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■第9章

 どこともしれない地下水湖の館で、怒涛の日々が過ぎていった。
 そこにいるのはエリックとクリスティーヌのほか数名のみ。
 寝ているときと食事しているとき以外はすべてエリックからのレッスンに明け暮れた。
 何度も何度も繰り返し、彼女がそれを自分のものとするまで決して妥協せず、ときには数時間かけて1つのフレーズを教え込む。エリックはすばらしい教師で、普通であれば習得するのに何年もかかる技法をわずか数日で彼女に伝授することに成功した。
 そしてそれに応えることのできたクリスティーヌもまた、天賦の才の持ち主であることは間違いなかった。

『もうじきだ、クリスティーヌ! もうじききみはあのオペラ座の舞台に立ち、満場の観客の前でただ1人スポットライトを浴びることになる。わたしたちはきみの声で、パリ中の人々をあっと言わせるんだ!!』



 夜。
 クリスティーヌはどうしても寝つけず、館の中をさまよい歩いた。
 アリアを起こせば、ホットミルクなりを作ってくれ、寝つくまで一緒にいてくれただろう。今までもそういうことがたびたびあった。
 けれど、今夜ばかりはそういったものではごまかせそうにない。
 クリスティーヌはそっと館を抜け出して、暗い水の流れる湖のほとりにしゃがみ込んだ。

 熱に浮かされたようなエリックの言葉が耳から離れない。
 <音楽の天使>……いいえ、エリック…。
 <音楽の天使>が天上の御使いにあらず、人間であったことはショックだったが、それでも彼がただの人でないことはすぐに分かった。
 彼こそまさに音楽の神に愛された、この世でただ1人の者。1000年に1人現れるかどうかの天才。
 なのになぜ彼は、この暗くじめじめと湿った地下に引きこもっているのだろう?
 彼の方こそ、舞台の上で脚光を浴びるにふさわしい人なのに…。

 クリスティーヌに重なった途端、そんなクリスティーヌの疑問が流れ込んできて、白銀 司(しろがね・つかさ)は胸を押さえた。
(悲しんでる、クリスティーヌ…。エリックにそう訊きたいんだよね? でも、その理由を知るのも怖がってる。それが自分の手に負えないものであったらどうしよう? って…)
 知りたい。でも知るのが怖い。

(――うん。そうだね、クリスティーヌ。でも、避けてたってどうにもならないと思う。何か理由があって、そのせいで彼がこんな地下でしか暮らせないのだとしたら、そっちの方が悲しすぎるもん。今度は、こっちが彼の力になってあげる番だよ!)
 私たち2人で、力になろう。
 司扮するクリスティーヌはすっくと立ち上がり、エリックの元へ向かった。
 どこにいるかは分かっていた。最近彼は夜になると、舞台のための曲を書き下ろしているのだ。生涯かけての大作だと、以前言っていた。それが完成したとき、それを胸に彼は棺桶に入るのだと…。
 かすかに漏れ聞こえてくるそのメロディを追えばいい。

 作曲の邪魔をしないよう、そっと開けたつもりだったのだが、蝶番がキイィ…と音をたてて鳴り、ぴたりとピアノの音は止まってしまった。
「……クリスティーヌ?」
 エリックが肩越しに振り返ってくる。
 壁中に設置されたロウソクの明かりに照らされたその姿は、リストレイターのものだった。
 仮面のエリックと二重写しになっている。
(あれは怪人? それとも…)

「エリック、お願いがあるの…」
 司が迷っている間に、唇から自然と言葉がすべり出た。
 クリスティーヌだ。
(そうだよ、クリスティーヌ。言って。私がついてるから!)
 いつの間にか握り締めていた手に、クリスティーヌの勇気を感じて、司はエールを送った。

