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砂時計の紡ぐ世界で 前編

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砂時計の紡ぐ世界で 前編
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リアクション

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 焼き菓子の、甘く香ばしい匂いがそこには、満ち溢れている。
 引き出されるオーブンの天板の上には、様々に彩られた出来立てのスコーンがいっぱい。
 匂いでわかる。ああいい出来だ、いい出来だ。その香りと視覚的な甘美さとに頷きながら、モーベット・ヴァイナス(もーべっと・う゛ぁいなす)はこのグリヴァーミ・ダイム城の厨房に立つ。
「これ、どこに運んでおいたらいいかな?」
 ローストビーフの仕込みもばっちり。野菜を切るモーベットは、パートナーからの声にちらとそちらを見る。
「うむ、そこに頼む。ちょうどそろそろソースに取り掛からねばと思っていたところだ、いいタイミングだぞ、主」
 両手一杯に赤ワインの瓶を抱えた清泉 北都(いずみ・ほくと)へと言う。彼は──いや、もうひとりのパートナーの願望によって今は女だから、『彼女』か──、ぴかぴかの作業台の上にそれらを下ろすと、ふうと息をつく。
「順調みたいだねぇ」
「ああ、主のほうはどうだ? 滞りないか」
「もっちろん」
 北都は自分のやってきた、別の作業台のほうを親指で指し示す。
 もうほぼデコレーションの完了したケーキが、ひとつ、ふたつ、みっつ。
 その横で、彼が……彼女がこの世界で女となってしまっている原因、クナイ・アヤシ(くない・あやし)が黙々と生クリームを泡立てている。
 先ほど、ちょっとしたアクシデントで彼は、膨らんできた北都の胸にうっかりダイブしてしまったわけで。真っ赤な顔なのはその名残り。おとなしいのはどうやら、反省しているからのようだった。
 調理作業をしているのは、彼ら、彼女らだけではない。
 厨房は入れ替わり立ち替わり、パーティの準備のため人々が出入りしている。
 鉄の扉を出ればそこはもう、大広間。そこで祝いのパーティーをしよう、と言い始めたのは果たして誰だったろう?
 この幻の世界で、この世界をつくった人物のために。
 開放された大広間はそのための準備が進んでいる。飾り付けや、配置や。北都たちの料理もその一環だ。
 大広間の、正面の大扉は開け放たれて。石畳と芝生と、植えられた木々とが広がる城の敷地内部の広場へと続いている。
 多くの村人たちが陽気に、楽しげに──ここが城だということさえ忘れさせそうに、祝賀の準備を青空の下、進めている。
「主のケーキ、楽しみであるな」
「僕も、ローストビーフ楽しみだよ」
 と。
「わああ……っ!」
 不意に、歓声が向こうであがった。
 きょろきょろと、ふたりは発信源を探す。
 だが、見えない。どこだろうか、見つけられない。
 それもそのはずだった。その歓声の主は、しゃがみこんでいる。
 作業台の下に開け放ったオーブンと、焼きあがった可愛らしいクッキーとを、杜守 柚(ともり・ゆず)杜守 三月(ともり・みつき)とともに覗き込んでいるのだ、カノン・エルフィリア(かのん・えるふぃりあ)は。
「大成功、ですね」
「うん、よかったー、うまくいって。ありがとね、ふたりとも。クッキー作り、教えてくれて」
 カノンは、砂時計のつくったこの世界に望んだ。口の悪い自分、引っ込み思案な自分から、変わりたい。そしてそれは願ったカノン自身、びっくりするくらいにはっきりと、叶った。
