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春もうららの閑話休題

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第11章


「ふー……」


 ハイコド・ジーバルスはその身体を湯船に沈め、月を見上げた。
 結局、家族用のかまくらと温泉を作ってもらい、タオルを腰に巻いたまま身体を暖めている。

「まぁ、なんだかんだ言って温泉は気持ちいいな、単純に」

 ざば、と腕で湯をかき上げると、視界の端にいくつもの傷跡が入る。
「――細かいヤツは魔法とかで消えるけど、大きいのは残っちまうか……ま、別にいいけどな……そんな外見を気にするようなヤツじゃないし」
 その傷跡のひとつひとつが、命がけの冒険の顛末を物語っている。
 無意識に左手が首筋を撫でると、大きな銃痕がひとつ指先に触れた。

「……色々、あったな……」
 ここ数年、地球からパラミタでの出来事が一瞬で脳裏をよぎる。幾多もの冒険、ソラン・ジーバルスとの結婚、そして双子の出産。
 遠いようで近い記憶に思いを馳せていると、さぁ、と入口から風が吹き込んできた。
「そういや遅いな」
 一緒に来た筈のニーナ・ジーバルスは『先に入ってて』のひと言でハイコドを温泉に押し込んで、自分は脱衣所からなかなか出てこなかった。

「ニーナ?」
 湯船からハイコドは声をかけた。


「お、お待たせ……」
 消え入りそうな声で、ニーナは返事をした。


 ハイコドは、なんとなく振り向けずにいた。
 ここが家族風呂で他に人はいないこと、自分がタオル一枚で水着の準備すらして来なかったこと、自分の妻はソランであり、ニーナではないこと、そして今現在のニーナの格好を予想すると、露骨に振り向くのは適切ではないと感じた。
 せめて、身体にタオルを巻いているであろうニーナが湯船に入ってくれれば。

「わぁ……いい月ね」
 ニーナの声がする。自分の横、湯船の淵に腰を掛け、月を見上げているのだろう。横目で湯船を見る。
 ちゃぷん、と音がしてニーナのすらりとした脚がお湯に入ったところが見えた。
 形のいい爪先。よく鍛えられた細身で筋肉質なふくらはぎ。そして、確かな肉感を持ったふともも。
 もう少しだけ視線を上げると、その根元を隠すようにしたタオルが見えてくるだろう。そうしたら、ニーナを確認できる。
 なんとなく慎重に、ハイコドは視線をずらしていった。

「!?」

 次の瞬間、ハイコドの視界を何かが覆い隠した。
「……見ないで……恥ずかしいんだから」
 ニーナの尻尾だった。湯船に浸かったハイコドの隣に腰掛けたニーナの尻尾が器用に巻きついて、ハイコドの目を覆っている。
「おい、ニーナ?」
 ハイコドは慌てた。

 ざばぁ、とお湯の音がして隣のニーナが一気にお湯に入るのが判った。
「おいっ!?」
 ハイコドの視界を遮っていた尻尾が解かれ、素早くニーナが後ろに回りこんだ。
 その一瞬、ニーナの裸身がハイコドの目に映る。

 ――タオルを巻いていない。

「待てってニーナ、一体どういう……!!」


 ぎゅっ。


 ハイコドの抗議は中断された。
 後ろからニーナがしがみついてきたのである。

「……」
 ハイコドの脳裏にぐるぐるとまとまらない思考が巡る。
 思えば最初から何かがおかしいと思っていた。
 ソランの仮病もそうだし、ニーナがそれについて何も言わないことも。
 ニーナがこんなに積極的に仕掛けてくることは今まで一度もなかった。

 それが――今日は違うのだと。

「一体……どうしたんだよ」
 どうしてこうなったんだろうと、考えてもまとまらない。
「うん……なんだかもう……色々我慢できなくなっちゃって……」
 ようやくニーナが、まともに口を開いた。
「我慢って……なにを」
「あの……ね」


「私もその……子供、欲しいなって……」


「……そう、か……」
 頭の片隅で、やっぱり来たか、とハイコドは思った。

 もとよりニーナは白狼の一族の次期族長候補である。ともすれば、一族を繁栄させるための相手を見つけること、その間に子供を作ることは課せられた義務のようなものだ。また、ニーナを族長候補たらしめている原因は彼女が一族でも珍しい『魔眼持ち』であるということ、そしてハイコドもまた『魔眼持ち』であるという事実が事態を更に加速させていた。
 そのハイコドはニーナの妹と結婚している。だが、もし『魔眼持ち』同士が子供を作れば、その子供が次期の『魔眼持ち』となることが充分に期待できるという理屈も判る。
 現に一族の現族長ですら、ハイコドとニーナが結婚すればいいのではないか、と明言しているほどだ。
 つまり、重婚である。
 狼はもとより一夫一妻が基本であるが、何事にも例外というものはあり、自然界においてもそれが絶対ということはない。
 何よりも、ハイコドの妻でありニーナの妹であるソランが、その重婚に対して乗り気だということがまた事態を推し進めている原因でもあった。