「あなたにはいくつも顔があったわね。壁の向こうからの<声>、わたしに歌い方を教えてくれた<音楽の天使>、そしてその仮面をつけた<オペラ座の怪人>…。でもわたしは、本当のあなたが知りたいの。真実のエリックが。
 お願い、その仮面をとって、その下の素顔を見せて」
「……私の素顔が知りたいと?」
 エリック――鼎は立ち上がり、クリスティーヌに一歩近づいた。
 クリスティーヌはおびえて少し身を引いてしまう。しかし司はぐっとこらえ、その場に踏みとどまった。

「女とは、なんて好奇心の強い生き物だろう。まるで猫のようだ。あちらを向き、愛想をつかしたように見せかけて、背後からじっと様子を伺い、飛びかかるタイミングを見計らっている。飽きもせずひたすらに待ち続ける。こちらが気をそらし、油断するのを待ってね!
 そんなことより、こちらへおいで、クリスティーヌ。起きていたのならちょうどいい。さあ、オペラを歌おう」
 最後、彼はまるで侮辱を浴びせるような口調でつけ足した。「そんなことより」のひと言で、彼女の勇気を一蹴し、嘲けたのだ。

 クリスティーヌ――司は腹を立て、つかつか歩み寄るとすばやく彼の顔から仮面を剥ぎ取った。

「私は、どんな素顔でもかまわない! たとえそれが世の中で醜いと称されるものであっても! あなたはエリックだもん!」
 内心では、きっと驚くに違いないと思っていた。でも覚悟を決めていた。
 仮面で隠されていたものがどんな顔であろうとも、絶対拒絶したりしない。受け止めてみせる!

 固い決意でエリックの顔がこちらを向くのを待つ。
「……ふ。ふふふふふ…」
 そむけられ、半ば背を見せたまま、エリックは笑った。 

「――クリスティーヌ……どうしても仮面の下を見たいと言うのか…?
 いいでしょう。見なさい! これが私の顔です!」

  ――カッ!!

 クリエイター権限発動! 振り向いたエリックの顔から強い光が放たれる!!

「……あっ、まぶしいっ!!」
 ひるんだクリスティーヌが、思わずおおった手の下から覗き見た、その顔は――――……

 六鶯 鼎(ろくおう・かなめ)の顔だった。



 キラキラ、キラキラと後光のように顔を照らす光。
 エリックは、さっと目を伏せた。
「……どうです? 整い過ぎているでしょう?」

 ――うわぁ、言ったよ! 言い切ったよこのヒト!!

「この非の打ち所のない顔のせいで、私は幼少のころから何かと脅かされてきたのです。連日連夜、路地裏から札束を手に近づき、こっちへおいでと手招きするのは男女を問いませんでした。そのおかげで今もこうして地下に豪邸を持つことができたのですがっ!」

 ナニしてたんですか? まさか半殺しにした上での強盗ですかッ?

「それでも子どものころはまだマシでした! 成人してからは常々変な女性から殺されかけるし、男性からは爆弾と一緒に「リアジューハ爆発シロ!」と書かれたメモ入りの箱が次から次へと送りつけられて来た!
 私はリアジューですかっ!? たしかに毎日毎日どこかしらの大富豪からヨメに来いだの、石油王から王妃にしてやるだの、公爵からは好き勝手にしていい国を与えてあげるからだのが届けられましたがッ!! 私は決してリアジューではないのです!!」

――ないかもしれないけど、それを盾にとっていろいろイロイロ裏でやって充実してそうだよねー。

「……ええい、うるさい! このト書き!」
 ――きゃん…っ。

 見えないハズの太字ツッコミまでもバシッと蹴り飛ばし、エリックはあらためてクリスティーヌに詰め寄った。

「この仮面は私の生命線です。上に戻っても決して! いいですか? 決して!!! 私の仮面の下については誰にも言わないでくださいね? 絶対ですよ?
 い い で す ね ?
 キラーン、紅の魔眼がルビーのごとき不吉な光を放つ。
 クリスティーヌはもはや言葉もなく、ただ赤べこのようにひたすらウンウン頷き続けたのだった。



