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ようこそ! リンド・ユング・フートへ 4

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リアクション


9 ジーナ

 一変の光明も見出せない、寒気と孤独と恐怖に支配された場所。
 そこをまるでほうき星のように流れ落ちていくジーナの死の落下という現象。
 闇のなかに浮かぶ混沌。

 ティアン・メイ(てぃあん・めい)はそのただなかにいた。

 朝霞とエースがもみ合っている最中、その目をかすめるようにして飛び込んでいたのだ。
 恐怖と絶望と孤独が入り混じり、複雑に絡み合った暗闇のなか、彼女はひざを抱えている。

「きみ、早くここから出なさい」
 同じ暗闇に囚われたリンド・ユング・フートの司書リヴィンドルが、身動きがとれない状態ながらも彼女に忠告を発する。
「ここにいてもきみにとっていいことは何もない。それどころか大変なことになる。ここはきみにとって夢の世界かもしれないが、深淵をくぐれば心だけが死ぬことになってしまう。そうなればきみの肉体は――」

「……どうでもいいの」
 ぽつり。ティアンはつぶやく。
 それだけ。
 説明も一切なし。
 ひきりなしに彼女を説得しようとするリヴィンドルを黙らせたかっただけだ。

 大体、そうでもなかったらこんな場所に飛び込んだりするはずがないではないか。

 ジーナの死を恐怖する狂気が支配する場所。
 その闇はじわじわとティアンの発している命の輝きとも言える光を浸食し、迫っている。いずれはティアンへ到達するだろう。そうなればそれはティアンに食い込み、彼女を同化してしまうかもしれないように見えた。

(ばかね、ジーナ。死ぬことなんか、怖くも何ともないのに。
 それとも……愚かなのは私の方なのかしら? 死こそ一番恐れなくてはいけないことなの?)
 ふっとため息をつく。
 どうしても、何度考えても、そうは思えなかった。

 ティアンにとって一番恐怖なのは、玄秀を失うこと。
 彼に必要とされないこと。
 ただひたすらそれを恐怖して生きてきた。何を失っても彼だけは失いたくないと、全てを振り捨てて遮二無二彼を求めた。
 彼が気まぐれに投げ与えてくれているのだと分かっている一片の優しさを糧に。

 あの恐怖は、今思えばやがて訪れる未来への予感だったのか。
 ついに玄秀を失った。
 そしてそうなってしまった今、ティアンにはもはや生きる理由はなかった。

 何もない。
 生きる理由どころか死を恐怖する思いすらない。

 向こうの世界では、それでも訪れる日々を過ごさねばならない体があった。
 無意味に眠り、無意味に食べ、無意味に生きる。
 彼に必要とされていない1分1秒を数えながら。
 心は屍同然だった。

 なら、本当に屍になってもいいじゃない。
 きっと彼はそのことすらも気付かないだろうけれど…。

(それともシュウ、あなたは私の心が死んだことに気付いてくれるかしら?)
 そのことを残念に思ってくれるかしら。
 ほんのちょっぴりでいいから。



「くそッ。どこにもいないと思ったら、やはりあそこか!」
 落ちていく闇の固まりを見下ろして、高月 玄秀(たかつき・げんしゅう)はギリリと奥歯をきしらせた。

 恐怖にゆがんだ見知らぬ女と苦痛に耐える男の巨大な姿がちらちらと垣間見える。しかしそれはいずれも幻影だ。
 そしてその幻影のなかに、一切の感情を失ったティアンの姿があった。

 その顔を玄秀は知っていた。
 ここ数カ月、彼女はほとんどの時においてそんな顔をしていた。
 そんな彼女を見るたびに玄秀はいら立ち、幻滅し、失望を感じて、彼女を視界に入れることすら嫌うようになっていた。

 ばかな女だ。
 現実を直視する強さもなく。
 否定と拒絶で隠ぺいすることしかできず。
 ただ相手にすがることで己を確立しようとする。
 まさにくだらない女そのもの。

 どうせ今回のこの行為も、そこから派生したのだろう。

 なぜ僕が求めているのはそんなものではないと気付かない?
 なぜそうあろうとしない?
 なぜそれができない!