 柔らかく、柚たちと笑いあう自分がいる。そのことを彼女は意識する。そんな彼女を、パートナーのレギオン・ヴァルザード(れぎおん・う゛ぁるざーど)が見守っている。
 窓際の流しの縁に腰掛けて、勝手に入れたコーヒーを時折、嚥下して。
「これであとは、荒熱がとれるまで冷ましたらばっちりです。きっと、すっごくおいしいと思います」
 ね、三月ちゃん。頷きあう柚たちに、カノンも満足げだった。
「うし、そしたら今度はそっちの、折り紙だっけ? 手伝うよ」
「ありがとうございますー」
 ここまでは、カノンが協力してもらった。だから次は、カノンが柚たちを手伝う番だ。
 この城の、姫君。ダイム公爵令嬢──ダイム姫へと渡す、枯れない折り紙の花束をこれから三人一緒に、つくる。
「できるかなぁ」
「大丈夫大丈夫。クッキーのときみたいに、私のやるようにやってくれたらきっとお花も、うまくいきますから」
「せーのっ」
 オーブン用のミトンをはめて、紙を敷いた大きなバスケットに柚と三月が協力し、クッキーの雨を降らせていく。
「あっ?」
 そのうちの、ひと粒。甘い小麦粉の、大粒の雨──ハート型の一枚を、伸びてきた指先が摘み、ひょいと三人の背中越しに拾い上げていった。
「おー、すごい。焼きたてなんだぁ」
 そして目の前に掲げたそのクッキーを、さくりと音を立てて冬蔦 千百合(ふゆつた・ちゆり)は頬張った。
「え、あの」
「んー、ウマい。ちょっとバニラ、入ってるんだね」
 柚も、カノンも。三月もあまりに堂々とした突然のつまみ食いに、目を瞬かせる。
 もう一個、と彼女がバスケットに伸ばした手を、そっと隣から、細く白い指先が押しとどめる。
「千百合ちゃん、つまみ食いはだめですよぅ」
 それは、彼女の恋人。そしてパートナーである少女。
「日奈々」
「この子の教育にも、よくないです。親として……お母さんとして恥ずかしくないように──……、」
 冬蔦 日奈々(ふゆつた・ひなな)である。
 彼女の腕の中には、千百合との愛の結晶が抱かれている。
 本来であればありえない、生まれることのない幼子が、規則的な呼吸でそこにいる。
 ふたりの想いが、それを成した。ふたりの願いを、砂時計のつくりしこの世界が叶えたのだ。
「わ。かわいーじゃん」
「ほんと。男の子ですか? 女の子ですか?」
 その赤ちゃんは、可愛らしい。誰の目にだって、小さな赤ちゃんとはそう映るものだ。それを差し引いても、実に。
「女の子。どぉ、あたしと日奈々に似て、とっても美人さんでしょ?」
「ええ、とっても可愛いと思います」
 自慢げに、千百合が言う。赤ちゃんを抱いた日奈々は恥ずかしげに目を落として、ぽっと頬を赤らめる。
 たとえこの世界、このひとときだけではあっても得た我が子。方や、親馬鹿となり。方や、子への賞賛を自身のことのように気恥ずかしく、誇らしく思う。
「抱いてもいい?」
「ええ……もちろん」
 カノンが両手を差し出し、そっと日奈々は両腕の中の我が子を受け渡そうとする。
「え? ええっ?」
 その瞬間、堰を切ったように突如として赤ちゃんは日奈々の手の内で声の限り、泣き出した。
 突然のことに、慌てて双方、腕を引っ込める。すぐに日奈々は肩を揺すって、娘をあやそうと試みる。
「あ、あたしのせい?」
「そういうわけではないと、思いますけどぉ……」
 よしよし、ほら、泣かないで。
 赤ちゃんを囲む全員で笑わせようとするものの、泣き止む気配はなかった。そもそも唐突過ぎて、赤ちゃんの泣き出した原因というものがわからない。わからなくて、焦る。
「ち、千百合ちゃん……ど、どうしましょう……?」
「どうしましょう、って言ったってっ」
 一同の動揺を尻目に、周囲では調理や準備やらに、無数に人々が行き交っていく。
 どうしよう、どうしよう。一同は、困り果ててしまう。

