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【カナン再生記】東カナンへ行こう!

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【カナン再生記】東カナンへ行こう!
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第4章 イナンナの聖別

東カナン領主居室――

(あれは…?)
 流した視界にふと庭で動くものを見て、バァルは剣帯を佩こうとした手を止めた。
 バルコニーが邪魔をしてよく見えないが、柵の間からちらちらと動く人影が見える。じっと目をこらして、それが見知った顔であることに気づき、ああと腑に落ちた。
 そういえば、今日はシャンバラ人たちが来ることになっていたんだった。すっかり準備に忙殺されていて、忘れきっていたが。もう着いていたのか。
(セテカたちが出迎えることになっていたはずだが。一体あそこで何をしているんだ?)
 もっとよく見ようと窓を開く。
 風に乗って、かすかに彼らのはしゃぐ声が聞こえてきた。何を言っているかまでは分からないものの、楽しげに談笑しているのは分かる。
 じっとそちらに注意を向けていると、やがてバァルにも分かった。彼らはあの子の墓碑前で宴会をしているのだ。
 ときおり花に埋もれた墓碑に向かって話しかけ、笑いかける。その姿を、不謹慎だとは思わなかった。むしろ好ましい思いで見つめる。
 あの子はさびしがりやだったから。ああしてたくさんの人に囲まれて、話しかけてもらえて、きっと喜んでいるに違いない。
 そう思いつつ、腰に飾り剣帯を佩いた。長剣の鞘や柄に施された金銀の象嵌と合わせた、きらびやかな一式だ。
 あとはテーブルの上の白手袋をつければ礼装は完了だと、そちらを振り返ったとき。
「シャンバラの人たちって、本当にやさしい人たちよね」
 傍らに歩み寄った歳のころ15〜16の女性が、同じように庭を覗きながらつぶやいた。
 身体的な歳だけを見れば少女なのだが、その動作、表情、おちついた声音が、彼女を「少女」のひと言では現せない存在にしている。
 なぜなら、ある意味彼女は「女性」でも「少女」でもない。唯一無二の存在――女神イナンナなのだから。
「――よかったら、彼らに加わってみてはいかがでしょう? きっと楽しめると思いますよ」
 バァルの提案に、イナンナは彼を見上げた。
 ほほ笑んではいる。言葉も、声も、穏やかだ。だが違う。これは以前のバァルではない――セテカの懸念通りに。
「そうね。それも楽しそうね」
「式はまだ、もう少し先のことです。ネルガルとの決戦ほどではありませんが。今は喪中ですから、かなり略式のものとする予定です。女神様はそのときだけでもよろしいかと思います」
「……本当に、いいの?」
 手を伸ばし、髪に触れ、頬に触れた。いたわりを込めて。
「名前以外に知っていることがあるの? その女性について」
 婚約のことは、15年前前領主から報告を受けてイナンナも知っていた。ただ、そのときはバァルのことはよく知らなかった。ただの東カナンの跡継ぎ息子というだけの存在だった…。
「――女神様、祝福をいただけますか?」
 バァルの笑みは揺らがなかった。
 もとよりこれは仮面だ。バァル自身、つけていることを知っているかどうかも不明な。
 それを突き崩せるだけの親密さは、自分たちにはない。そしてそこまで踏み込む権利もまた、自分にはないのだ。これは彼の道なのだから。
 イナンナは、ふうと息をつき、ひざまずいて頭を垂れるバァルの前に立った。
「東カナン領主バァル・ハダド。あなたに女神イナンナより祝福を授けます。善なる光と大地の恵み、神の愛、聖霊の交わりが、いつのときもあなたとともにあるように」
 かがみ込み、彼の頭を両腕で抱きしめるようにして髪に口づける。
「ありがとうございます」
「できるなら本当の姿でしてあげたかったんだけれど…」
 立ち上がり、礼を言う彼を残念そうに見るイナンナに、バァルは首を振った。
「では、そのときは妻と2人でしていただきましょう」
 そう返した直後。
「東カナン領主バァルよ、リリの紹介状を書くのだ」
 内側の壁に当たってバーンと音が出るくらい強く扉を押し開け、リリ・スノーウォーカー(りり・すのーうぉーかー)が現れた。
 ここは領主の部屋だというのに遠慮もない。ずかずか中へ入っていく彼女の後ろには、ルカルカ・ルー(るかるか・るー)ダリル・ガイザック(だりる・がいざっく)、それに葉月 可憐(はづき・かれん)アリス・テスタイン(ありす・てすたいん)も続いていた。
「きみは? それに、何のためにわたしの紹介状が必要なのか」
「リリはリリなのだ」
 北カナンでのエリヤ奪還作戦に参加した自分をバァルが知らないことに、ちょっとムッとなるリリだったが、考えてみればセフィロトへ向かってイナンナのサポートに徹したリリをバァルが知るよしはない。復路ではバァルはエリヤにつきっきりで天幕を離れようとしなかったし、隊は100名近い大所帯に膨れ上がっていた。
「とにかく、紹介状がほしいのだ。ここに来る途中、神殿の神官らしき者たちに遭遇したのだよ。どうやらイナンナ派の神官で、ネルガルの考えに同調しなかったために神殿を追い出されていたらしいのだ」
「本当に!?」
 この知らせにぱっと表情を明るくさせて喜んだのはイナンナだった。
 そこで初めてバァルの横で少女にリリたちが関心を向ける。
「こちらの方は?」
 うーん、と口元に指を当てるダリル。
