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【黒史病】記憶螺旋の巫女たち

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【黒史病】記憶螺旋の巫女たち

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「──本来の仕事をしよう」
 そう静かに、一人ヴァイオリンを奏でていた秋子言ったのは、だった。
 以前王国の英雄であった時から変わらぬ、秀麗でハンサムな、きりりとした表情と相まって、男性と間違えそうになる横顔。それは、他の明確な異形と化した仲間たちとは違い、一見して依然と何も変わっていないように見える。
 心根も、真っ直ぐな視線も、変わっていないように見える。だが全身に纏っているあの闇は、身体を今にも闇に溶かしてしまいそうに見えた。
 そして秋子は彼女の背後で笑んでいる、まだ中学生ほどにしか見えない翼の貌の方が、悠よりも禍々しく見えて、身震いをした。
 実際、そうだった。
 悠は処刑を逃れ各地を放浪している中で、魔族の中でも特に力を持つ「魔神」と呼ばれる翼と出会い、王国への復讐を唆されたのだ。
 復讐に駆られた彼女の精神は暗黒面に呑まれ、翼に、王国に属する全てを破壊する事を誓っていた。それが彼女の闇となっている。
 更に、闇と同化するきっかけとして、同時に逃れ得ぬ枷として、魔族マクシミリアンを用意し、始めに悠と同化させたのも翼だった。
「──<闇より生まれしこの身>
 悠は自身の闇を切り離すと、三体の小さな子鬼にして秋子に放った。
「翼様、念のためお下がりください」
 張飛が翼に呼びかける。彼にとっても主君は悠ではなく翼なのだ。
(苦しめよ悠、そして人間ども)
 戦いが始まったのを見て、翼がほくそ笑む。
(次の魔王はボクがもらう)
「こんなの……」
 悠は死してなお魔族に利用されているのだと、秋子は知った。

 子鬼の一撃を退き、横に飛んで回避し、光の槍で貫き倒していた秋子は、すぐに足元を悠の銃で追い立てられ、数分もしないうちに息切れを起こしていた。
(もっと早く目覚めていれば、違ったのか? いや……前回の経験は、無駄じゃないはず)
 秋子は、地球の百合園女学院に通う地味でごく普通な一般人だ。 以前パラミタランドで黒史病に罹って以来、おぼろげに残る当時の記憶の衝撃から冒険や空想への憧れを一切封印して過ごしていたが、 心の底ではパラミタへの憧れを捨て切れずにいた。それ故にまた病気に罹ったとも言える。
(そうだ、思い出した。どうして今まで忘れていたのか不思議なほどだ。 私は前世巫女王に仕える、予言の歌を奏でる楽師だった。けれどその力を妬まれ、予言の力を奪われ、『殺された』―――)
 未来が視えていたのに、どうして救わなかったのかと、“英雄”に責められた。全て視えていた訳ではないのに。
 前世で自分を責めて殺した相手は、目の前にいた。悠だ。あの魔王戦を生き残った自身を、彼らの処刑場で殺したのは。
「けれど誰に殺されたなど、どうでも良いこと。今こうして巫女王を守る事が出来るなら……!」
 一対多数。勝てるはずもなく逃げ切れるはずもなく。
 でもただ、追い払うだけなら。
(魔族にも逃れられぬ心の闇を持っているはず。忘れられぬ恐怖、思い出したくもない過去の恐怖……予言の力を失った私に最後に遺されたこの歌はそれを呼び起こす。
 ……おぞましくも悲しい、心の中に潜む恐怖を呼び起こす<大いなる恐れを告げる悲劇のメルポメネ>!)
「心の闇を恐れるのならば、今すぐ巫女王の前から消えなさい!」


人は何に殉じるか?
神に? 巫女に? 国家に? 民に?
自分の中の信念に?
克てなかったのは己の弱さ。
恐れていたのは、あなたの瞳に映る己の姿。


 秋子はヴァイオリンの弓を再び握り直す。
 <大いなる恐れを告げる悲劇のメルポメネ>が、悠の、翼の、張飛の、そして倒れた英雄たちの脳裏に恐れを呼び覚ます。
 けれど。その曲が、奏でる曲が知らず<真なる望みを告げる抒情詩のエウテルペ>に代わっていることに、秋子自身も気付いていたかどうか。

彼らが望んでいたのはただただ穏やかな日々。
友と笑い、朝の挨拶を告げ、仕事をし、夕に食卓を囲み、夜に暖炉を囲むその日々。
嘲笑も蔑みもなく、裏切りも猜疑心もない。たったひとつ、暖かな信頼と共に──。

本当は刃を振るいたくなかったのだと。
憎しみはその心からだと。
その心の奥底の響きは、願いを浄化する。

──もはや止まる事の出来ない凶刃 願わくば二度と裏切られる事の無い事を 願わくばもう一度希望を抱ける事を──
地面から顔を上げた、月刀の、刃と化したその手が止まる。

 垂が黒羊の面の下に隠すのもまた、黒羊の異形の貌。
「隠すのは、心がまだ人だからだ」
 秋子が言う。
「絶望するのは、希望がまだあると信じているからだ」


「今はただ──おやすみ」