リアクション
※ ※ ※ 「ひゃっほーーーー!!」 雲1つない快晴。夏の太陽の日差しを浴びてキラキラ光り輝くエメラルドグリーンの湖面を見て、小鳥遊 美羽(たかなし・みわ)は歓声をあげてジャンプした。 パシャパシャ水を蹴立てて走り込んでいく。 「美羽、待って」 「コハク! 早く早く! 気持ちいーよー!」 さざ波の立つ湖にひざ下まで入ったところで美羽は振り返り、まだ浜にいるコハク・ソーロッド(こはく・そーろっど)に向かって手をぶんぶん振った。 「美羽、その前に準備運動しないと!」 「へーきへーき。ここ、遠浅みたいだから。足のつかない所まで行かないよー」 そう言って、美羽はぺたんとその場に腰を下ろした。胸のところでちゃぷちゃぷいっている透明な水をおわんのようにした手ですくい、それがこぼれていくのを楽しげに見つめる。 と、その手元でピチャッと魚がはねた。 「魚! 魚がいるよ、コハク!」 ねえ見てあれ! と指さす先で、今度は魚が空中へジャンプした。 キラキラ光の飛沫のような水滴が跳ね飛んできて、美羽はきゃっと笑い声をあげる。 「まったく……」 口ではそう言いながらも、楽しそうな美羽の姿を目にしてコハクの口元には自然と笑みが浮かんだ。 最近精神的につらいことが続いて、生来の輝きを少し失ってしまっている美羽を見守ってきたあとなだけに、あんなふうに無邪気に笑う美羽を見ることができるのがうれしかった。 もっと、もっと、こんな美羽を見ていたい。ずっと。決して見飽きることなんてないから。 そんな幸せな思いに満たされながら美羽を見つめていると、視界の隅にちらちらと赤いものが入った。 「遠浅、なのね、ここ」 ほっとしたつぶやき。 同じ蒼空学園の生徒で、つい最近一緒に旅をしたハリール・シュナワだった。 どこかへっぴり腰の姿、手にした浮き輪。そこから導き出される答えは1つ。 「ハリール、きみ泳げないの?」 瞬間、ハリールの顔が髪に負けないほど赤くなった。 「お、およ、泳げるわよ! ただたくさん泳げないだけで!」 「泳げるってどのくらい?」 ああやっぱり、という顔で横からひょこっと桜月 舞香(さくらづき・まいか)が顔を出した。そのまま見上げるようにしてハリールを覗く。 「……5メートル、くらい……。4メートル、かも」 それは泳げるというのだろうか? ちょっと足で蹴って、惰性で進む距離がそれくらいじゃないだろうか。 コハクも舞香も思ったが、口には出さなかった。 「さ、3メートルは泳げるわ! 間違いなく!」 沈黙に耐え切れず、ハリールは力強く叫ぶ。頭から立ちのぼる湯気が見えそうなほどますます顔を赤くしているハリールに、舞香は質問した。 「水が怖いの? 何かトラウマとかある?」 「ううん。村の近くにある池や川で水浴びはしてたんだけど、泳ぐまでもない大きさや深さだったから、特に必要とも思わなくて……」 ハリールの答えを聞いて、舞香がうなずいた。 「なら問題ないわね。ちょうどいい機会だわ。ここは波もほとんどなくて穏やかだし、遠浅だし。ここで泳ぎを覚えちゃいましょ」 「えっ?」 びく、と反射的肩が揺れる。早くも腰が引けているのを感じて、舞香は肩を掴んだ。 「ハリール。あなた、以前あたしの技を見て自分も身につけたい、って言ってたわよね」 「う、うん…?」 「いい機会だわ。訓練、つけてあげる」 「え? でもそれってあの華麗な剣技であって、泳ぎってわけじゃ――」 「何を言うの、ハリール。まずは体を作らないと! それが基本でしょう! 水泳というのは全身の筋肉を鍛えるのに最適なのよ!」 