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一会→十会 —失われた荒野の都—

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【ディミトリアスの憂鬱】


「……イッ、……」

 突然襲った痛みに、ディミトリアスが目を開けると、そこは遺跡の外だった。
 見れば、タマーラがその大きな目でじっと見下ろしている。振り上げられている手は、先ほどディミとリアスのどたまに振り下ろされた手刀の形のままだ。まだじんじんと軽い痛みの残る頭をさするディミトリアスに、タマーラはその手をそっと取り上げて、ぎゅ、と握った。
「おかえり、なさい」
 いつかもそうして握られたのを思い出し、軽く握り返して「ただいま」と表情を和らげて見せたが、直後襲い掛かってくる先程までの醜態が蘇ってきて、ディミトリアスは思わず俯いた。
 目を覚まして記憶が残っていた事もショックだったが、駆け寄ってきたプラヴダの兵士達が女性に対してするように薄着のディミトリアスを毛布で優しく包んで「もう大丈夫ですよ」としきりに声を掛けてくるのが地味にダメージだった。
 情けないというか最早言葉が出ない。
 挙げ句真が用意してくれていたらしい暖かいお茶を歳若い兵士に笑顔で振る舞われる、普段なら嬉しい気遣いがこの場合だと逆にキツいのだ。
 忌々しげに髪についた花飾りを毟り取って投げ捨てていると、「災難だったな」と羽純が気遣わしげな声を掛けてきた。
「ところで、ちょっとした質問なんだが……、アレクと何があった?」
 トラウマを穿(ほじく)り返す質問だとしても、言葉に傷つける意図は無いと分かっている。ディミトリアスは溜め息をついて、封印しようとしていた記憶を掘り起こした。
「アレクは……熱心な生徒だった。
 当時も殆ど生徒のいなかった講義で、休まず出席していた、良い生徒で――
 正直、気に入っている生徒だった」


 担当講義に万年閑古鳥が鳴いている。
 そんな状況を作り出している理由をディミトリアスは自分の耳で確認した事があった。
「あの授業イミフだよね、ディミトリアスの」
「あー……、だってさー、古代魔法史勉強するのに古代語から覚えろとか訳分かんない。んなとこからやってたら何年あっても足りないっつの」
 口さがない言葉だったが、尤もだと受け止めねばならない部分もある。確かに自分の授業は分かりにくい。
(だが古代の魔法と歴史を学ぶのに、古代語を覚えずしてどうしろというのか)
 ディミトリアスにとっての当たり前は、彼等にとって当たり前でないのだろう。元々好きで教師になった訳でもないが、それなりに真面目にやってきたつもりだったのに――。ディミトリアスの中で揺らぎ始めていた教師としての信念のようなものを、しかし今年は持ち上げてくれる出来事があったのだ。
 新学期を迎えて新たな友人を作ろうと授業そっちのけで躍起になっている生徒達の中にあって、一人静かにテキストに視線を落とす彼――アレクはディミトリアスがこの春から受け持った生徒だった。
 黒檀のような髪に左右比対称の色の瞳、よく通る中低音の声、些か不自然なくらいにピンと伸びた背筋で制服のマントを翻しながら歩く姿は鮮烈な印象を与えそうなものだが、気づけば初対面で受けた印象とは真逆の存在になっていた。
 教室に居る時の彼のポーズは常に一定である。分厚い本を机に積み上げ、何時だってそれを読みふけっているのだ。同じ講義を受けている生徒達の全てがやがて影のような存在から興味を無くし、一人となろうと一切気にする様子も無く、何処か近寄り難い超然とした彼の固い表情は人間としては首を傾げる所はあったが、教師としては申し分無い生徒だった。
 誰よりも熱心に講義を受け、時には準備室に質問に来た事さえある。そもそも生徒の少ない講義である。部屋を訪れる者は少なく、純粋に授業の質問をしに来る者は皆無に等しいこともあって、珍しくも菓子でも振る舞いたいくらいには、内心で浮ついたものだった。
 ――実際茶は振る舞った。
 その時ソファの空いた場所にアレクが置いた例の分厚い本が全て語学書と辞書であった事に気づいて、ディミトリアスは質問したのだ。
「随分熱心だが……君は、語学が好きなのか?」
 何と言う事は無い、ただの雑談だったのだが、彼の反応は妙だった。片眉を上げて、少々の間の後に「そんな事考えた事も有りませんでした」と、ぼそりと答えただけである。
 彼は少々変わっているのだろう。
 好意的な目で見ながらもこんな風に心の底で積もっていった『違和感』を爆発させたのは、忘れもしないあの小雨の日だった。

