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リアクション
45
今日は、死者に会える日。
ということは、ずいぶん前に亡くなった母――イーリス・ベルンハルトに会えるのではないか、と。
――会えるなら、会いたい。
ハンス・ベルンハルト(はんす・べるんはると)は、普段着ている黒の背広を脱いだ。背広の下に着用していた臙脂のシャツも、丁寧にボタンを外していく。
代わりに身に着けたのは、白のブラウスに紺のスカート。
それから鏡の前に立ち、化粧道具を並べた。
ファンデーションを塗り、アイメイクも施して、チークをつけてグロスを塗って。
いつも履いている革靴を脇にどけて、可愛らしいパンプスを履き小ぶりなハンドバックを手にしたら、どこからどう見ても可愛らしいお嬢さん。
――こういう格好は、随分久しぶりかもしれないわね。
スカートのすーすーする感じやら、パンプスのふんわりとした、けれどやや足指に痛い感触。化粧品の香りが懐かしい。
普段通りの格好をしていたら、母に会う前に教導団の憲兵に捕まるかもしれない。それは時間の無駄だし面倒だ。
だけどこの格好なら見抜けまいと、堂々とメインストリートを歩く。
予想通り捕まることなく広い公園まで出た。
ベンチに座っている金髪の女性を見て、ひとつ深呼吸。
「母さん」
呼びかけると、女性が――イーリスが立ち上がった。ハンスは早足にイーリスのもとへ向かう。それからぎゅっと抱きしめた。
「オル――」
「母さん。……本名で呼ぶのはやめてほしい。今の私は『ハンス』です」
イーリスの言葉を遮って、ハンスは言う。
「パラミタに居る限りは、この偽名が私にとっては本名ですから」
「……そうですね。今の名前は『ハンス』でしたね」
うん、とひとつ頷いて、イーリス。
母からもらった名前を偽名で隠すのは、ほんの少し忍びないけれど。
「元気そうで何よりです。ちゃんと身体に気をつけてる?」
だけどイーリスは、そんな些細なことを気にすることなく微笑みかけてくれた。
「ええ」
ひとまず、安心させるように頷いて。
「とりあえず、今の私の話しをでもしましょうか」
これまでにあった出来事を、滔々と語る。
話が一段落したとき、
「随分とお金稼ぎに執着しているようだけど……貴女のことが心配だわ」
イーリスが不安そうな顔をして、言った。
その気持ちは、わからないでもない。人間、金が絡むと人が変わるものだ。恨まれたりもするし、憎まれたりもする。金目当てで見ず知らずの人間から攻撃を受けることだって。
「止める気はないかしら?」
「ないですわ」
けれど、ハンスは即答した。
「私には目的がありますから」
イーリスが死んで、その後自分が世話になった人たちや孤児院が安定するまで。
ハンスは、いくら荒っぽいやり方だろうと悪行だろうと、構わず金を稼ぐことを第一に考えるだろう。
そのことを悟ったのか、イーリスが笑った。どこか悲しそうに。
「そう言うと思ってました。貴女のことだものね。考えを曲げることはしないって、わかってました。昔からそうだったものね」
だけど、心配だったから。
言わずにはいれなかったと、イーリスは言う。
「恩には恩で返す。それが母さんの教えでしょう?」
「ええ。今でも覚えていて、守ってくれているのは嬉しいです。
だけどねハンス。ひとつ覚えておいて。
貴女の今は、私の望んだことではないということを……」
「…………」
返す言葉が見つからない。
わかっているのだ。こういうことをしている以上、自分がいつ死んでもおかしくないことなんて。
今現在、ハンスが失ったものは左腕だけで済んでいる。次に何がなくなるかはわからない。もう片方の腕かもしれないし、足かもしれない。あるいは――命かもしれない。
そんな危険な道を、親であれば歩んでほしいなどとは思わないだろう。
そんなこと、わかっているけれど。
「私が進んでやったことだから」
これでいいのだと。
「……ごめんなさい。私が病気で早々に死んでしまわなければ、貴女ひとりにそんな辛い思いをさせずに済んだのに……」
「母さんは悪くないわ。たった今言ったでしょう、私が進んでやったことだから」
だけど、とイーリスが口を開きかけて、やめた。
代わりに、そうね、と呟いた。消え入るような声だった。
「……時間だわ」
それから立ち上がる。もう、帰らなければいけない時間らしい。随分と長い間話し込んでいたようだ。
「さようなら、ハンス。身体には気をつけてね」
「さようなら、母さん」
短い挨拶を交わし、去っていく母の後姿を見つめた。
――次に会うときは、ナラカになるかな。
またこうした超常現象が起こるより早く、死んでしまうかもしれないから。
――まあ、そう簡単には死ねないけれど。
――何せまだ、義理を果たしていないのだから。
それまでは死ぬものか。
強く思いながら、イーリスの通っていった道を真っ直ぐに見続けた。