 再び湖に駆け戻ってきて、切れた息を整えるクリスティーヌ。
「こわ……怖かった…」
 分別も何も、あったものでなかった。
 真実の彼を拒絶しない、受け止めてみせると心に決めたのに。真実の彼を見た瞬間、ただひたすら彼から遠ざかることのみを考えて、がむしゃらに走って逃げ出した。
 あの決意は何だったのか?
 何も知らぬ浅はかな小娘の、ただの見栄と言われても仕方のないふるまいだ。

「わたし……彼を傷つけてしまった…?」
 戻らなければ、と思った。
 でもその意に反して地につけた手足は持ち上がらなかった。

「クリスティーヌ、そんな所にいると濡れてしまうよ」
 水際でへたり込んでしまったクリスティーヌに、後ろから話しかける声がする。
「あなたは…」
 いつの間に距離を詰められていたのか……まるで最初からそこにいたかのように青年が2人立っていた。
「俺、柚木 貴瀬(ゆのき・たかせ)。よろしくね」
「俺は柚木 瀬伊(ゆのき・せい)だ。こいつとともにここで下働きをしている」
 ということにしておこう、というのが2人で前もって話し合った設定だった。
 だがその言葉にクリスティーヌは眉を寄せた。
「でも、今までお会いしたこと…」
「それはね、きみがここへ来た当初、うかつにきみの前に姿を現さないようにってエリックから指示があったんだよ。ここにいるのが男性ばかりだと、きみが警戒心を起こしてしまうんじゃないかって」
 ここまでは予想の範囲内と、貴瀬は先からの柔和な笑顔を崩さず説明をする。
 こういうことは貴瀬に任せるに限ると、瀬伊は貴瀬の後ろで黙って立っていた。
「――クリスティーヌといいます。よろしく…」
 差し出された手を借りて立ち上がるクリスティーヌ。
「クリスティーヌ。さっそくだけど、館に戻らないか? もう真夜中で、この時間水辺は冷える。手が氷のようになっているよ。体調を崩したら大変だからね」
 貴瀬はここぞとばかりに最上級の笑顔でにっこり笑った。


「……顔色がよくないね。何かあったの?」
 部屋には戻りたくないと言う彼女を、ひとまず応接間へ誘導した2人。瀬伊のともすロウソクの明かりが増えるにつれて、クリスティーヌの青白い頬に気づいた貴瀬がそう問いかけた。
 そっと頬に触れようとした手をすり抜けて、クリスティーヌはテーブルへと近寄る。
「座らない?」
 貴瀬たちを無視する気はないらしい。首を振って断り、そのままそこで憂い沈むクリスティーヌの横顔を見やりながら、貴瀬は1人用ソファにかけた。瀬伊は、肘置きに浅く腰掛ける。
「何か、つらいことがあるのなら話し相手になるよ」
「必ずしも解決につながるとは限らないがな」
「瀬伊!」
 ぎょっとなった貴瀬があわててストップをかける。しかし瀬伊はさらに続けた。
「だが少なくとも吐き出すことであなたの心は軽くなるだろうし、口に出せばあなたにも何か見えてくるものがあるのではないか?」
 クリスティーヌはその提案に応えるように、しばし2人を見つめた。
 何かを見定めるような視線が伏せられ、やがて彼女はぽつりぽつり、話し始めたのだった。


「ふぅん。そんなことがあったんだね。それで、キミはどうしたいの? 彼が恐ろしい? 彼を遠ざけたい?……キミに歌を教えてくれた恩人なのに?」
「――貴瀬、先走りすぎだ」
「……わたしは……分からないんです…。あの人は、父の死によって無気力になっていたわたしを見出し、叱りつけ、再び音楽への情熱を取り戻してくれました。そんな彼に応えようと、わたしも懸命に努力しました。非凡な彼の作り出す音楽の世界はたまらなくわたしを魅了してやまず、わたしの魂を揺さぶり、掴んで放そうとしない。
 でもわたしは? 彼にとってわたしは、彼の音楽を完璧に奏でるための楽器、ほかの楽器よりほんの少し秀でた名器でしかないのかしら?」