 そしてなぜ、僕は……。


「――チッ」
 深淵らしき闇はすぐそこまできている。自己探索の思考などに費やしている時間はない。
 落下していく狂気の固まりを追って、玄秀は闇を翔けた。

「ティア! 聞こえるか!」


「……シュウ…?」
 かすかに聞こえた玄秀の声に、ティアンは頭を起こし、周囲を目で探った。
 受動的だった彼女がほんのわずかでも自ら行動を起こしたのを見たリヴィンドルが力を使う。ジーナの闇がぼやけて薄れ、外の様子が見えるようになった。


「今すぐそこから出るんだ!」


 玄秀が手を伸ばしていた。
 ティアンの名を呼び、はっきりと彼女を見て、手を伸ばす――。
 幻かと思った。
 何カ月もずっとそんな幻想を抱いて生きてきたから。

「さっさと来い! 来ないなら引きずり出すぞ!」
 その剣幕に、はっとティアンは気を戻す。
「だ、だめよ、シュウ! これに近付いてはだめ! あなたも取り込まれてしまう!」
「ならおまえの方から出て来い! こっちへ来るんだ!」
「無理よ……私はもう…」
 絡みついた闇の触手を見せるように手を持ち上げた。
「お願い。このまま逝かせて。あそこへはもう戻りたくないの」

「僕は来いと言っている!」

 ティアンの泣き顔が笑みにゆがんだ。
 玄秀がそれを望むなら、従わずにいられようか。
 たとえこの手足を切り落としても。

 ティアンはよろめきながらも立ち上がり、闇の拘束を引き千切って玄秀へ向かって飛んだ。

「シュウ!!」
 玄秀の手がしっかりとティアンの手を掴み、取り戻そうと追ってきた闇から引き離す。


 こちらの記憶を向こうへは持ち帰れない。この至福を自分は忘れてしまうだろう。
 けれど。
 きっと、自分を抱きとめている彼の力強さ、伝わる彼のぬくもりだけは持ち返ってみせる。
 彼に求められるしあわせに酔いしれながらティアンは思った。




「うむ。うまく救出することができたのだ」
 ティアンを抱いてジーナから離れていく玄秀を見て、リリ・スノーウォーカー(りり・すのーうぉーかー)はうなずいた。

「リリ、あれを見ろ」
 ララ・サーズデイ(らら・さーずでい)がジーナの行く手を指差す。底なしの渦のように広がっている深淵との間に、いつの間にか金色の網が出現していた。
 まるで純金の細い糸で編まれたような網は四方に広がり、七色に発光しながらジーナを待ち受けている。

「おそらくあれがスウィップの言っていた、リヴィンドルだけを捕らえる網だ」
 ララの指摘にリリも同意するようにうなずく。
 そして後ろで待機している紫月 唯斗(しづき・ゆいと)を振り返った。
「あの網がリヴィンドルを分離してジーナだけになったら行くのだ」
「分かりました」
 唯斗の向かい合わせた手の間には、強く発光する光が浮かんでいた。
 スウィップから預かってきた、最後の章。リストレイターたちの想いの光だ。

 これを用いてジーナに最終覚醒を促す。

(これまでの章で、かなり彼女の狂気は薄れているはずです。これとともに突っ込めば、あるいは)
 ジーナの正気を取り戻せるかもしれないし、できずに自分たちが捕まってしまうかもしれない。
 そうなればもろともに深淵へ落ちることになるだろう。

