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【カナン再生記】黒と白の心(第3回/全3回)

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【カナン再生記】黒と白の心(第3回/全3回)
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序章 戦争序曲 1

 砂漠であった。
 熱射の照りつける南カナンの中央を覆う砂漠地帯。かつてはそこも緑に溢れた地であったのだろうか。南カナンそのものは復興の兆しがあるものの、いまだそれは全てに至っているわけではない。明け方の冷気に混じる砂漠地帯は、そんなネルガルの支配を改めて痛感させた。
 ほとんど眠らずに夜を越していた一人の見張りが焚き木の火を消したのを区切りに、明け方のどこか紫がかった空を見上げた三人の影が、荷物を駱駝に乗せた。三人ともがローブを身に纏い、フードを目深く被っている。ローブの間から見える衣装は、この付近の村で使用される民族服だ。村人が砂漠を渡ろうとしているとも考えられるが、それにしてはその動作の一つ一つに焦りにも似た緊張が伺えた。
 三人は二つの丘のようなコブの間に跨り、冷気がかかっているうちに先を急ぐべく駱駝の足を進めようとした。
 だが、その手綱を操る手がピタリと止まった。先頭に立つ者が止まったことに習って、後ろの二人も駱駝を落ち着かせる。ついと顔が向いた先……遠い向こうに、何やら粒のようなものが集まっていた。それは徐々にこちらに近づいてくるようでもある。
 三人の中でも一番身長の低い者がくいと首である場所を示した。それは粒の方角にある、三人分でも身を隠せそうな砂丘のくぼみだ。駱駝にはしばし窮屈な思いをさせるかもしれないが、それも致し方ない。すぐに三人は砂丘へと向かった。
 相手から視認されないように可能な限りの注意を払って、途中から駱駝を降りた三人は粒のような影であった集団に近づいていった。するとすぐに、それが神官兵士の列であるということが分かった。遠めから分かる範囲でも兵士の兵装が二部されているのは、神聖都キシュ、そして南カナンの砦にいた兵士たちか。上空を飛ぶのはワイバーンとヒポグリフの部隊だ。
 空中部隊の目があるため、これ以上は近づけない。そう判断して三人の影は兵団が砂漠を渡ろうとしているということを確認するだけにとどまった。
「進行を始めたことは知っておったが、これほど急速に事を運んでおったとはのぉ」
「急がねば……ならないですわね」
 しわがれながらも覇気を持つ秦 良玉(しん・りょうぎょく)の声に、沙 鈴(しゃ・りん)が答えた。彼女の目ははるか東の地を見つめている。
「ニヌアの地は堕ちました。これでヤンジュスも彼らの手に支配されてしまえば……南カナンはもう抵抗の術を持つことはできないですわね」
 鈴の現実を語る言葉に、黙ったままの綺羅 瑠璃(きら・るー)がきゅっと唇を結んだ。この自らが契約を交わした義理の姉の言うとおり、南カナンにはこれ以上、この戦況的不利を脱却する術は残されていなかった。
 敵軍の監視に残っていた鈴たちの有する情報という武器を手にしたとしても、この圧倒的差が埋められるわけではない。そう思うと、綺羅は不安げな瞳を隠せなかった。そんな義妹を見て、鈴は彼女をはげますように強い意思を込めた表情を向ける。
「顔を上げなさい、鈴」
「お姉さま……」
「不安になる気持ちは分かりますが……表に出すことはなりませんわ。この状況にあって自分には何をできるか……その最善を尽くすこと、そしてそのために心を前に向けることが、私たちには必要ですわ」
 叱咤すると同時に真っ直ぐに綺羅を見つめてくる鈴。綺羅は、その目に浮かぶのは彼女の告げた信ずる心のような気がした。