「え? えーと……それは、そうかも……」 「じゃあこれはポイしましょう」 ハリールが揺らいだところで、素早く舞香は浮き輪を奪い取った。 「あっ」 思わず取り戻そうとしたハリールの伸びた手の先からさらに浮き輪を遠ざけて、荷物の方へ放る。 「あんな物に頼ってたら、いつまで経っても泳げないわよ。こういうのは実践あるのみ!」 「コハク!」 「うん。それがいいと思う。彼女が正しいよ」 ちょっと強引すぎる気もしたが、コハクも大筋で舞香の意見に賛成だった。 「僕も協力するから。ね?」 今の彼女にとって命綱とも思える浮き輪にちらちら目をやっているハリールを優しく言い諭す。ハリールはそんなコハクと舞香、2人を交互に見た。 (2人だってきっとほかの人たちみたいに泳いで楽しみたいに決まってるのに、あたしのことを考えてこんな…) ハリールは決意を固めるようにぶるっと身をふるった。 「2人とも、よろしくお願いしますっ!」 しかしほんの数分足らずで、ハリールは先の決意を半ば後悔するハメになった。 「まずは浮く練習! ダルマ浮きからよ! 水中ではしっかり眼も開けておくのよ!」 舞香はかわいい容姿に見合わず、軍の鬼教官並にスパルタだったのだ。 「あごを上げない! 息継ぎは横から! ほら、こう!!」 沈んだ顔に手をあて、グキッと音がしそうなくらい強引に横へ向ける。 「そう! いいわよ! それを忘れないで! 数を数えて、タイミングを合わせて、常に一定のリズムで息継ぎをするの! 次、バタ足! コハクくん、前に回って腕掴んであげて」 「う、うん…」 「ほら、しがみつかない!」 「だって、まい……かっ」 「ちゃんとコハクくんが掴んでてくれてるから! あなたは軽く添えるだけでいいの! 分かったら手の力を緩めて、ひじを伸ばして! 体から力を抜けば、自然と浮くわ。そうしたら、あとはしっかり水を蹴る! 駄目よ、脚が曲がってるわ! そんなんじゃあしぶきが上がるだけでちっとも進めないわ! クロールで25メートル泳げるようになるまで陸に帰さないわよ!」 (ひ〜〜〜〜〜〜んっっ舞香の鬼〜〜〜〜っ) ハリールは半泣きになっていたが、涙も悲鳴も全部自分のたてる水しぶきに掻き消されて、ハリール自身の耳にも入らない。無心と言えば聞こえはいいが、真っ白になった頭でただもう必死に舞香の言いなりに手足をばたばた動かしていた。 すっかり舞香の助手となっていたコハクは、ふと美羽の存在を思い出してきょろきょろ周囲に目を向ける。最後に見たときは、少し離れた所でぷっかり浮かんでこちらの様子を楽しそうに見守っていたのだが、いつの間にか美羽の姿は見えなくなっていた。 しかしあわてることもなく、すぐに美羽の姿は見つかった。ビーチにいて、だれかと話している。 「あれは……」 目を凝らしてじっと見て、それがだれだか分かったコハクは「ごめん。ちょっと抜けるね」と2人に断りを入れて、その場を離れた。 「よ、よかった……あたしたちも、彼が戻ってくるまで、休憩、ね…」 やっとひと心地ついたと、ふーっと大きく息を吐き出すハリールの傍らで、つられるようにコハクが向かっている方向を舞香も見た。 「あれって、もしかして東カナンの人かしら?」 遠目で、しかも横顔だったが、見覚えのある男だった。舞香は少し顔をゆがめる。 「ねえハリール。今さらだけど、あなた東カナンへ来て大丈夫なの?」 「え? ええ。ジェドを、連れて来さえ、しなかったら……だって、この地で危険なのは、あたしじゃなくて、ジェドだもの」 息を整えながらハリールが答える。 「ここに来るのも、大分迷ったの。ジェドを置いて、あたしだけ来ていいのかしら? って。