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■第7章

「ここは…」
 クリスティーヌは重い頭を上げた。
 真っ暗な部屋で寝かされている。あかりは枕元のサイドテーブルに乗ったロウソクのみで、月明かりが差込みそうな小窓ひとつない。
「たしか……わたし…」
 眠りから目覚め始めた頭で、昨夜の出来事を振り返った。

 舞台に何か、人のようなものが落下したと思ったら、客席からラウルが飛び出して、そして――――爆発が起きた。
 それを見た瞬間、クリスティーヌは控え室に駆け込んだのだ。
「ああ……やめて! 彼を傷つけないで! お願い!!」
 と。
「そのかわり彼とは会わない、二度と口もきかない、そう約束したはず! わたしはちゃんと守っているわ!」
 なおも言いつのるクリスティーヌに、やがて、いつものように楽屋の鏡の向こうから<声>が語りかけてきていた。

 ――いや、あれは声だったろうか? 言葉だったろうか?

 その<声>を聞いた瞬間から、彼女はどこか夢の世界にいるような、妙に現実味のない感覚を覚えるようになった。
 ゆらゆら揺れる視界、ねじれる鏡。
 自分を映していたと思ったら、急にぴかっと光って、次の瞬間真っ暗な穴になった。
 吸い込まれるように中を覗き込んでいたら、いつの間にか天地が逆さまになり、かたかた周囲が揺れた。
 何か、ぴちゃりと冷たいものが顔にはねかかり――後日、それは地下を流れる川の水だと彼女は知った――手足にも冷たいものが触れたような気がした。

 そして今、ここにいる。

 <声>が、どうにかして彼女をさらい、見知らぬこの場所へ連れてきたのだ。
「ああ……音楽の天使…。どうしてこんなことを…」
 クリスティーヌは涙をこぼした。



 やがて、クリスティーヌの耳はかすかな音を拾った。
 とぎれとぎれに聞こえてくる、何か、高い音。メロディ?
 薄暗がりの中、クリスティーヌはロウソクを手に立ち上がり、まずはドアを探した。
 手探りでドアノブを探りあて、回す。期待はしていなかったのだが、意外にもドアは開き、鍵はかかっていなかった。
 廊下に出ると、音は少し強くなる。
 追うように進むうち、音は音楽になり、それはハープの音だと分かった。

「ここから聞こえてくる…」
 ドアに耳をあて、それを確認したクリスティーヌは、意を決してドアノブを回す。
 そこもやはり窓のない部屋だったが、あちこちに立てられた数十本のロウソクのおかげで、暗すぎるということはなかった。
「あなたは…?」
 部屋の中央に置かれたハープの前で、白い外套を着た男性がやわらかな音楽を奏でている。
(この音楽――デスデモーナの愛の歌だわ)
 音楽の天使に習った曲。

 では、この人が音楽の天使? わたしにレッスンを授けてくれた<声>なの?

「――やあ、目が覚めたんだね、クリスティーヌ」
 ハープを奏でていた手を止め、<声>――ラムズ・シュリュズベリィ(らむず・しゅりゅずべりぃ)はくるりとイスを回転させ、振り返った。
 純白の外套にベストというのはまだしも、医師用のマスクで顔のほとんどが隠れていて、目元しか見えない。

(本当にこれは音楽の天使なの? それとも全然別の人に、わたしは誘拐されたとか…?)
 恐怖をつのらせ、一歩も進めなくなるクリスティーヌ。
 そのまま廊下に飛び出し、助けを求めて叫びながら走ったら逃げ出せるだろうか? そう考え始めたとき。

「いらっしゃい、クリスティーヌ」
 そんな声が、医師用マスクの男の後ろから聞こえてきた。


 一歩近づいてみて初めて気づいたのだが、<声>の向こう側にはもう1人男性がいた。
「やあ、はじめまして。俺は御剣 紫音(みつるぎ・しおん)。エリックに歌を習っているんだ」
「歌を…?」
 彼に促されるまま、隣のイスに腰掛ける。
 誘拐され、見知らぬ場所で見知らぬ男性2人に囲まれて。未婚の若い女性であれば、普通なら警戒しなければいけないのだろうが、この紫音という男性は、なぜかそういう気持ちを起こさせなかった。
 いかにも高い教育を受けた貴族階級の者であることをうかがわせるしゃべり方やふるまい、清潔な服装、そしてちょっぴり女性的な雰囲気が、彼に対する警戒心を薄れさせているのだと思った。

「そう。だって彼の音楽は、本当にすばらしいからね」
 笑顔で言う彼に、クリスティーヌも笑顔を返した。
 貴族と話せるようなことなど何もないと、すっかり緊張していたが、音楽の話なら分かる。
 そして、彼の言うエリック――音楽の天使が、すばらしい声と才能の持ち主であることも。