「担当が急病で休んでいるんですよぅ。
 準備も有りますし、毎回施設が空いてる訳じゃないんですぅ」
 『兎に角色々無駄にしたく無いから』、そんな適当な理由を付けられて、ディミトリアスはその日模擬戦の教官をする為に闘技場に立っていた。
 授業内容は、単に入学したての生徒達の力量を見るというだけのものだったが、かつて神官術士として戦場にも立っていたディミトリアスは如何にも『適当にやるか』という雰囲気の生徒達に、軽く眉を寄せた。
「君達は、そんな心構えで戦場へ出るつもりか? 模擬試合だろうと、手を抜かず全力でやれ」
 確かそんな事を言ったのだと記憶している。
 直後の突然かつ予想外の出来事に、ディミトリアスが我に返った時には、その視界に映ったのは、闘技場の床一杯に広がった赤い色であり、聞いたのは生徒達のうめき声だった。
 輪の中心でただ一人佇んでいた生徒は木刀よりも頼りない木の棒を無造作に投げ捨てると、黒檀の髪にべっとりと張り付いた返り血を拭いながらこちらへ振り返ったのだ。
「手を抜きませんでした。でも殺してないんです。最後迄やった方が良いですか?
 ――これでいいですか? ディオン先生」
 自分は貴方の望むようにやったのだと、褒めてくれとさえ言っているような歪んだ子供のような表情をディミトリアスは今も忘れる事が出来ない。
「減俸処分ですぅですぅ……ですぅ……ですぅ…………」とエリザベートのエコーする声が耳に残る。
 帰宅した後に処分の話をしたというのに、余裕のある笑みをくれたアニューリスの反応が何より辛かった。
 そんな経緯を経て、ディミトリアスはアレクの姿を見るだけで顔を蒼白にする程のトラウマをおってしまったのだ。


「そんな経緯があったのか」
 長いような短いような昔話が一区切りすると、羽純は首を横に振る事で感想を現した。
「俺から言えるところがあるとすれば、アレクはそんなに悪い奴じゃないって事くらいだな」
 それと軍人として命令された任務を遂行したのかもしれない、と羽純が主観で言える程度の言葉を付け足すと、ディミトリアスはあと一つというような視線を向けてくる。
 まだ何かあるのかと話を横で聞いていたユピリアが振り返ると、ディミトリアスは先程よりも言い難そうに、今度はこちらから質問を始めた。
「その……彼の妹の事なんだが――」
「どの妹だ?」
 羽純に聞き返されディミトリアスが驚いた顔を見せると、ユピリアが言葉足らずの部分をつけたしてくる。
「沢山居るのよ。本人はまだ増やす気らしいけど、どの妹の事?」
「その……プラチナブロンドに不思議なブルーの瞳をした……、顔が小さめで指先まで華奢な印象なのに、全体が柔らか味がありそうな……なんというか作り物のように整った――」
「ジゼルね」
 一発で誰か把握したらしいユピリアと羽純が顔を見合わせるのに、ディミトリアスはもごもごと続ける。エリザベートに他言無用と言われているのだ。細かい事情は話せないから出来る限り遠回しの表現を出した。
「彼女と、随分仲がいいんだな」
「夫婦なら当然だろう」
「しかも新婚よ。秋に結婚したばかり」
「彼は結婚しているのか? それも妹と」
「妹って言っても血縁関係じゃないのは――全く似てないから分かるとは思うが」
 椅子から立ち上がりかけた尻が、羽純の冷めた言葉にカバーの上に戻ってくる。
 ――あの件に関しては誤解だったのだ。
 あの日アレクの口から聞こえた「殺す」とか「死んだ」とかいったあの言葉はきっと体調不良で朦朧とした所為で言ってしまった夢現(ゆめうつつ)の言葉――、でなければディミトリアスの聞き違えだったのだろう。
「……俺は随分……誤解と、失礼な思い込みをしていたようだ」
 重たく溜息を吐き出して、漸く何かしら凝り固まったものが解けたように、ディミトリアスは肩の力を緩めた。
 何だか良く分からないが、ディミトリアスの悩みが解決されたのだろうと、羽純とユピリアが細めた目で目配せをした時だった。
 ザ、ザザザ、ザザ。
 そんな砂の上で重い袋を引き摺るような音が遺跡の中から聞こえてきたかと思うと、実際何かを引き摺った黒い影が現れる。
 黒檀のような髪に左右比対称の色の瞳、些か不自然なくらいにピンと伸びた背筋で軍服のコートを翻しながら現れた彼は、ディミトリアスの姿を見つけると、よく通る中低音の声で「ディオン先生!」とこちらへ駆け寄ってくる。
「蹴ってしまってすみませんでした。痛みは残っていませんか?
 ディミクスナムーンに乗っ取られた所為で気分が悪くなったりは――」
 言葉が続く間に、ディミトリアスの視線はアレクが引き摺っていたボロ雑巾のような砂塗れの塊に集中している。それに気づいたアレクは「ああ」と声を漏らした。
「ディミトリアス先生を苦しめたアッシュホテップです。
 もう中身は抜けていますが、一発殴りたかったらどうぞ」
 抜け殻のようなハデスを放心しているディミトリアスに押し付けて、あの日のように頭の上からべっとりと血にぬれたアレクはやはり歪んだ子供のような表情で同じ言葉を吐くのだ。
「手を抜きませんでした。でも殺してないんです。最後迄やった方が良いですか?
 ――これでいいですか? ディオン先生」
 瞬間。パズルでも埋め込むように、かっちりとトラウマの上をなぞるその光景に、折角安心を取り戻したディミトリアスの顔が、再び顔を真っ青から真っ白まで血の気と言葉を失って固まってしまったのに、クローディスは
「その調子じゃ、その内禿げるんじゃないか」
 と、心配ともからかいともつかない調子で、苦笑したのだった。

 尚、ジェニファが閑古鳥、というのが鳥の名前でないことを知ったのは、それから暫く経ってからのことだった。