ここはジェドの故郷なのに、ジェドは来れないんだもの。 あ、もちろんジェドは幼くて、ほとんど記憶がないし、あっても昔のカナンだっていうのは知ってるのよ? でも……やっぱりね」 舞香に小さく笑って見せて、空をあおいだ。 「すごくきれいな所ね。来てよかった。美しいカナンを知ることができたんだもの。もっともっと美しいカナンを知って、それをジェドに話してあげようと思うの。あなたの故郷はとてもきれいな場所なんだ、って。あの子が故郷を誇りに思えるように。 お土産みたいなものね?」 「そうね」 舞香もうなずく。しかし次に舞香が口にした言葉は完全に予想の範囲外だった。 「じゃあやっぱりハリールは、問題なく泳げるようにならなくちゃね! あなた自身の成長した姿をお土産にできるようにしてあげるわ! それがあたしからジェドくんへのお土産よ!」 「……えっ?」 まさかそうくるとは思わなかったと、思わず身構えてしまったハリールは一生懸命何かごまかしの言葉はないかと探すが、プチパニを起こした頭は適当な言葉をひらめいてくれない。 「あの、でも、いきなりすぐは無理……」 「何言ってるの、泳ぐのなんか簡単よ! 水を好きになればいいの! あたしが見たとこ、あなたはもうここを好きになってるわ。あとは水で楽しむことを覚えるだけね!」 「え、えーと、えーと。あ、でも、コハクくんが戻ってこないと――」 「大丈夫☆」 と、舞香がかわいくウィンクを飛ばす。 「休憩はあげるわよ、ただしあたしが空飛ぶ箒エンテを持ってくる間だけね。浮き輪を使って、ちょっとした余興に水上スキーでもやってみましょう。あたしが引っ張ってあげる」 「……って……えっ? えっ? ……え? えええええええええええ〜〜〜〜〜〜っっっ!!」 「水で遊ぶ楽しさも覚えて帰りましょうね! あ、悲鳴はどんどんあげちゃってね。ストレス発散にもなるから。なんといってもストレスは美容の天敵、ぱーっと発散しちゃいましょ☆」 ハリールの面に浮かんでいる、完全に混乱しきった表情を見てくつくつ笑ったあと、舞香は輝く笑顔でそう言ったのだった。 ビーチへ戻ったコハクは、滴を振り払って美羽の元へ行く。すでに人はいなくなって、そこにいるのは美羽だけだった。 「お疲れさま、コハク」 片ほおをもぐもぐさせながら言う。手にはひと口かじられた焼き菓子が乗っていた。 「今いたの、セテカさん?」 「うん。これを届けてくれたの」 美羽が脇から持ち上げたのはバスケットで、そこにはドライフルーツがちりばめられた焼き菓子や溶けた砂糖がたっぷりかかった揚げ菓子といった菓子類が、丁寧に個別包装されて入っていた。口はかわいらしくピンクや赤のカールしたリボンで結ばれている。 「それ……」 「おいしそうでしょ。今1個食べてみたけど、見た目どおりおいしいよ! コハクも1つ食べてみて」 美羽から手渡されたナッツのカップケーキのような物をほおばる。 「おいしいでしょ?」 「うん」 もぐもぐ。カップケーキを食べるコハクの前で、美羽はクッキーを太陽に透かすように持ち上げた。 「しかたない、これで許してあげよう」 何かそんな独り言をつぶやいて、ぱりんと噛み割る。 コハクには全く意味が分からなかったが、見る限り美羽は納得しているみたいなので、訊くのはやめた。 「私たちだけじゃ食べきれないくらいいっぱいあるから、あとでハリールやみんなと一緒に食べようね!」 にっこり。 美羽は満足そうな笑顔をコハクに向けた。 |
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