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一会→十会 —魂の在処—

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一会→十会 —魂の在処—

リアクション



【1】


 魔法世界を支配するヴァルデマール・グリューネヴァルトのしもべ――『君臨する者』サヴァス・カザンザキス。空京大学の機晶研究室の一つに突如現れたこの男によって、平静さを失った研究員達は『追跡者』と化したが、目的の獲物に直ぐに辿り着けた者は居なかった。
 ナージャ・カリーニン(なーじゃ・かりーにん)が起こしたオーバーロードにより、彼等は一時的に視覚と聴覚に異常をきたしていたのだ。こうして追跡者の行動が阻害された中、ナージャの合図を受け取っていたハインリヒ・ディーツゲン(はいんりひ・でぃーつげん)は何時も軍隊でそうするように、ツライッツ・ディクス(つらいっつ・でぃくす)は閃光を避けながら聴覚機能を遮断する事により、混乱の最中において、いち早く部屋を逃げ出していた。
 幸いハインリヒにとっても、此処は勝手知ったる場所である。視界を遮断するものが多い――追跡者に簡単には見つから無い上、逃走経路も確保出来る空間へ出て、誰一人も追いつけていない事を確認すると、二人は一旦動きを停止した。
 ハインリヒはスヴァローグ・トリグラフ(すゔぁろーぐ・とりぐらふ)を中心とした五体のギフトを配置につかせると、真っ先に端末を取り出したのだが、非常に通信状態が悪い。テレパシーなども同様であり、考えてみればこの不安定な空間を生み出している元凶の魔法石が此処にあるのだからと、上官との連絡を諦め視線を落す。自分も、ギフト達も、不測の事態に備え訓練を繰り返しているから、この状況に困惑はすれど焦りや不安は無い。心配なのは彼のほうだ。“兵器として作られ、それなりに場数を踏んでいる”。そんなものはこういった状況では余り頼りにならない。いきなり後ろから襲いかかられて、気を動転させずに行動出来るかどうかというのは、全く別問題なのだ。
 せめて普段通りの彼ならば、良かったのだろうが……。
 ハインリヒは気遣っている相手――ツライッツは廊下に座り込み、開胸された部位を確認していた。彼は機晶姫の中でも特に人間に近づけて作られたタイプで、人工の皮膚の下には矢張り人間のそれに近い組織が存在する。最深に存在するのが心臓では無い――石だったとして、皮膚が裂けて血液の色が流れ落ち内部が剥き出しになっている光景は、見ていて気持ちの良いものでは無かった。それにツライッツは動力源の機晶石まで含めた精密検査の最中であった為、上半身はシャツの一枚も着ていない。本来は貸与していいものではないのだが、今は規則を放り出してハインリヒは着込んでいた軍服の上着をツライッツの肩にかけた。
「それ、痛かったりしないよね?」
「痛覚はありません、というより……感覚が上手く、働いていないみたいで……きちんと閉鎖するにも、道具がないので、傷口がお見苦しくて、すいません……」
 マスタークローディス・ルレンシア(くろーでぃす・るれんしあ)がリーダーを務める遺跡調査団で彼女の補佐役を務めるツライッツは、その職業柄かポケットに幾つか道具を仕舞い込んでいた。その中にテープがあったので、それを簡易補修に利用し皮膚組織を上から抑えている最中らしい。
 ただ、その手元が震えていた。
 その理由は明白である。クローディスが命を脅かされるような事件に巻き込まれたのは、つい先日の事で、彼女は現在もその影響を肉体に残し入院中だ。ツライッツはマスターに危険が迫る中でそれを止められなかった事、守りきれなかった自分を責め悔いている。そんな精神状態の時にこれなのだ。彼のクローディスの守護者たる機晶姫としての自己同一性は、いよいよ危機に瀕していた。
 ハインリヒの同情する視線に気付いて、ツライッツは何を思ったのか「手元が震えてすみません」と口にする。痛々しいのは傷口だけでは無い。名を呼ばれただけで、過剰な位にびくっと反応し、何度も何度も謝罪を繰り返す。此処迄疲弊した相手に、ハインリヒは大丈夫か等と馬鹿な質問はせず、軽い調子を取り繕った。
「確かにクローディスさんは危険な目に遭い易いけど、それ以上に悪運が強い人だ。そう簡単に死んだりはしないよ。彼女には仲間も居る。
 この間だって、歌菜(遠野 歌菜(とおの・かな))さんたちが守ってくれたんだろ?」
 こくりと控えめに頷いたツライッツに、ハインリヒは力強い言葉を続けた。
「魔法石についてはきっとカリーニン博士達が対策を練ってくれるし、アレクや豊美ちゃんも居る。それまで君の事は僕が守るよ」
「めめっ、めー!」
 背中を守る子山羊――最近遂にツライッツにも見分けがつくようになってきた、あれは恐らくスヴァローグ――が何かを伝える様に片手を上げたのに離れている残りの四体からも声が続く、「あと彼等も居るから」とハインリヒが付け足した。
「クローディスさんは、君のマスターは大丈夫。すぐに良くなる。その為にはツライッツ、君が元気で居なくちゃ」
「……すいません……俺、は」
 何かを言いかけて、結局そう呟いたツライッツは、縋るように視界に映ったハインリヒの左手を掴んだ。瞬間、ハインリヒの眉が僅かに歪み、ツライッツの瞳を見る。彼の虹彩は本来ブラウンなのだが、今は血液のように鮮やかな色が、まるでバックライトでも点灯させたように光りを持っていた。
 ツライッツの見た目は人間と寸分変わらない。勿論男性であるのに女性のような繊細さを持った身体が左右が対称すぎる上肌に傷一つ無い、と、細かく見て行けば人間としてはおかしなところは枚挙に暇(いとま)が無いが、ナージャの様な専門家でなければパッと見て分かる違いでは無い。勘の鋭い者で精々マネキン人形を見た時のように不気味の谷現象を感じる程度だろうか。だからリミッター解除後のこの色は、こうして人ならざるものだと表面に出す事で、周囲へ注意喚起を促す為に作られたのかもしれない。
 “モードレッド、リミッター強制解除します”。ツライッツが自身の意志と関係無く機械として吐き出した言葉を、ハインリヒは思い出した。ツライッツは精巧に出来た機械だ。彼が芸当と言える程、力加減の微調整が可能なのは、度の過ぎた冗談を働く度に制裁を加えられたハインリヒは身を以て知っている。しかし今この手を握りしめる力はどうだろうか。骨が軋み破壊されていくのを感じながら、それを表情に出さない様に務め、考える。
 今のツライッツを誰かと対峙させる訳にはいかない。それはツライッツの為であり、相手の為でもあるのだ。
「兎に角一度この場を離れよう。取り敢えず……体育館か多目的室辺りを目指そうか。
 この魔法石の起こす空間異常の有効範囲が何処迄かは分からないけれど、此処より開けた場所の方が幾らかマシだろうし」
 ツライッツの肩を叩いて促し先導するように背を向けると、ハインリヒは左手を盗み見た。成る程矢張り指が有り得ない方向へ歪んでいる。経験上まともな位置に直す事くらいは出来るが、此処迄酷いものをツライッツに見つからずに全く元通りにする事は出来ないだろう。これ以上彼を動揺させてはならないと、内出血の変色が始まる前にポーチから取り出したタクティカルグローブで外傷を隠し、ハインリヒは振り返ってツライッツへ器用な笑顔を見せた。