「おっと。俺もいるぜ?」
 カチャッとドアノブが回る音がして、紅茶の乗ったトレイを手にした青年がまた1人入ってきた。
「俺、アキラ・セイルーン(あきら・せいるーん)。よろしくな」
「あの……あなたも…?」
「ああ。楽譜もろくに読めないけどね!」
 カチャカチャ紅茶をテーブルの上にセッティングしながらウィンクを飛ばしてくる彼に、クリスティーヌも思わず笑ってしまう。

(わたしだけじゃないんだわ、彼の声に惹かれたのは。なぁんだ)
 なぁんだ…。
 ふっと肩から力が抜けて、くすくす笑いが止まらなくなった。
「お? 何? なんか笑えること言った? 俺」
 きょとん、とアキラがクリスティーヌを覗き込み、紫音を見る。
 紫音も、さっぱり分からないと肩をすくめて見せる。
 その横で、イスにかけたラムズがさっそく紅茶に口をつけている。

 クリスティーヌはしばらく笑い続けた。



「なぁなぁエリック。早く教えてくれよ」
 休憩タイムもそこそこに、紅茶をぐびぐび飲み干したアキラがせっついた。
 振り返り、エリックを見て――――――あれ? あんな赤い筋、あったっけ?
「エリック、ここ汚れてるよ」
 目尻の下をさす。
 エリックは指摘された箇所を、こすこすと指でこすった。――薄く伸びて広がっただけに見えるが。

(あれ、血とか? まさかなぁ…)
 アキラは、そうだったらマジ腰抜けるぐらい怖すぎるから、との理由で、この懸念をパッパと打ち消した。

「――で。
 えぇっと、教育? ですか?
 ああ……いえ、そういえばそういう約束でしたね…」
「おいおい。しっかりしてくれよ」
「すみませんねぇ、何分忘れっぽいものでして…」
 エリックがよろよろと立ち上がり、自分のハープに近づく。

 ……なんか、なめくじの道みたいなぬらぬらしたものが床についてるんですけどー。

 なにしろロウソクの光だけの室内。濡れていることは分かっても、それが何なのかまでは分からない。
 何か、カケラのような物まで落ちてるんだけどー。

(き、きっとあれは体液だ、汗だ、エリックは汗かきなんだ!)
 じゃなかったら一目散に走って逃げ出すくらい怖すぎるから、との理由で、紫音はさっさと目をそらした。
 視界に入れさえしなければ、きっとなかったことにしてしまえる。

「あの……大丈夫ですか? エリック。顔色が悪いみたいですが」
 クリスティーヌが心配げに小首をかしげるのに対し、エリックは
「あかりがロウソクだからじゃないですか? ……大丈夫ですよ? 歌のレッスンくらいなら、支障は出ませんからね」
 と、応じてみせた。
 その声があまりに普通だったから、クリスティーヌもほっとして、それ以上言うのはやめることにした。

 たとえ、腹部がモコモコ動いていて、ときどき、鳥だか小動物だか分からない生き物がゴニョゴニョグチグチいうような音が小さくしていても。
 眼窩から赤い液体がぷつぷつ盛り上がっていたとしても!

(……きっと、おなかが鳴ってるのよ。そうよ!)
 じゃなかったら気絶するくらい怖すぎるから、とクリスティーヌは自分に言い聞かせた。

 そして3人に対する歌のレッスンが始まった。
 最初のうち、高音はきんきんするし、低音はよく出なかったし、中間の音はかすれていたが、声を出しているうちに喉がやわらかくなり、よく伸びるようになった。
 エリックは呼吸の仕方から直すように指示し、ブレスの位置も細かく定めてそこ以外での息つぎを許さなかった。

「歌は、ただ肺から空気を出せばいいというわけではありません。胸で声を響かせるのです。こういうふうに…」

 エリックはバリトンの深い低音も、アルトの艶っぽい中音も、ソプラノの天に届くような高音も、自在に操った。
 遠くまで声を届かせる発声法を、その音色をかすれることなく維持するブレスを、3人に伝授した。
 自分の、これまであるとも知らなかった力がどんどんどんどん高みへと引き上げられていく高揚感に酔い、3人は時間も忘れてレッスンに励み――エリックの変化に気がつけなかった。(というか、3人とも目をそらしていたというか…)

     あの人にわたしの心を伝えておくれ
     わたしの願い わたしの想い
     やさしい春の花たちよ
     彼女の唇に触れた その花びらが
     甘いくちづけを届けてくれたらいいのだが…


