校長室
黄金色の散歩道
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暗闇に一筋の どこかの薄暗く汚れた路地で、グレゴリーはご機嫌な足取りで歩いていた。 グレゴリーというのは、この体に憑依した魔性の名前だ。およそ二百年前から存在している。 宿主の名はメアリー・ノイジー(めありー・のいじー)という。 メアリーの前の主の策略により憑依したのだ。 そして百年前、身体の主導権を奪い、メアリーの制作者と兄弟達を瀕死に追いやった。 その後、封印されてしまったのだが今は再び目覚め、パートナーから離れている。 ふと、グレゴリーは足を止めるといびつな笑みを浮かべた。 「チビを切り裂いた時のガキの顔ったら! もうちょっとからかっとくんだったなぁ」 思い出しては低く笑いながら、グレゴリーは闇に消えていった。 担ぎ込まれた病院でどうにか一命を取り留めた少女は、ザンスカールの病院に移されていた。 あの場にいた、メアリーの弟と名乗ったアンネ・アンネ 三号(あんねあんね・さんごう)の紹介だ。 それからずっと、ニケ・ファインタック(にけ・ふぁいんたっく)は少女──マイシカ・ヤーデルード(まいしか・やーでるーど)の傍を離れなかった。 もう何日も経っているのに、少女は目を覚まさない。 点滴と繋がった細い腕が痛々しい。 (私がもっと注意深く動いていれば……) 実際問題としてそれが困難であったとしても、ニケの胸には後悔ばかりが生まれた。 (どうか、目を覚ましてください) 思いを込めてニケが少女の手をそっと包み込んだ時、ふっと意識が遠くなったかと思うと、次の瞬間には見たこともない映像が見えた。 ──誰かが、泣いている。 (誰……?) この時、ニケは誰かと視点を共有していることに気がついた。 (もしかして、この女の子の? こんなことって……) 突然、ガツンッと視界がぶれる。 見えるのは、薄汚れた床とおそらく自分を張り倒した何者かの靴。 涙がにじんでも助けてくれる手はない。 二度、三度と蹴られ軽い体が床をはねる。 数日前、少女はこの何者かに無理矢理強化人間にされた。 この何者かは、少女の『ご主人』だ。 少女の家は貧しく、まだ物心もつかない頃にここに売られたのだ。 この『ご主人』は、少女を物のように扱った。 ある日、とうとう少女は逃げ出した。 着の身着のまま、いつあの恐ろしい手に捕まえられるともわからない恐怖に怯えながら逃げて逃げて──気がつけば、ごみ溜めの中で気を失っていた。 その時、『おにいちゃん』に出会った。 『おにいちゃん』は、やさしかった。 初めて楽しいと思う日々を送った。 このままずっと愛してくれると思っていた。そのはずだった。 向けられるやさしい笑顔が、冷酷な笑みに変わる。 嘲るように背を向けて行ってしまう。 (おにいちゃん、どこへいくの? あなたがいてくれないと、わたしは) 遠くなっていく背にすがろうと手を伸ばそうとしても、体中が痛くて指先さえも動かせない。 (こんなわたしだから、おにいちゃんはわたしをきらいになったんだ……) 体も心も芯から冷えていく。辺りからどんどん光が消えていく。 (いたくてつらくてくるしい。だれもいなくて、ひとりぼっちはさびしい) けれど、もうここから這い上がる力はなさそうだ。 目を、閉じてしまおうか。 そうすれば楽になれる。 がんばったところで、もう何もないのだから。 暗闇に身を委ねてしまおうとした時、誰かの声が聞こえた。 知らない声なのに、自分を呼んでいることがわかった。 暗闇に目を凝らし、耳をすます。 すると、声に込められたあたたかい想いを感じた。 闇の中に、光が差す。 たった一筋の頼りない光だが、それを掴もうと手を伸ばしたとたん、光は増幅しいてきやがてすべてが明るさに照らされていった。 小さな手を握りながら、ニケの目からとめどなく涙がこぼれる。 ひたすらに眠る少女に謝っていた。 (ごめんね。私があなたの幸せを奪ってしまったんだね。でも、こんな私でよかったら傍にいるよ。いなくなったりなんてしない。私は……) ふと、ニケはメアリーを思い出す。 かつて、彼女にとってメアリーは光だった。 今はそうではなくなってしまったけれど、それでも大切なパートナーであり何としてでも取り戻したい存在だ。 (私は、あなたの光になりたい) そして、取り戻した時はきっと、ニケとメアリーとこの少女で明るく笑い合っているのだ。 その日も、結和・ラックスタイン(ゆうわ・らっくすたいん)とアンネ・アンネ 三号(あんねあんね・さんごう)は病室を訪れた。 「ちゃんと休んでますか……ニケさん」 ニケはかけられた声にハッと顔をあげた。 人が入ってきていたことにまったく気づかなかった。 「……こんにちは。まだ、目覚めないんです。でも……」 ニケは、この少女のものと思える記憶の断片を見たことを話した。 結和はしばし考えた後、穏やかな微笑みを見せた。 「精神感応……ですね。大丈夫ですよ、ニケさん」 結和は、無表情に泣くニケの涙をそっと指先ですくい取る。 「この子は、あなたに話しかけているんです。あなたにも同じことができるはず。何度も呼びかけてあげてください」 ニケは少女に視線を戻し、握ったままの手に少しだけ力を入れた。 少女の心に届くように、強く祈る。 結和はその背に問いかけた。 「ニケさんは、プリーストやミンストレルの経験はおありですか? 祈りも歌も、人が想いを込めたものは力を得ます。だから願いましょう、たくさん想像しましょう。幸せな未来を」 ニケが返事をすることはなかったが、代わりに彼女は幸せな未来をありったけ想像した。 アンネは三人から少し離れたところからそれを見ていた。 そして、彼は消えかけていた命が吹き返す瞬間を見た。 少女の閉ざされていたまぶたが開く。 まるで何かを探しているように頼りなくさまよった瞳がニケを捉えた。 結和は安心したように微笑み、ニケの肩にそっと手を置いた。 ニケは、今度は安堵と嬉しさから涙をあふれさせたが、口元には笑みがある。 「……ひかりが、みえたの」 かすれた声でたどたどしく紡がれた言葉。 ニケはただ頷いて少女の手をきゅっと握りしめる。 二人が契約してからようやく、お互いの名前を教え合った。