 彼女そのものではないが、どこか見覚えがあるような気がする……彼女だったか、それともその姉妹か。
 どこでだったか…。
「女神イナンナだ」
「えーーーっ!?」
 バァルの紹介に、5人揃って目をむいた。
「えっ? イナンナって……あの、これっくらいの?」
 と、ルカルカが10歳ぐらいのちびっ子だったころの背の高さで水平に手を振る。
「ほ、ほんとに?」
「イナンナ様ですか?」
 可憐たちも半信半疑だ。
「いや、言われてみればたしかに面影はある……が…」
 あの、どちらかといえば腕白ちみっ子だったのが、こんな将来有望そうな美少女に?
 いきなり育ちすぎじゃないか?
「こんにちは、イナンナ様。先日は……というかもう3カ月も前ですが、お世話になりました」
 真っ先に立ち直ったアリスが、ぺこり、頭を下げる。
「お世話になったのは私の方。この姿になれたのも、皆さんが大地の力を取り戻してくださったおかげです。ありがとう」
「……あ、いえ……その……こちらこそ…」
 すっと頭を下げたイナンナに、あわててほかの4人も頭を下げた。
「それで、あの、リリさん、本当なんですか? さっきのお話は」
「うむ。光の神殿の神官だと名乗っていたのだ」
「ああ…! よかった! どうしているか心配だったの。神殿へ潜入したとき、姿の見えない者たちが何人かいて…」
 もしやと。
 そんなおそろしいこと、考えたくはなかったが、どうしても嫌な想像がぬぐえずにいたのだった。
「どうやら放逐されただけだったらしいのだ。東カナンの辺境の村々に潜んでいたのだが、北カナンとシャンバラ人の先日の騒動を聞きつけ、その中にイナンナの姿があったと知って、通りがかりのリリを頼ったらしいのだよ」
「会いたいわ、彼らに」
「だが、それがはたして本物かどうか疑わざるを得ないな。イナンナを誘い出すネルガル側の罠ということも十分あり得る」
 ダリルの懸念に、リリも頷いた。
「だから連れてこなかったのだ。しかし本物であれば、味方に引き入れて損はないのだよ」
 ちら、とバァルの様子を伺う。
 バァルは先から少し考えこんでいるふうだったが、リリの注目に気づき、視線を合わせると頷いた。
「分かった。もし彼らが本物の神官なら、この城で保護しよう」
「それでイナンナにも頼みがあるのだが、何か身につけている物を借りたいのだ。彼らにだけそれと分かるような物を。イナンナの加護を持つ高僧なら、きっと何か感じるはずなのだ」
「何か…」
 イナンナはふと、髪にあてていた手をもぐり込ませ、右のイヤリングをはずした。
 てのひらに乗せてリリに差し出す。
「これを持って行って」
 イナンナがずっと身につけていた装飾品。それを受け取って、リリはにやりと笑った。
「これは良い試金石を手に入れたのだよ。これを出す前に気付くか、出してからか、それとも目にしても全く気付かぬか。それで器が測れるというものなのだ」
 懐から出した紙に包んで、再びしまい込む。
 リリは、ハダド家の紋章で封蝋された封書――バァル直筆の身元証明書と彼らの身請保証書――を手にすると、もうここに用はないとばかりに来たときと同じくきびきびとした動作で部屋を出て行った。
「それで、きみたちは?」
 部屋に残ったルカルカたちに向き直る。
 一緒に出て行かなかったということは、連れではなかったのだろう。
「ルカたちは訊きたいことがあって来たの。あの石化刑に処された人たちを救う石化解除薬を、量産できないかと思って。もしできるなら、上層部にかけ合ってただちに研究班を派遣してもらうわ」
「量産? なぜ?」
「なぜって…」
「石化解除薬は神殿にある。人質たちの石像も全員神殿にある中で、なぜわたしたちが石化解除薬を持たねばならない?」
 南カナンのエンヘドゥのように別の場所へ移送されているというのならともかく。そしてそのエンヘドゥの石像も偽像で、本物は石化を解除されていたと分かった今、石化解除薬を量産する理由がバァルには分からなかった。
「でも、もし戦いが激化して、不利となった彼らに処分されちゃうかもしれないわ。あるいは盾とされるかも。こっちには必要な薬だけど、彼らにとっては必ずしもそうじゃない。彼らは黒水晶があれば石化解除できるんだから」
 アバドンの隊を襲撃した際、アバドンの持つ黒水晶によって石化解除された者たちがいたとの報告は受けていた。
「たしかに。その可能性がないとは言えない」
「俺には理数的知識、博識、先端テクノそしてR&Dがある。手に入り次第分析し、量産したい。その許可をもらいたい」
 彼らには手に入るあてもなくはなかった。石化解除薬を持ち帰った者がいたからだ。バァルとイナンナの許可が得られれば、すぐさま行動に出られる。
 彼らの熱意に押され、バァルはためらった。これは口にしていいものか……確認するようにイナンナと目を合わせる。こくんと頷いたイナンナに、彼女の了承を得られたとして、バァルは答えた。
「無理だ」
「なぜだ? 必要性は今――」
「そうではない。量産が無理だという意味だ。分析し、作ることはできる。あれはきみたちも持っている、ただの石化解除薬だ」
「ええっ!? でも、いくらふりかけても効果はなかったって聞いたわ!」
「それは、私の聖別がなかったからよ」
「女神の聖別を受け、聖化された石化解除薬でなければ石化刑には効かない、ということか」
「そうだ」
「じゃあイナンナにその聖別をしてもらったらいいのね?」
 それならすぐ量産可能だと、期待に目を輝かせるルカルカに、イナンナは申し訳なさそうに首を振って見せた。
「駄目なの。この借り物の体では…。ごめんなさい」