 未知数なのでこの方法にどれくらい勝機があるかも分からない。
 みんなの頑張りで最初のころに比べて狂気は薄れているだろうけど、それでもジーナと接触するのは危険だとスウィップは止めたが、3人は譲らなかった。
「大丈夫です、スウィップさん。俺たちに任せてください」
 意識世界を知らないスウィップにはない力が、唯斗やリリたちにはある。
 危険が全くないとは言えないけれど。


「きたぞ」
 ララが注視を促す。
 彼らの前、網が見えない力で四方から持ち上げられるように闇の固まりをすくい上げていった。
 闇は網を飲み込み、網目からどんどんすり抜けていく。通り過ぎたあとには、ぐったりとなった男性が網にかかっていた。

「今なのだ!」
「はい!」

 リヴィンドルが分離され、少し拡散して薄れたように見える闇に向かい、3人は突入した。
 リストレイターたちの想いが込められたリストレーションの輝きを盾のように掲げて。




 チチチと鳥が鳴いていた。
 ほおや手足にあたる太陽のぬくもり。
 胸いっぱいに吸い込むと、土と緑の青くさい香りがした。
 まぶた越しにも分かる、明るい光に満ちた空間。
 ゆっくりと目を開く。
「ここは…」

「やっと目を覚ましたのだ」
 2人の少女と1人の少年が彼女を覗き込むように見下ろしていた。
「ようやくか。やれやれ。間に合わないかと思ったぞ」
 金髪巻き毛の少女が言う。
「えっ?」
「いいからさっさと起きるのだ。ほら」
 黒髪ロングヘアの少女に促されるまま、差し出された手を取って立ち上がる。そうして初めて彼女は自分が地面に寝転がっていたことに気付いた。
「あの……あの、わたし…?」
「いいからいいから。さあ、さっさと行こう――って、どっちだったっけ?」
「リリさん、こちらですよ」
 リリが背中を押して行こうとした方向と反対を唯斗が指差した。
「……むう。そっちへ向こうとしたところだったのだ!」
「はいはい」
 くつくつ笑いつつ、少年唯斗がジーナの手を引き、先頭に立って進む。
「あ、あの……どこへ…」
「クリスマスパーティーなのだ」
「おやおや。すっかり忘れてしまったのか」ララが肩をすくめて見せる。「無理もないな、あんなに眠っていては」
「えっ……え?」
「いいからいいから」

 やがて4人は森から出て、その入り口にあるきこり小屋へとたどり着いた。
 小屋のなかはパーティーの真っ最中で、談笑する人々の楽しそうな声が外まで漏れている。
 チルチルとミチルがモミの木のツリーのそばで両親と笑顔で話しているのが大きく開かれた窓から見えていた。

「これ…」
「クリスマスパーティーなのだ」
「さあ俺たちも行きましょう」
「無理よ」
 促しの手を拒絶して、ジーナは一歩後退した。

「だって……だってわたし、青い鳥がいないもの

 びゅうとその後ろから黒く冷たい風が吹きつけてきた。
 ジーナを再び飲み込もうと、狂気がすぐそこまで追いかけてきている。

 向かい風にあおられつつ、リリは空を指差した。
「ジーナの青い鳥はあそこにいるのだ」
 リリの指し示す先で空間が開く。
 そこに映っているのは、病院のベッドの上でチューブだらけで眠るジーナの姿。
「思い出したまえ。臨終の床できみの手を握る者を。涙声できみに語りかけ続けている者を。
 彼らに応えずにこのまま闇に落ちて良いのか?」


「いやっ! やめて! 見たくない!!」


 渦と化した闇から吹き出した風が渦を巻く。
 突風が激しくリリを打ちつけた。両足を踏ん張っていても、ずずずと渦中へ引き込まれそうになる。
「リリ! 危険だ、下がれ! おまえまで飲み込まれるぞ!」
「大丈夫なのだ。まだ……まだいけるのだよ。
 ジーナ! 目をそらさず、よく見るのだ! これが最後のチャンスなのだ!」