 その頃、ナージャと共に研究室に残ったヨシュア・マーブルリング(よしゅあ・まーぶるりんぐ)は、喧騒のあとの静けさに、がらりとした研究室を見回していた。
「えーと、取り敢えず」と、散らばった機晶石を拾い集め横目でパートナーを見ると、ナージャが画面を見ながら頭をかしかしと掻いて溜め息をつく。
「それにしてもよりにもよってというか――」
「どうしたんです?」
 聞き返すヨシュアに、ナージャは振り返り、ツライッツという機晶姫の特殊性について説明をする。
「機晶姫の面白さっていうのはその多様性にあると私は思うんだけどね、ツライッツは本当に何の目的で作られたか分からない」
「……ということは、彼は特殊な体を持っているんですか」
「兎に角変わった個体みたいで、何処かの遺跡と繋がってるみたいなんだけど、それ故に構造が複雑で特殊。更に人間に擬態するに当たって、出力に制限がかかってる。
 尤も、さっきそのリミッターが外れた訳だけど……」
「リミッター……。先程も言ってましたね。それは?」
「リミッターを解除するって言うのは本来、さっき話した“出力を正常に戻す”って意味。
 ……な訳だけど、例のアレのせいか、感情や感覚抑制のリミッターもいっしょに外れてしまってるから、その出力を調整できてないし、彼は多分それに気付いていない」
 ナージャの言葉を脳内で反芻し、ヨシュアは表情を曇らせながら頷く。
「つまり……」
「こういう例えはなんだけど、彼が猛獣だとして――。
 咬んだら相手殺しちゃうのに気付かないで、甘えるつもりで牙立てちゃうような事もするって事」
 目を見張った後で、沈痛な表情で、ヨシュアは目を伏せた。
「ハインツさん……二人とも、どうかご無事で」