 彼女には、自分に見えないものが見えている。綺羅はそんなことを思った。いや、事実そうであったのだろう。自分が軍人として甘いことはよく実感している。冷静沈着なる視界と認識を持つ鈴に、武芸だけでなく知識と造詣に長けた良玉。二人と自分との違いは、確かにそこに存在していた。
 それがキャリアの違いだけなのか、パラミタ種族としての意識が関係するのか、彼女には分からない。だが……時々怖くなるときがあるのだ。彼女たちに近づこうとすればするほど、軍人というものに自分が侵食されてしまうような、そんな気がしてしまうのだ。
 それはあるいは、この任務中に逃げおくれた民が敵に追われている現場に出くわしたら、二人はどうするのだろうか――そんな疑問に行き着くものだった。
「ふむ……これ以上進めば見つかる危険性もあるの。多少遠回りになるが、迂回して進むとするか」
「それが良さそうね」
 良玉の提案に鈴が頷き、三人は再び駱駝を歩ませてできる限り静かにその場を立ち去った。駱駝は砂漠に適応している上に走ったときの速さは馬のそれに引けをとらない。迂回して回ったとしても、さほどロスにはなるまいと思われた。
 最後尾に続く綺羅が手綱を動かしたとき、鈴がついとそちらを見ていたのは、やはり彼女が心配だったからだろうか。
 もしかすればそこには、綺羅の胸中の思いすらも見透かした軍人としての目があったのかもしれない。……それを鈴が歓迎しているかどうかは、前だけを見つめる彼女の表情からは明らかではなかった。

 駱駝に乗った三人がその場を立ち去った場所からほど遠く――まるで蟻のように群れを成した軍勢を従えるモートの近くには、ある契約者の姿があった。神聖都キシュの援軍の中にいる彼らは、なるだけ邪魔にならぬよう軍勢からは距離をとった場所で話していた。
 どこか不穏な空気が漂う会話の途中で、突然青玉を溶かしたような長髪をなびかせた男が、対面する青年の襟を引っつかんだ。
「お前の短慮が奏音を危機に陥らせている。分かっているのかっ……!」
「……そんな事、俺だって分かってるさ」
 激昂した瞳で見下ろしてくるクラウディア・ウスキアス(くらうでぃあ・うすきあす)の手から逃れるように顔を背けて、天司 御空(あまつかさ・みそら)は弱々しく抗言した。その不遜で優柔不断さを匂わせる仕草に、クラウディアは更に逆上した。衝動に駆られた彼の拳が、御空の頬をぶち抜いた。衝撃に膝を折った御空の襟元を掴んだまま、彼は声を荒げる。
「分かってるだと……! その口でそんなことを言うというんだ。結果はこの様だ。奏音は物言わぬ石化人形となり、俺たちはこうしてあいつの手駒として南の地へと飛ばされた。それも全てお前は分かっていたとでもいうのかっ!」
 普段の端然でありながらも冷徹である彼からは想像できない怒りに、御空は思わず気圧された。それは、彼自身も己のもう一人のパートナー白滝 奏音(しらたき・かのん)を人質として奪われたことに失態と後悔を感じていたからなのかもしれない。それでも、一度選んだ道を引き返すつもりもまた、彼には毛頭なかった。
 それはもしかすればちっぽけなプライドもあったのかもしれない。そんな胸の中で渦巻く感情を振り払うかのように、彼は膝に力を入れ込んで立ち上がると、クラウディアの手を振り払った。
「奏音は……奏音は取り戻してみせるさ……! 絶対に……!」
 御空は睨み据えるようにしてクラウディアを見返した。
 奏音が石像と化して悲しくない? ……そんなはずはない! クラウディアが彼女のことで俺に怒りを向けるように、俺とても、奏音を救いたい。自分が間違いを犯したのだと認める勇気はなかったが、人質にとられた自分のパートナーを救おうと思っていることは、少なくともクラウディアと同じであった。
 そう、少なくとも――それだけは。
「……ふん」
 それを察したのか、不平を抱きながらもクラウディアはそれ以上詰め寄ることはなかった。お互いに触れば破裂してしまいそうな尖った空気から逃れるよう、御空はクラウディアの頭越しに見えていたモートのもとに向かった。