 エリックのハープの音に合わせて、三重唱を奏でる3人。
 美しいハーモニーの余韻に、3人が手をとりあって喜び合っているとき。

 エリック――ラムズは魔鎧り・り・しょごす(りり・しょごす)によって、半ば以上食べられていた。

「あれ? エリックは?」
 ふと、アキラが彼の不在に気づいてそちらを振り返る。
 そこにあったのは、濡れた床と、汚れた外套と、何かの残骸っぽいカケラのみ――――。

「ぜ、ぜぜぜ、ぜnnぶ、たたた、食べ……うまmmmかtttぁ〜〜〜♪」



 翌朝。
 朝だと思う、と、のちにクリスティーヌはラウルに語った。
 なにしろ陽が差し込む窓がどこにもないのだから、時間を感じようがない。
 通風孔はあって、風は流れていたが、湿っぽい空気から地下だろうとの見当は彼女にもついていた。
「時計はあったから、時間を知ることはできたの。でも、それが朝の8時なのか夜の8時なのかは分からなかったわ」

 正確に言えば、その時計が合っているのかすら定かではなかったのだが、疑ったところで従うよりほかに手立てはない。
 クリスティーヌはその時計で時間を計り、1日をすごすことにした。

 そして何日目かの朝。
 おいしそうなにおいが漂ってきて、クリスティーヌは目を覚ました。
 においに誘われて、とある一室に足を運ぶ。
 そこには、テーブルにかけたエリックと、彼の前に料理をセッティングするメイド服の少女がいた。

「おはよう、クリスティーヌ」
 膝に広げていた譜面から顔を上げ、エリック――本郷 涼介(ほんごう・りょうすけ)は穏やかにそう言った。
 顔の半分以上が隠れる白い仮面をつけているため、表情はほとんど伺えない。ただ目元と口元が見えるだけだ。
 しかしそれも、もうクリスティーヌには見慣れた姿だった。
「作曲……ですか?」
 彼の手元を覗き込みつつ、クリスティーヌも席にかける。
「はい、どーぞ」
 メイド役にノリノリのヴァルキリーの集落 アリアクルスイド(う゛ぁるきりーのしゅうらく・ありあくるすいど)が、温めてあったティーカップにアップルティーをそそいでクリスティーヌの前に置いた。
「ありがとう」
 クリスティーヌに笑顔で応えてもらって、アリアはご満悦だ。
 てきぱきナイフとフォークを並べて、プレートの上にかぶせてあった保温カバーを持ち上げる。
「おいしそう…」
 素直なクリスティーヌの反応に、アリアの笑顔がますます輝いた。
「待ってて! すぐにパンも焼きたてができますからねーっ」
 ぱたぱた。
 足音を響かせてアリアは隣の部屋に駆け込んでいく。
 せっかく服装も、クリスティーヌへの対応もメイドらしくできたのに、と残念な気持ちで見送るエリック。
 クリスティーヌの視線が自分の手元に落ちているのに遅ればせ気づいて、ペンをテーブルに戻した。
「行儀が悪かったね、ごめん」
 譜面をたたみ、組んでいた膝をほどく。
 それをペンの横に置いたとき、小さな風が起きて、ペンがコロコロ転がる。床に落ちたそれを拾おうとした2人の手が同時に伸びて、額がこつんと触れ合った。
「……あ。ごめんなさい」
 ずれそうになった仮面にすかさず手をあてたエリックに、思わずクリスティーヌが手を伸ばした。
 触れかけた指先を拒み、エリックは身を退く。それを見て、クリスティーヌは自分がしてはいけないことをしてしまったことに、遅れて気づいた。
 引き戻した手を胸に抱き込むクリスティーヌ。
 少し気まずい沈黙が流れる。

「……安心して、クリスティーヌ。きみが危ない目にあうことは決してないんだから」
 叱責を覚悟していたクリスティーヌに、エリックは優しい声でそう告げた。
「エリック…」

「はーい。おまたせー、焼きたてほかほかのパンだよっ」
 アリアが大皿いっぱいに山積みしたパンをトレイに乗せて運んできた。
 ほかほかと白湯気をたてて、おいしそうなにおいが部屋いっぱいに広がる。
「これ、エリック様が作ってくれたんだよ! ほかの料理も全部ね!」
「全部じゃないよ、アリアも手伝ってくれただろう?」
 すごいでしょ、と自分のことのように胸を張るアリアに、エリックが照れながら訂正する。
「ボクが手伝ったのなんか、ほんのちょっとだもん。すごいでしょ? エリック様はもっともっと、いろーんなおいしい物作れるんだよ! 夕食も期待しててね!」
「アリア…」

 2人から、互いを思いやる、ほんわかとした暖かい雰囲気がただよって。
 出された料理も、紅茶も、本当においしくて。
 クリスティーヌは自分の聞き間違いだったに違いないと、すぐに自分の中から押しやってしまった。

 先ほど聞こえた

「この仮面の下を見ようとさえしなければね…」

 というつぶやきは…。