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●愛のスパイス

 さて会場の一角からは、スパイス分たっぷりの香ばしい湯気が上がっている。
 カレーの色は白みがかっているヨーグルトカレーだ。小ぶりに切ったチキンも良い色である。
「アクリト学長……いやアクリト殿の料理がこんなにお上手とは」
 憧れの目で姫神 司(ひめがみ・つかさ)アクリト・シーカー(あくりと・しーかー)を見た。アクリトはカレールーを使わず、小麦粉とスパイスからカレー味を作り出すところから始めるという本格派だった。
「いや、それほどのものではない。実のところ、実家で食べていたインド料理しかできないんだ。ナンも既製品を持ってきただけだしな」
 と謙遜するもののアクリトの腕は確かなものだ。数学の公式のように無駄なく作業を進めていた。
「アクリト殿はカレーにこだわりがあるのか?」
「こだわり……基本的にビーフカレーは食べないことくらいだろうか。私自身はヒンズーの食文化にそこまで固執しているわけではないが、インドで育つと自然とそうなるんだ。実際、ビーフは筋張っていてあまり好みではないしな」
「なるほど」
 これはメモっておこう、と司は思った。
 彼女は本日、表敬訪問ということで空大の学長{SNL9998757#嵐を起こすもの ティフォン}と、元学長のアクリトを誘った。
 ところが、体長五十メートルで縮小もできないので、と述べてティフォンは参加を丁重に断ってきた。ティフォンが気を遣ったのかどうかわからないが、かくて司はアクリトと二人きりでカレー作りを楽しんでいるのだった。
 さて、カレーは彼に任せているので、司はもっぱらサラダやゆで卵など、カレーに添えるものを作ることにした。元来、料理は大得意な司である。しかし司は乙女でもある。恋する人の前で料理する……そのシチュエーションで緊張するなというほうが無理だ。
「あっ」
 トマトを切る過程で、うっかり司は包丁で指を切ってしまった。
「どうかしたか?」
「いや、別に」
「別にということはあるまい」
 指を隠そうとした司の腕を取り、アクリトは指の傷を見た。
 一瞬、理知的な彼の目に光が宿ったが、すぐにそれは消え、アクリトは口元にわずかに笑みを浮かべた。
「怪我をしたか……しかし、小さな傷で良かった」
 アクリトが自分のことを気にしてくれている……それが司にはなによりも嬉しい。
「こんなこともあろうかと」
 と、実に彼に似合った台詞をつぶやきつつ、アクリトは司の傷を洗い、吹いてから絆創膏を出して巻いてくれた。
「これでいい。指先は神経が集まる場所だ。いい加減にすませると後から痛むぞ」
「ア、アクリト殿……その、ありがとう」
「礼には及ばない。必要な処置をしたまでだ。カレーもほぼできあがったしサラダも後は任せるがいい」
 という動作がいちいち格好いいアクリトである。
 熱でもあるかのように、ぼうと司は彼の背中を眺めていた。
 惚れ直したかもしれない。

 料理はやはり、楽しいほうがいい。キャッキャウフフと歓談しながら、エリザベート・ワルプルギス(えりざべーと・わるぷるぎす)神代 明日香(かみしろ・あすか)は料理を作る。お揃いのエプロンをつけて、まるで姉妹のようだ。
 明日香が相手なら安心できるのだろう、じゃれる仔猫のようにエリザベートは明日香にまとわりついていた。
「どうして玉ねぎ切っても涙が出ないですかぁ? みんなポロポロ泣きながら切っていたから不思議ですぅ〜」
 玉ねぎは明日香が一人で切った。そのことを言っている。明日香はスマートに刻んで平気な顔をしていたのだ。
 それはですね、と明日香は内緒話をするような声色で、
「玉葱を切って涙が出るのは、玉葱に含まれる硫化アリルのせいです。これは常温で揮発するので、冷やして揮発を抑えて短時間で素早く切る事で涙が出なくなるんですよ。切る前まで玉葱を冷やし、包丁も氷術で冷やしててばやく切ったのはそのためです〜」
「硫化アリル? ともかく、物知りですねぇ」
「メイドですから〜。エリザベートちゃんも一つ賢くなりましたね?」
「つぎ人参、人参切るですぅ〜。やりたいです〜」
「はい。では」
 明日香はエリザベートに包丁を持たせ、自分はそんな彼女の背中に回って腕を取った。二人羽織風のこのスタイルで作業することにする。
「は〜い。では、とんとんとん」
「とんとんとん……人参が可愛らしく切れました〜」
 調子よくジャガイモ、マッシュルームも切っていく。そのとき、
「ひゃっ!」
 エリザベートが驚きとくすぐったさの混じり合った声を上げた。
 エリザベートがあまりに愛しくて、つい、明日香が彼女の耳に息を吹きかけたのだった。
「びっくりしたですよぅ」
「うふふ、ちょっといたずらしちゃいました……」
 この日明日香が用意した隠し味ミルクと蜂蜜、まろやか甘口カレーとなるだろう。