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春もうららの閑話休題

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第13章


 猫が飛んでいる。


 ――もう一度言おう。


 猫が、飛んでいるのだ。


 まあ待って欲しい。
 言いたいことは判る。
 確かに猫は自立して飛ぶ生物ではない。この場合も飛んでいるというよりは、実は飛ばされているという方が正解であろう。
 そもそも今飛んでいるその生物も正しくは猫ではないわけだし。
 それは、正確には猫の獣人である。
 それは、ついでに言えば雄である。
 それは、さらに言えば毛色は三毛。
 三毛猫の雄だとすれば希少価値が高いということになるが、獣人の場合は全くの不明である。

 その猫の獣人が飛んでいる。
 具体的に言うと、数あるかまくらの上を自分の意志ではない状態で高速で飛行している。
 少なくとも自分でコントロールは出来ていない、というか恐らく意識が朦朧としている。
 良く見ると身体の表面が光っている。寒空に高速で移動しているせいで、お湯で濡れた表面が凍りついているのだ。
 その摩擦係数の低さを利用して、かまくらの天井や積もった雪の上を滑り、時には木の枝のバウンドなども加わって徐々に速度を増している。

 何故彼が、春先とはいえ雪の降るこの寒空、望まない形で一人きりの夜間飛行を楽しむことになったのか、順を追って説明する必要がある。


 ではまず、少しだけ時間を戻そう。


                    ☆


 彼の名はシオン・グラード(しおん・ぐらーど)

 そろそろ60代に差しかかった彼の肉体は、昔の面影もないほどに衰えていた。

 目尻に深く刻み込まれた皺は人生の苦悩を語り、弱々しく震える肉体は誰の身にも等しく訪れる時の流れの虚しさを叫んでいる。
 そろそろ耳も遠くなり人の話し声が聞き取りにくくなったり、目が霞んで本を読むにも苦労するようになったりしてきた。
 過去は修行に明け暮れ、幾多の冒険と死線を潜り抜けてきた男の頭頂部は一層の輝きを増し、歴戦の武勲を示す傷跡も、たるんだ皮に紛れて判別が難しくなってきている。


 ところで今日はお昼ごはんを食べただろうか?


 ――すまなかった。もうちょっと時間を戻そう。
 いや大丈夫。
 ちょっとだけ待って欲しい。

 40年も戻す必要はないのだから。


                    ☆


 ほんの数十分前。


「かまくらの中の温泉か――なかなか風情があっていいじゃないか」


 シオン・グラード(しおん・ぐらーど)は21歳の若者である。
 日々修行に明け暮れ若々しくパワー溢れる彼は、その瑞々しい肉体の――しかし修行や冒険による疲れを癒すべく、カメリアの山の温泉の噂を聞いてやってきたのだ。

「男湯と女湯と混浴か……。男湯と混浴、どっちにする?」
 振り向いて訊ねるシオン。別に今日は男同士だから家族風呂まで用意する必要はないな、と思いながら。

 後ろを歩いていた連れ、ナン・アルグラード(なん・あるぐらーど)は答える。
「ん? 男湯か混浴かと聞かれたら、そりゃあ混浴だろう」
「……即答だな、女性に触れることもできないのはそっちのくせに」
 やや戸惑いを見せるシオン。
 恋人のいる健全な男子としては、特にやましい気持ちはなくとも混浴一択かと言われれば悩むあたりであろう。
「まあ待て、別に助平心を出しているわけじゃない、混浴の方が温泉施設とか広く作ってありそうで、快適そうな気がしただけだ。
 大体混浴に入るのと女に触れないことは関係ないだろう……混浴だって触ったら犯罪だ。
 そもそも大衆浴場の混浴風呂なんかに若い女が入りに来るものか。よぼよぼのバァさんと、あとは男客だけだ」
 断言するナンに、シオンはため息で返した。
「そういうものかい?」
「そういうもんだよ」
 そこまで強く断言されては、逆に反対する理由もない。

「ま、いいか」

 別に今日は恋人と来ているわけでもない。山奥の温泉情緒を楽しむには、旅情溢れる混浴風呂で特別な気分に浸るのも悪くはなかった。
「おう。俺は少し準備をしてから行く、シオンは先に入ってろ」
「準備?」
「ああ――連れがはぐれた、探してから行く。ついでに酒でも調達してくるか――」
 あいつにもいつも苦労かけてるからな、とナンはぶつぶつ言いながらその場を去る。
「ああ、先に入っているよ」
 シオンもさほど気にすることなく、混浴風呂の入口をくぐった。


「ほほう――」
 混浴風呂は比較的静かで、ナンの言うとおり女性客の姿は特に見えない。
 そもそもお湯と空気の温度差のせいだろうか、湯気がまるで煙のように視界を遮って、他の客の顔を視認することさえ困難な状況だった。
「まぁ、これはこれで面白い。まるで広い温泉を貸切にしているみたいだし」
 シオンは腰にタオルを巻いて、浴場を歩く。
 掛け湯をして身体を洗うと、ゆっくりと湯船に身体を沈めた。

