、我のものだ……”
 ポセイダヌスは契約と想いに縛られて、巫女の魂に食い込むようにして編みこまれた縛りの歌を破ることはできず、都市を見捨てることができない。二つの塔と都市との接続が切れた今、邪龍の影響を超えて空気の層を維持することと、半漁人の侵攻を抑えきるには、その負担は大きかったのだ。リュシエルたちの魂がまだ邪龍を押さえ込んではいるが、それも時間の問題と思われた。


 だが、まだそこで全ての終わりでは、なかった。