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第8章 覚醒

 夜の帳に包まれて。
 世界中に、たった二人。
 そんな錯覚さえ感じられるほどの静寂の中、兄と弟は立っていた。
 兄の鋭いまなざしを感じる。
 それに怯えながらも、弟は言う。
「兄さん、僕、僕は……!」
「あっ……」
 それ以上は、言葉にならなかった。
 感情が、行動を後押しする。
 愛しい兄の肩を抱き、そのままベッドへ――

「――以上の文章を読んで、この時の弟の心情を答えるのだ!」
「……これは一体何の授業なんでしょうか?」
 アーヴィン・ヘイルブロナー(あーう゛ぃん・へいるぶろなー)の持参した教材を音読させられ、ムシミスは僅かに顔を赤らめながら問う。
 本にしては妙に薄く、しかし表紙はやたらカラフルな美しい本。
 一部の人間にはお馴染みの存在だ。
 ジャンルは、アーヴィンの好みで弟が兄を慕うあまりに押し倒す系。「時代は兄受け弟攻め」が今彼の中で熱いらしい。
「キミは今までの授業で何を学んだ! 藍澤が言っただろう。愛情という花を咲かすためには水やりという行為が必要だと。大久保から学んだ表現のための言葉と仕草を、フランツから学んだ学んだ表現方法を、今こそ生かすべきなのだ」
 彼らはそんな事のために教えたわけでもないのだろうが、アーヴィンは強く主張する。
「伝えなければいけない事は、体を張って伝えねばならぬのだよ。大丈夫だ、君なら出来るのだよ……!」
「体を張って……体を……」
 アーヴィンの言葉をどう受け取ったのだろうか。
 薄い本を胸に抱いたまま、ムシミスは小さく何度も呟くのだった。

「お伝えしたい事があるのでしたら、手紙を書いてみるのはいかがでしょう?」
 礼儀作法の家庭教師をしているシエロ・アスル(しえろ・あする)は、ムシミスにそう提案した。
「手紙、ですか」
「ええ。ムティル様と面と向かって話すことができないのならば、文面で冷静にお伝えするのです」
「手紙……」
 俯いて考え込むムシミス。
 結論を出すことを急がず、静かにそれを黙って見つめるシエロ。
 その視線からは、教え子を見守る優しさが伝わってくる。
 そして、そんな二人の様子を面白くなさそうに見つめる人物がひとり。
 シエロのパートナー、箱岩 清治(はこいわ・せいじ)だった。
 紅茶を片手にシエロの授業風景を黙って見ていた清治だったが、ムシミスに助言しているシエロの様子を見ているうちに何故だか自分でも理解できない感情が湧いてくるのを感じる。
(なんだよ、こいつは僕の側仕えなんだから、僕以外の世話なんか焼かなくっていいのに)
 気が付けば、清治は立ち上がっていた。
 感情を制御できないまま、ムシミスの前に向かう。
「言いたいことがあるんだったら早く言っちゃえばいいんじゃないの!」
「え……」
 清治の顔を見上げるムシミス。
 その、真っ直ぐな瞳に一瞬、次の言葉を飲み込みそうになる。
 ああ、違うんだ。
 本当に言いたい事はこんな事じゃないのに。
 自分の意志に反して、言葉が紡がれる。
「――いつまでもあんたの大好きなお兄さんが側にいてくれるとは限らないんだからさ」
「え、あ……」
 清治の言葉に、ムシミスははっとした様子で肩を震わせる。
 言い過ぎた…… そう思って、でも言葉を取り消せず唇を噛む清治。
 そんな清治の両肩に、手が置かれた。
 ムシミスの手だった。
「え?」
「……ありがとう、ございます」
 どこか吹っ切れたような彼の表情に、もう迷いの色はなかった。
「そうですね。あなたの言う通りです。……シエロさん、せっかくですが、お手紙ではなく、やっぱり僕は自分の言葉で――行動で伝えようと思います」
「そうですか。ムシミス様がそう決められたのでしたら、それが一番だと思います」
「シエロさん、清治さん、ありがとうございます」
 それだけ言うと、ムシミスは部屋を出た。
「……さすが清治様ですね」
 ムシミスが去った後、シエロは清治に静かに告げる。
「え、いや、僕は何も……」
 居心地悪そうに口籠る清治。
「これで、御兄弟の仲が回復すれば、もしかしたら清治様のためにジャウ家の秘宝をお見せすることができるかもしれませんね」
「え、シエロ、もしかしてその為に?」
 意外な動機に、思わずシエロの方を見る。
 シエロは黙ったまま微笑んで清治を見ていた。

「ムシミスくんに、話があるんだ」
 部屋を出たムシミスに声をかけたのは、クリストファーだった。
 含みのある笑みを浮かべたまま、甘い声で誘う。
「……今夜、ゆっくり話をしないかい? できれば、朝まで……」
 肩に、頬に、手が触れる。
 生徒と教師としての触れ方ではない。
 まるで、恋人が触れるように甘く、抗い難く……
「……すみません」
 ムシミスはその手をやんわりと、しかしきっぱり拒絶する。
「僕は、あなたのお誘いに乗ることはできません。僕は、その、兄さんのことが……」
「あぁ、それなら話は早い」
 赤くなりながら、それでも揺るぎなく本心を語るムシミスを見て、突然クリストファーの態度が変わる。
「え?」
「ついて来てくれないか? 俺に考えがあるんだ」