 近づいてくる御空に気づいて、モートがじろりと赤い瞳を動かす。フードの奥は闇に染まっていて、血のような赤い瞳だけが浮かんでいるようだ。およそ人とは思えないこの鼠のような背の低い魔女に、御空は恭しく頭を下げた。
「神聖都キシュより配属されて参りました。特別参謀の天司御空と言います。以後お見知り置きを」
「ひゃは……特別参謀ですか……また余計な虫を土産に持ってきたものですねぇ」
 モートは厭味ったらしく奇妙な笑い声とともに言った。
 そもそも、こちらから直接出向くまで挨拶一つ交わしはしなかったモートが、こちらを歓迎していないのは明らかなことだった。歩兵のように当然の如く駒として扱える種類の下僕は喜々として迎えるが、自らの指揮系統を揺らがす存在は気に喰わないのだろう。あるいは、ネルガルそのものをモートは歓迎していない……? 御空はそんなことを思ったが、決して口には出さずに努めて従順な部下を装った。
「ご安心ください。ネルガル様より仰せつかったのは貴方様の助力のみ。一匹の虫のさえずりとして捉えていただければ結構でございます」
「……して……何か策でも?」
 御空の言葉をどのように受け取ったのかは定かではなかったが、少なくともモートは虫のさえずりを聴くほどの余裕と自信には満ちているようだった。余興にふけるよう、御空の進言を聞く。
「現状、軍事力に関しては我が軍が圧倒的に優位。勝利は目前にあると言っても過言ではないでしょう。しかし他方、窮鼠猫を噛むと言う言葉も御座います。力押しは下策……絡め手こそが上策かと」
 気分が悪い。
 不気味な粘体生物でも胸の中で暴れまわっているかのように、吐き気が御空の体を蝕んだ。無論――それはただの幻覚に過ぎなかった。しかし、南カナンの罪なき民が己の活計によって死に陥るかと思うと、猛烈な自己嫌悪が幻覚のようになって押し寄せてきたのだ。
 先を促しすようにこちらを見つめるモートの対し、御空は思うように唇が動かなかった。しかし、いつの間にか横にいた青玉の髪の男が、彼の言葉を引き継いだ。
「――シャムスの弱点はその清廉潔白さです。何名か兵士を貸して頂ければ、戦災難民を偽装し、内側へ潜り込ませる事は難しく無い」
 言葉を詰まらせた御空にモートは怪訝そうであったが、クラウディアが自然とそれを継いだことに違和感はぬぐいきれた。
(御空、お前の甘えには付き合ってられん。ここは俺流に行かせて貰う)
 かすかに囁かれた声がそう言った。
 パートナーとして過ごしてきた二人だからこそ、クラウディアは御空の違和感を察することが出来た。それはある種の二人が培ってきたお互いを結ぶ糸だが、今となってはそれを感じることが余計に寂寥を思わせる。
「具体的には、偽報の計を用います。敵将、黒騎士シャムスは民を欺き男の振りをして来ました。この錯誤を知り、現状シャムスの民は動揺に駆られている事でしょう」
 クラウディアは言った。
「平時であれば瑣末な嘘。しかし疑心の種は既に……これを利用します。民の一部がシャムスを売り保身を測っていると言う噂でも敵兵に流せば宜しいでしょう。嘘吐きの領主など信用ならない、次は何を隠してるやら……こちらは民へ。民が兵を疑い、兵が民を疑えば、戦いどころではなくなります」
 間違いではない。モートはそれがクラウディアの口から発せられたことが気に入らぬようだったが、「……面白いですねぇ」と感情を口に出していた。
 クラウディアには迷いがなかった。奏音を救うために、彼は自分の思考が思い至る限りの手段を利用するつもりだ。
 御空には、これが正しいことなのかどうかが分からなかった。大切な人を助けるために、見知らぬ人たちを犠牲にしようとすることが勇気なのか、あるいは非道なのか。そして――今は物言わぬ石像と化した奏音にとって、これが望まれるべきことなのかが。
「疑心と言う名の種に不信という名の水を撒き、不和と言う名の実を収穫してみせましょう。……御許可を」
 クラウディアの懇願に、モートはにたりと暗闇から微笑した。それを見た御空は、いつの間にか手のひらに汗を握っていることに気づき、心の奥底の胸騒ぎが止められなかった。