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【雅羅タウン・IN・学生寮 其之弐】
 ガラガラガラガラ音を立てる乳母車。人間2人分の重量に沈んだ車輪が立てる音が、ひと気のない静かな廊下に響く。
「ん?」
 と、その音を聞きつけた高柳 陣(たかやなぎ・じん)が、歩みを止めて振り返った。しかし音はいろいろな場所を反響して届いているため、はっきりと出所が掴めない。そんなに遠くはなさそうだが…。
 いつものように頭をわしわし掻こうとして、指に触れた感触からそこにある物を思い出し、とたん渋面をつくる。
 今、彼は丸々と肥え太ったヤギの着ぐるみ姿だった。白くて分厚い肉襦袢着ぐるみの肌とひづめという壁に阻まれて、掻くどころか触れられた感触すら頭は感じない。
「どうした? 陣よ。そんな小難しい顔をしおって」
 前を行っていた子ヤギの木曽 義仲(きそ・よしなか)が腰に手をあて振り返っていた。
「いや、何か聞こえたような気がして」
「当たり前だ。今ここは『仁瑠華壮聖五十連制覇』の真っ最中だからな。どこかで笑撃が行われているのであろう」
「そりゃそーだが」
「うむ。この雅羅タウンはブロックからはずれているようだが、それでもどこにムッシュWの刺客がひそんでいるともしれん。気を抜くでないぞ、陣」
 そう言って、再びすたすた歩き出した義仲の後ろをついて行く。
 臀部で揺れるシッポを見つめながらしばらく無言で歩いたあと、それにしてもと陣は思った。
「馬に続いて今度はヤギか。いつから俺は蒼フロの着ぐるみ要員になったんだ」
 最初はこうじゃなかった。特にとんがっているつもりはなかったが、それでもお笑い担当ではなかったはずだ。それがいけいけドンドコドンなパートナーたちの影響か、受け身に回って気付けばこんなことをするハメに陥っている。ここは一念発起で軌道修正が必要なんじゃ…。
「陣、何をぶつくさ言っている」
 義仲の言葉に、初めて自分が声に出していたことに気がついた。
「何でもない。独り言だ」
「フッ。これはヤギはヤギでもただのヤギではないぞ」
「ってしっかり聞こえてるじゃねーかよ」
「見よ、このバネつき頭を」
 陣はツッコんだが、義仲は聞いちゃいなかった。頭の上でみょんみょん揺れているバネ付きヤギ頭をひづめで指す。
 どんなシリアス顔をしていようと全てをだいなしにするその揺れ方に、陣はもう二度と昔の自分には戻れないのだと悟ったが、そんな陣の人知れぬ苦悩と挫折になど全く気付いている様子もなく、義仲はドヤ顔で胸を張った。
「これはな、ひと目見た者は瞬時に噴出すること間違いなしという、おそるべき破壊力を秘めた代物よ。著作権に関わるゆえタイトルは口に出せぬが、モー探偵と申すものらしい」
「もろバレじゃねぇかーっ! ってーかヤギだし! モーって牛かよ! せめてメエに――」
「むっ。ここは食堂か」
 厳しい眼光で立ち止まった先のドアについた表札を振り仰ぐ。やっぱり義仲は聞いちゃいなかった。
「ちょうどいい。ここでおまえともども皆にヤギのすばらしさについて一説ぶってやろう」


 チャララッチャチャチャチャ。チャララッチャチャチャチャ、とお昼時にでも流れていそうな軽快なマーチが食堂に流れた。夕食時ともなれば並んだ学生たちがトレイをすべらせるアルミ台の前に2人並んで立った義仲が区切りのいいところでカセットデッキをプチッと止める。
「皆さんこんにちは。今日は皆さんに、ヤギについて詳しく知ってもらうためにやって来ました」
 愛想を振り撒くが、もちろん食堂には人っ子1人いない。整然と並んだテーブルとイスがあるだけだ。しかし見えないだれか、言うなればエア人間がいるかのように、義仲は淡々とヤギについての説明を学術的な面から始めてその生態、有史以来人間とのかかわり等進めていく。
「――そしてヤギのミルクはコクがあってうまいという。せっかくの機会だ。誰かしぼってみる者はおらぬか?」
「恥ずかしがってないで前に出て。さぁ、存分に搾って」