 つまり、条件は揃いすぎるほど揃ってしまっていたのだ。
 あとはただひとつ。

 当人同士の、気持ちの問題である。

「しかしな、ニーナ――」
 ハイコド自身には重婚への抵抗はまだある。辛うじて理性を以って押し留めようとした。
「……私ね……諦めようと、思ってたんだよ」
 しかし、ニーナがそれを遮った。
「再会した時、もうハコくんとソラは結婚してたし……でも、二人の子供を見てたら、やっぱり私も……って。
 今回の旅行でソラがチャンスをくれたことも……嬉しかった……だから、ちゃんと言うね」
「……」


「……ハコくん、私とも結婚してください。『あなた』と……呼ばせてください」


「……ニーナ」
 ハイコドは、一瞬返答に困る。
 状況から見れば自分が『イエス』の返事をすれば終わりだ。明日からハイコドはソランとニーナを妻として娶ることになるのだろう。
 しかし、それでいいのだろうか。
 ハイコドとて健康な男だ、今ここで振り向いてニーナを抱き締めてしまいたいという欲求は確かにある。
 背中に押し付けられているソランとはまた違う柔らかさを――その全てを、自分のものにしたいと。

 だが、ここで流されてしまっては、ただ肉欲に負けただけではないのか。
 その責任を、自分にきちんと取ることはできるのか。

「……」
 ニーナの身体は震えていた。大胆な行動に出ても、断られる公算の方が大きい賭けだ。女から行動に出るというのも勇気が要ったことだろう。
 それでも、ニーナはその想いを伝えたのだ。
 ハイコドは、その勇気に応えなければならないと思った。
 ソランを妻としつつニーナに浮気するのではなく、二人とも妻として幸せにしなければならないのだ。
 自分に、それができるのだろうか。

「いいのか……俺は、こんなだぞ」
 ようやくハイコドが口を開いた。
「……ハコくんじゃなきゃ、嫌」
「そうは言うけどな……身体から触手は生えるし」
「……平気」
「片腕は義手だし」
「動かなくなったらソラと二人で食べさせてあげるから」
「身体中傷だらけだし、影の中には狼が住んでるし」
「気にならない」
「そりゃあ、やるだけやるけど……二人とも平等に愛せるかどうか、わからないぞ?」
 くるりと、ニーナはハイコドを身体ごと振り向かせた。

「――全部、大丈夫」

「――」
「私はハコくんを信じてるし……ソラもそう。だからハコくんも――私達を信じて」
「……」
「……」
「……分かった」
「え?」
 ハイコドは覚悟を決めた。
 女に真剣な眼でここまで言われて、拒めるものか。


「結婚しよう、ニーナ」


「……ハコくん!!」
 ニーナは嬉しさのあまり飛びついた。柔らかな裸身がハイコドの胸板に収まる。
「ニーナ……」
「ハコくん……」
 二人は見つめあった。
 涙に濡れたニーナの青い瞳、月明かりを浴びて輝く長い白髪を、ただ美しいと思った。

 悪く言えば、ハイコドが二股をかける決心をした、ということである。
 しかし、それでも。
 構いやしない。ハイコドは思った。例え二股野郎と罵られても。
 今はいい。面倒なことは、里に帰ってから考えよう。


 何しろ今ここでは、二人っきりの時間を楽しめるのだから。


                    ☆


「はぁ……良かった。断られたらハコくんの右眼を回転眼でエグろうと思ってたから」
「おいぃぃ!? そりゃまた物騒な脅しだな!?」
 抱き合ってハイコドの胸元に顔を埋め、その匂いを嗅ぐニーナ。
「やっぱりハコくんの匂い、好き……安心する……」
「あとニーナ、あまりくんくん匂い嗅ぐのを抑えてほしいんだが……」

 ニーナは、そのまま首を横に振った。

「これからよろしくね……あなた……」
 くんくん。
「あ、ああ……よろしくな」
 くんくんくんくん。


 二人の時間は、濃密に過ぎていくのだった。