「お腹、空いてるんじゃないですか?」

 そのひと言がなければ、どうなっていたことか。
 泣き続ける赤子を中心に、柚の、千百合の、皆の目がそちらを向く。
 非不未予異無亡病 近遠(ひふみよいむなや・このとお)だった。香ばしい、焼き立ての丸焼き七面鳥の載った大皿を抱えた銀髪をなびかせ、まさしく通りすがりといった風情に、言うだけ言って立ち去っていく。
お腹。赤ちゃんが、お腹を空かせていると、なると。

     ◇   ◇   ◇

 赤ちゃんっていうと、ぼ、ぼぼ母乳!? ──背中の、向こうの向こうに遠ざかっていく一団からそんなどよめきが聞こえてくる。
 まあ、学生でそうそう出る人っていないですよね。内心思いながら、近遠は振り返ることなく厨房をあとにする。
 せっかくの料理だ、落としたりしてはいけない。準備に慌ただしく立ち働き、急ぐ人の流れに飲み込まれぬよう注意しながら、指示されたテーブルを目指す。
「まあ……思えば。願えば、出るのかもしれませんけど、ね」
「あ、近遠ちゃん。こっちですわー」
 思考が独り言となって呟き漏れた頃、こちらに向かって手を振るパートナーたちを見つける。
 ユーリカ・アスゲージ(ゆーりか・あすげーじ)。見上げるほどに大きな、いやさ巨大なケーキの、最後のデコレーションに勤しんでいる彼女は、鼻の頭にクリームをつけていた。
「これはすごいですね。……あれ? でも厨房の中ではまだいくつか、ケーキを焼いていたような……?」
「それはそれ、これはこれですわ。お祝いのシンボルというものはこのくらい、大きくないと。もっと大きいのだって、用意してるんですから」
 これだけあれば、パーティーの参加者皆で分けても足りなくなるということはないでしょう? ──鼻の頭に白いものを載せたまま胸を張る彼女に、すぐ近くで会場の飾りつけをしていたイグナ・スプリント(いぐな・すぷりんと)アルティア・シールアム(あるてぃあ・しーるあむ)も苦笑する。
 そりゃあ、足りなくなることはないだろうけれど。ちょっと、大きすぎやしないだろうか。
 二階が吹き抜けになった、大広間の広大なホール。いくつものテーブルが並び、装飾が進み。そしてここから見上げれば目につく、二階の一角にはちょっとした一団が、近遠たちとはまた違った形での「祝い」の準備を進めている。
 果たして『回帰の砂時計』は、どのようにしてこの世界を作り出しているのだろう? どうやって、戻ればいい? そんなことを考えながら心ここにあらず、ぼんやりと近遠はイグナたちを尻目に、二階の人々を見る。
 そこにいて、各々作業をしたり、打ち合わせたりしているのはそれぞれに楽器を携えた面々だ。
 五月葉 終夏(さつきば・おりが)がヴァイオリンを手に、楽譜に向かっている。旋律のひとつひとつを確認するようにしながら、終夏は弦上へと弓を奔らせ、そうやって鳴らしてはなにやら、目の前の五線譜に書き込んでいく。彼女がそうするたび、周囲の異なる楽器の皆も同様の仕草をする。
 松本 恵(まつもと・めぐむ)が、終夏へと歩み寄る。
「こんな感じでどうかな?」
「どれどれ?」
「サビの部分を、もっと抒情的にしてみたのだけれど……」
 そう、言っている。見せているのは、自作の歌詞カード。
 着ている服の胸元が、なにやらやたらきつそうだ。……あんなに彼女の胸は、大きかっただろうか?
 恵の、「女の子としてこの城の主とのデュエットを」望む願いがそうしたことなど、近遠には知る由もない。
 知っているのは、恵や終夏が曲を──歌を、贈ろうとしているということだけ。
 先刻、調べに出た城下町や近隣の村で、そこに生きる人々が言っていた。
 今日は、『砂時計の姫君』の誕生日。
 この世界を、『回帰の砂時計』へと願った女の子。彼女が願ったから、自分たちは呼び寄せられた。彼女がこの世界をつくった。空京大学講師……アクリト・シーカー(あくりと・しーかー)はそう推測を立てていた。
 幻想の世界、そこにある人々が口々に言う『砂時計の姫君』。歴史上に現れる名は、ダイム公爵令嬢──通称、『ダイム姫』。
 この、空と大地のもと。近遠や終夏たちは祝うのだ。奏で、作り。そして、歌うことで。
 歴史の片隅に消え去ったはずの、彼女の生誕記念日を。