『さあクリスティーヌ・ダーエ。天上の妙なる調べを地上の人間たちに少しだけ聞かせてやるといい』

 あのガラ・コンサートの夜、<音楽の天使>はそう言った。カルロッタのことは気にしなくていいと。
 まさか彼がカルロッタを事故に合わせていたなど夢にも思わず、わたしは初めて掴んだ栄光の舞台にわれを忘れて歌い続けた…。

「――そして彼は言うの。「わたしたちはきみの声で、パリ中の人々をあっと言わせるんだ」と…」
「……キミは? 彼を思っている? 愛している? 愛してほしいの?」
「いいえ…!」
 思わず出てしまった言葉を戻そうとするかのように、クリスティーヌは両手で口元をおおった。
 その指がぶるぶると震え、やがて震えは体全体におよんでいく。
「――いいえ、いいえ…」
 クリスティーヌはかぶりを振り、きゅっとテーブルの上でこぶしを作った。
「彼を信頼し、大切に思っています。彼はすばらしい人。でもわたしは彼の魂が作り出すものに惹きつけられているだけ。炎に集まる羽虫のように……それがおそろしいものであると知りながらも、近寄らずにはいられない。
 でも、これが愛? いいえ、これは愛ではありません」
 なぜなら、わたしは愛がどういうものか知っているから…。
 胸に浮かんだ愛しいひとの面影に、ほんの一瞬、クリスティーヌは心を傾けることを己に許した。
 決してかなうはずのない想いに。

 それを見逃す貴瀬ではない。
「キミは彼を愛せない。なのに彼には愛してほしい?」
「貴瀬、そうあまり追い詰めるな」
 耳元近く、小さな声で瀬伊の叱責が飛ぶ。
 貴瀬は心外だと言いたげに片眉を上げた。
「べつに責めてないよ? ただ、彼女の真心がどこに向いているのか知りたいだけ」

「……わたしは、ただの人形ならよかった。ネジを巻かれ、彼の望むままに歌い、演じて、クルクルと回るオルゴールドールならよかった。でもわたしは人間だから…」
 楽器のように扱われるのはたまらない。

「彼から逃げ出したい? もしキミが本気でそう思うのなら、俺たちが手を貸すよ」
 貴瀬の言葉に、クリスティーヌはさびしげな笑顔で首を横に振った。
「彼は……オペラ座の幽霊でも、音楽の天使でもないけれど、わたしを救ってくれた<声>であることは間違いないの。わたしは恩知らずではないわ。
 それに、あの人は言ったの。あの人が生きるためには、音楽を生み出すためには、わたしが必要だ、って…。彼はわたしがいなくなったら、きっと、音楽をやめてしまうわ。ううん、死んでしまうかもしれない。あれは、神様が地上の人間にお与えくださったもの。あれほどの才能をこの世から失わせることは、神に対する冒涜よ」
 だから、彼から離れることはできない。
 こんなにもおそろしいのに!
 ただ彼女をオペラ座で歌わせたいというだけの理由で彼のしたことを考えるだけで、嫌悪に臓腑がよじれる思いがする。

 こわい……おそろしい……彼からは死臭がする……あんなに美しいものを作り出せるというのに……身も心も腐臭にまみれている……ああ、墓土が自分にまでふりかかってくるようだ。
 生きながら埋められるような圧迫感が胸をふさぎ、二度と息ができなくなるのではないかとさえ思えてくる。
 考えなければ。彼とともに生きる道を。

 彼女が必要だと魂で叫ぶ、あのおぞましい化け物と!

「――あなたが大切な人を強く想い、その者を思いやる気持ちを忘れなければ、きっと未来は明るい方向へ進むだろう。
 決して、諦めてはいけない」
 胸に手をあて、溺れまいと懸命に息をしているかのようなクリスティーヌを見て、瀬伊は予言のようにつぶやいた…。