「お。早かったじゃん。どうだった?」
 遠慮して部屋の外で待っていた夏侯 淵(かこう・えん)が、出てきたルカルカとダリルを見て壁から身を起こした。
「ああ、まぁ――っておまえ、獣くさいぞ。どこに行ってた?」
 それ以上近づくな、とダリルが手を伸ばす。
「厩舎。馬見せてもらってたんだけど…」
 そんなににおうかな? と袖口に鼻を近づけてくんくん嗅いでみる。しかしこういうものは、得てして本人には分からないものなのだ。
 ルカルカの様子を伺うと、こちらもダリルと似たり寄ったりの表情をしている。
「見ただけじゃないな、そのにおいは」
「乗ってきた。すっごくなつっこい子がいてさ。でも、ほんのちょっと、トラックを1周してきただけで――」
 いや、ほんとは2周……2周半かな。
「とりあえず、上着をこれと交換しておけ」ダリルが自分の上着を脱いで渡した。「前を閉じれば大分防げるだろう」
「うん…」
 ぶかいんだけどなぁ、と思ったものの、自分のせいなので文句は言わない。なんだかうやむやにされた気がするが、2人の表情を見れば、話がどう転んだか察しはつくというものだし。
 とりあえず、脱いだ上着は内側と外側を入れ替えて、ぐるぐる巻きにした。これならくささもかなり軽減されるはずだ。それを脇に抱えて、壁にたてかけてあった花束を持ち上げた。
「もう行けるのか?」
「そうだな。――ルカ?」
「……諦めないわよ。結局これって、いいことだもの。薬を処分されたり盾にされたって、イナンナを解放すれば石化解除薬はいつでも作れるってことなんだから」
 なら、もしもの場合を考えて、そのフォローアップをするのみ!
「ああ。そういうことだ」
 新たな道を模索して奮起するルカルカを見て、ダリルはほほ笑んだ。
「だがそれは明日からにして、今は、今できることをしよう」
「そうね」
「じゃあ墓参りだなっ」
 バサッと花束を肩にかつぐ。
 3人は連れ立って、奥庭へ通じる廊下を進んで行った。



 部屋に残ったのは、可憐とアリスだけになった。
 萎縮してしまっているのか、互いにくっついた見るからにかわいい2人に、バァルもつい、笑顔になる。
「きみたちは何の用?」
「あ、いえ」
 バァルに注目され、あわてて可憐は手を振って見せた。
「私たちは、そのう……イナンナ様に、御用がありまして」
「あら、私?」
 てっきりバァルを訪ねてきたのだと思っていたのに。
 脇に退こうとしていたイナンナは足を止め、にこやかに可憐へ向き直った。
「まぁ。よく私がここにいるって分かったわね」
「あ、いえ、まぁ、それは……その……ごにょごにょと」
 ――アリス、アリス、これちょっと受け取ってよ。
 声にならない声でこそこそと、背中に回していた手でダウンジングの針金をアリスに押しつけようとする。
 ――い・や! それ、可憐のだからっ。
 ――ケチっ。
 仕方なし。可憐は片手を後ろに回したまま、体勢の不自然さに気づかれないよう祈りつつ会話を続けた。
「今回はですね、ちょっとだけお願いがあってやってきました。この私に、ハイエロファントとしての洗礼をお与えくださいませんでしょうか」
 カナンの神官の洗礼と聞いて、イナンナの表情から笑みが消えた。
 神官に対する洗礼の儀は神聖なもの。特に女神が自ら与えるとなっては、イナンナとしても軽々に扱うわけにはいかない。
「なぜ?」
「先日いただいお言葉に……もうネルガルのような者を生まないという誓いに偽りがないのなら――その言葉で、洗礼をお与えください。
 私は、その誓いを見守る神官となりましょう。
 その誓いを行使するための力になりましょう。
 誓い破られし時の、反逆の徒となりましょう。
 イナンナ様がその誓いを忘れられぬよう……その誓いの礎となりましょう」
「私が、その立会いとなります」アリスも胸を張って一歩踏み出し、可憐の横に並んだ。「2人の誓いの証人として」