 これも条件反射か。つい義仲に従って両手を胸にあてがい、むにっと寄せて突き出す動作をしたあとハッと気付く。
「って俺オスだし! そもそもこれ着ぐるみだし!」
「……根性で出せぬか? ほら、根性があれば何でもできると言っているやつがいるではないか」
「無理だしっ! それ元気だしっ!」
 陣の返答に義仲は眉をひそめた。
「元気ではいくらなんでも無理があるだろう」
「根性ならできるのかよ!」
「まぁ陣よ、そう興奮するな。草でも食って落ち着け」
 ぽん、と肩をたたき、そっとひと束の草を差し出す。その瞬間、プーーーーッと吹き出す声が他方で起きた。
 2人は全然気づいていなかったが食堂にはセテカがいて、2人のノリツッコミを見ていたのだ。これがうまく彼の笑いのツボに入ったらしく、セテカは腹を抱えて、立っていられないというふうに壁に寄りかかっている。
「セテカ、どうしておまえがここにいる!?」
 驚く2人をよそにピーーーーッとホイッスルが鳴り、ガラガラガラガラ乳母車の疾走する音が近付いてくる。ガラッと勢いよくドアを開け、香菜とルシアがまだ腹をヒクヒクさせているセテカに向かって行こうとしたが、陣の方が速かった。
「死神に熱愛宣言されてていつも厄介事持ち込むくせに、友情出演なんて余裕かましてんじゃねぇー!」
 使い込まれた緑のツッコミスリッパでシパーーーンとはたく。このへんはもう手慣れたものだ。日々磨きのかかったツッコミスリッパは文句のつけようがない速度と角度でセテカの頭を捉え、テニスのサーブのような小気味のいい音を響かせる。
「ちょっとちょっと陣くん? それ、私の役割なんだからとらないでくれる?」
 完璧に務めを果たせず憤慨している香菜の後ろで、床に倒れてもまだ笑っているセテカを乳母車内にいるエルシュと美羽に引っ張り上げてもらいながらルシアが乳母車へと押し込んでいた、そのときだった。
 からりと音を立てて開いた後方のドアから、何者かが食堂内へと入ってきた。
 背面を見せているためだれとは分からない。セミロングの茶色の髪と細身から、女性だと分かるだけだ。
 もったいぶったカニ歩きでセンター位置まで進んだ彼女は、そこでようやく足を止め、くるっと正面を向けた。そのとき、初めて彼女が上半身を全くおおっていないと分かる。
「ポロリンピック代表です」
 騎沙良 詩穂(きさら・しほ)はそっと胸に当てていた手ブラを開いた。
 それだけだった。
 ほかにも何かあるのではないか……それを期待する沈黙が落ちるが、詩穂は無表情で立ち尽くすだけだ。その目はだれも見ていない。
「一体何を…」
 古風な英霊・義仲にとり、女性が己の胸をあそこまでさらけ出すことは感心できず、ましてや男の前でなど論外。笑気がこみ上げることはなかったが、陣は違った。
 真面目な人物の意外な行動、そして思い切りスベッたリアクション芸に弱い彼のツボに詩穂の体をはったリアクション芸はドストライクだったようで、となりの義仲も思わず退くぐらい涙をちょちょ切らせながら大爆笑している。しかものけぞった拍子に重心を狂わせ、ばったり床へ倒れた彼は、そのままコロコロコロコロ球のように床を転がった。
「陣くん止まりなさいよ! うまくたたけないじゃないの!」
 香菜が叱りつけるが、陣に聞こえている様子はない。このままではらちがあかないと、香菜は乳母車の者たちに向かってぱちんと指を鳴らした。ルシア、エルシュ、美羽が駆け寄ってきて陣を立たせる。
 その丸々と肥え太ったヤギの着ぐるみにはケツバットは効果がないのではと思われた方もいるかもしれないがご安心。完璧なケツバット要員を目指し、それを自負する香菜の準備にぬかりはなかった。
 こんなこともあろうかと用意していたゆる族向けバージョン、釘を打ち込まれた鬼の棍棒バージョンケツバットがアンダーからえぐるように陣の尻を捉える。
「いってええええええーーーーーっ!!」
(勝った…!)
 陣の怒ったような悲鳴が響き渡るなか、詩穂はぐっと胸の前でこぶしを握り、勝利の余韻に浸っていた。