 ――最後まで、笑っていましょう、ジーナさん。

 ――別れは全てを奪えない。どんなさびしさも、苦しさも、痛みも。決して奪えないものがあるんだよ。

 ――あなたのなかにもあるでしょう? きらきらと光り続ける思い出が。



 まるで内側から聞こえるような声に導かれて、ジーナは再度振り仰いだ。
 機械につながれ、ベッドで眠る衰弱した自分。血の気のない肌は人形のよう。
 そんな彼女のほおに、横から手が伸びた。
 別の手が肩に触れる。
 また別の手が腕に。

『ジーナ…』

 彼女の名を呼ぶだれかの声。
 姿を見たいと思った彼女に呼応して光は大きくなり、ベッドを囲む人々の姿を映し出す。
 だれもが彼女をいたましい目で見つめ、涙をこぼしていた。

「あれは…」

「ジーナ。思い出すのだよ。もっと強く念じるのだ。彼らを見たい、彼らの声を聞きたいと。
 その手のぬくもりを。彼らの想いを。感じたいと願うのだ」
 そして気がつけ。
 彼らこそ、自分の青い鳥であることに。

「……だめよ。戻れないわ。もう遅すぎるの」
 彼らはあまりに遠すぎる。


『ジーナ…』


「ああ、やめて。こんなもの、見せないで」

「ジーナ。目をそむけるな。耳をすませ。彼らの想いを受け取めろ」



 ――考え方、心の持ちよう次第なんだ。死を絶望のように恐ろしいものと取るか、生涯の完成として取るか。

 ――家族は、何物にも代えがたいわ。だからこそ、何かを為し、託し、そして役目を終えるの。

 ――闇のなかでたった1人に思えるときがきたとしても、キミは独りじゃない。心の一部は常にキミとともに寄り添っている。

 ――ひとはいつか死を迎え、思い出のなかに生きて、やがて未来へとたどり着く。次のしあわせのために。



 だから。

 死は、決して恐ろしいものではない。



『決しておまえを忘れないよ。おまえとともに生きられて、しあわせだった』
『愛しているわ、お母さん。いつまでも、ずっと』


 ぱりんと割れる音がして。
 ジーナを包む風景が全て壊れた。


 粉々に砕け散った幻の世界。


 彼女は再び闇に包まれたが、そこは冷たくもおそろしくもなく、静かな闇だった。
 何かがほおに触れた。
 パタパタと鳥が彼女の周りを回ってはばたいているような音に誘われて、ジーナは両手をどけて、伏せていた顔を上げる。

「ジーナ」
 いつの間にか青年の姿に戻っていた唯斗が名を呼ぶ。
 ジーナは彼を見返し、静かに告げた。
「もう、行かなくちゃ」
「そうですね」
 彼の肯定の言葉を聞いて、ジーナは花のような笑みを浮かべる。

「さよなら」

 そっと頭を下げて。ジーナは歩き出した。
 深淵へと続く道を、1羽の青い鳥とともに。
 しかしそこは先までと全く違い、とてもおだやかで、慈愛に満ちている。
 耳をすますと、かすかに歌が聞こえた。
 どこからともなく聞こえてくる、あれは、幸せの歌。
 彼女を応援し、祝福する歌。


「別れの言葉は「またね」だ。これは宣言であり、契約だ。再び、いつかどこかで出逢うという意思表明。
 たとえその時が来ても、互いに気付かないかもしれない。何千年、何万年先かもしれない。こことは違う、どこか遠い別の世界かもしれない。
 それでもいつか必ず出会うという、誓いの言葉だ」


 唯斗の言葉が届いたかは分からない。
 彼はずっと、ジーナの背中を見送り続けた。
 深淵の暗い闇が彼女を包み、やがてそのなかへ消えるまで。


『ありがとう…』


 やすらぎに満ちた満足げな声。
 まるで空から降ってくるような空間を震わせて届く言葉を、リストレイターたちはたしかに聞いたのだった。