「ふぅ……やはり雪が積もっているだけあってなかなか寒いな。熱めの温度がちょうどいいや」
 手ぬぐいを頭に乗せると、もう旅情たっぷりの温泉気分を味わうことができた。
 何しろ、広いかまくらの温泉に、見渡す限り一人。見上げれば、天井の窓からはぽっかりと満月が見える。
 月の光に照らされて花びらがはらはらと舞って、シオンの近くに落ちた。

「なるほど、これは確かに酒でもあれば雰囲気が良かったろうな」

 手ぬぐいを取って、ふと汗を拭った。
 その手元に、若干の違和感を覚える。

「――手が、妙にシワシワしているな?」
 まさかまだふやけるほど温泉に浸かったわけでもないし。
 ――気のせいだろうか、とシオンが思ったその時。

「おー、こりゃあなかなかいいところじゃないか!」
 豪快な声がした。
 準備を終えたナンが入ってきたのだろう。
 腰にタオルも巻かないで仁王立ちになり、周囲をキョロキョロと見渡している。

「ああ、俺を探してるんだな」
 シオンはそう判断し、ナンに接近することにした。まず手を振ってみる。


 ――無視。


「? 見えてないのか? おーい!」
 見えないならと、呼びかけてみる。風邪でも引きかけていただろうか、妙にしわがれた声が出た気がする。

「? 誰だあんた?」
 そのシオンのほうを見て、ナンは言った。
「あれ? よく聞こえないな……無視はないだろう、ナン」
 いまひとつナンの言葉が聞き取れない。シオンは更に近づいた。
「うわ、俺はあんたみたいなのは知らん!!」
 狼狽し、距離を取るナン。
 一体なにが起こっているのか。


 ちなみに、ナンの視点から見るとこうなる。


 よぼよぼで皺だらけの、頭の禿げ上がった少なくとも60代以上の爺様が、親しげにこちらに接近してくる。


 もはや言うまでもないだろうが、その爺様はシオンである。
 この奇妙な効能を発揮する温泉のせいで、60代の年寄りに肉体が変化してしまったのだ。
 そして、当人はその事実に気付いていないが、何しろ声は低く耳も遠く視界まで霞んだうえに、湯気がひどくてよく見えていないが為に、ナンとまともなコミュニケーションをとることができないのだ。
 業を煮やしたナンは対策を講じる。

「よし……お前に任せる、山田」

 がっしと掴んだのは、先ほど探しに行った連れの獣人 山田である。
 面倒くさくなった、とも言う。

「あの謎の爺様を遠ざけてくれ!!」
「ふにゃ?」

 山田は戸惑いの声を上げた。
 無理もない、何しろ今日は日頃の労働に対する慰労のため温泉でゆっくり休めるはずだったのだから。
 だがしかし容赦ない主、ナン・アルグラードは今まさにあらんばかりの力を込めて腰にタオルを巻いた自分の後頭部を掴んでいるではないか。

 話が違う。

「後は頼んだっ!!!」
「にゃあああぁぁぁっ!!?」

 こうしていつもの通り、山田はナンの手で勢い良く射出されることになったのである。

 鍛え抜かれたナンの肉体によって投擲された山田は、肉体年齢が一気に上がってしまったシオンにかわせるものではない。
 まるで大砲のように、山田は一直線にシオンの顔面に向かって飛んでいく。
「あ、危ない!!」
 シオンの叫び声は、山田との衝突音でかき消された。
 次の瞬間、その肉体的ショックによりシオンの身体が元に戻る。
 だが、山田との衝突のダメージは大きく、シオンはそのまま湯船に打ち付けられ、派手に水しぶきをあげた。

 そして、山田はシオンとの衝突により角度を変え、あらぬ方向へと飛んでいく。


「あにゃあああぁぁぁっ!!!」


 山田はそのまま斜め上45度くらいの角度でかまくらを突き破り、夜空へと飛び出して行った。
「晩飯までには帰って来いよー」
 というナンの言葉も届かぬほどに。


 まあ無茶を言うなと。


                    ☆


 かまくらを飛び出した山田は、満月をバックに美しい放物線を描いて飛翔した。ものすごい飛距離であった。
 K点超えもかくやという飛距離をマークした山田は、ようやく着地する。

「あにゃ?」

 そこは、南部 ヒラニィとウィンター・ウィンターが作り上げた巨大カメリア像の胸元であった。

 すなわち、巨乳すべり台である。

 上空から飛来した山田は運動エネルギーを維持したまま、ものすごいスピードでそのすべり台を滑り降り、そのまま自然に地面へと着地する。
 だが、山田の大冒険は終わらない。
 うまく雪にめり込んでくれればこのまま停止できただろうが、うまい具合に角度がついて雪の上を滑りだしてしまったのだ。
 あまりに勢いがつきすぎて、柔らかく積もった雪の上を、延々と滑っていく山田。

 そのスピード感はまるで一流のボブスレー選手の演技のようだった。
 いや、一人だからリュージュと言うべきか。
 いや、頭部が先端だからスケルトンと言うべきだろうか?
 そのあたりはやはり本人のコメントを待つべきであろう。


「あにゃにゃにゃあああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!!!!!!!」


 ――どうでもよかった、という。